対決宣言。無条件の愛を否定・弾圧する邪悪な思想に対する反駁。~ストーカー規制法事件を通して~

今回の事件を通して客観的に明らかになったのは(福音の弁明と立証1参照)、私は物理的強制力を一切行使しなかったが、国家権力は私に対して物理的強制力を行使したという事実、また日本国はこのことを法律で正当化しているという事実である。
また今回の事件を通して、条件づけられた愛を肯定しこの思想に支配されている人達が、無条件の愛を肯定しこの思想に支配されている私に対して、物理的な強制力を行使したことによって、無条件の愛という思想を否定し弾圧したことが、客観的な事実として明らかになった。
しかし、たとえいかなる脅迫や物理的強制力を受けたとしても、私は思想の弾圧に対しては決して屈服しない。ここに私は宣言する。条件づけられた愛を肯定し、邪説であるにもかかわらずこれをあたかも守るべき道徳規準や価値基準のようなものとして押し付け、厚顔にも人間を強制し、脅迫し、隷属させようとする思想に対しては、私は決してこれに支配されない。却ってこれを邪悪なものとして否定し、地上に生きている限り徹底的に対決するものであると。

★警視庁ストーカー対策室 巡査部長 A 刑事 との会話と状況の記録(一部)
<※2019年6月14日、A刑事本人より「自分の名前をネットに実名で書くのはやめて欲しい。頼むからやめて欲しい。」「ネットで自分の名前を検索すると出てきちゃうから。ネットで自分の名前が全世界に配信されるのは嫌だから。」という申し出があったため、実名表記を匿名表記に変更しました。>

2016年11月17日(木)午前6時45分、杉並区成田東の自宅に、A刑事をはじめ、巣鴨警察署の方々5~6名が来る。部屋の中に入り、家宅捜索。私の携帯電話、私のパスモ、私のパソコン、私の手帳等を押収する。その後、私は路上に止めてある自動車に連れて行かれ、車中で逮捕。そのまま巣鴨警察署まで移送される。午前8時台に巣鴨警察署に到着する。私の取り調べ担当はA刑事。生活安全課内の取調室にて、A氏は私との会話をもとに、先ず私の身上調査書、次に私の弁解録取書をノートパソコンに記録していく。取調室のドアは常時開放されており、並んだ事務机と警察官の方々、生活安全課の様子が見える。弁解録取書を取り終わったのは午前10時台。弁解録取書での最後の会話記録。

A氏「あなたは純粋な恋愛だと思っているのか」
私「純粋でない恋愛は不潔で卑しい。」
A氏の顔色が変わる。
A氏「最後に何か言いたいことはあるか?」
私「私は○○ちゃんを拘束したり監禁していないのに、こうして逮捕されることによって私が拘束され監禁されるのは理不尽であるし不当だと思います。」
A氏のパソコンを打つ手と指がプルプルと震え出す。A氏は立ち上がって言う。
A氏「あなたには私もいっぱい話したいことがある。明日楽しみに待ってろよな!」

A氏は席を外し携帯電話でどこかに連絡を取っている様子。しかし結局、A氏とはこの後11月21日(月)まで会うことはなかった。私は取調室で3時間以上待たされる。やがて巣鴨警察署の方の一人が私のもとに来て「巣鴨警察署は留置場がいっぱいだから他を探している。」と言う。取調室のドア越しに、立ってヒソヒソ話しをする2人の警察官が現われ、私の方をチラチラ見ながら嘲笑う。その後、巣鴨警察署の方々と共に車で麴町警察署へ移動。15時台に巣鴨警察署の留置場ではなく麴町警察署の留置場に入る。私はこの時、翌日はA氏の取り調べがあるのだろうと思っていた。

翌日11月18日(金)午前9時27分、初回の検事取り調べ(新検調べ)があると言われ、警察官の先導のもと、麴町警察署留置場から護送車の待つ駐車場へ階段を下りる。階段を下りて外が見えると門扉越しに多数の報道機関の方々がカメラを向けて待っており、一切音を立てず、フラッシュなしで私を一斉に撮影。私を先導する警察官の方は、報道機関の方々が撮影し易いように、護送車の前で無言で一時停止をした。護送車の窓は通常、中の様子が見えないように黒フィルムがはられているのだが、この時の護送車の窓は中の様子がよく見える、黒フィルムのはられていない透明な窓だった。検察庁には警視庁管轄の全ての留置場から、その日検事取り調べや裁判のある方々が集まって来るのだが、この日、巣鴨警察署から来たのはたった2名だった。検察庁から麴町警察署留置場に戻ったの18時30分頃で、その日はA刑事の取り調べはなかった。

またA刑事との取り調べはその後、11月21日、22日、25日、27日、28日、29日、12月4日の7回あったが、その度毎に取り調べだけにとどまらず、「あなたの行為は紛れもなくストーカー行為だ。」という内容の発言を繰り返し、私に対して執拗なすり込みを行った。

★A氏との会話と状況の記録から私が思うこと

A氏は私の実名と肖像を報道機関に晒す判断と決定をした実行責任者である。

「A氏『あなたは純粋な恋愛だと思っているのか』
私『純粋でない恋愛は不潔で卑しい。』
A氏の顔色が変わる。」
ここから、A氏は純粋な恋愛というものを全く経験したことがないか、純粋な恋愛というものを全く認めないか、あるいは絶対に認めたくない人だということが窺える。

「A氏『最後に何か言いたいことはあるか?』
私『私は○○ちゃんを拘束したり監禁していないのに、こうして逮捕されることによって私が拘束され監禁されるのは理不尽であるし不当だと思います。』
A氏のパソコンを打つ手と指がプルプルと震え出す。A氏は立ち上がって言う。
A氏『あなたには私もいっぱい話したいことがある。明日楽しみに待ってろよな!』」
ここから、A氏が私に対して激怒していること、怒りと憎悪の個人的感情に強く支配されていることが窺える。

そして11月18日にA氏が私を取り調べに来なかったことにより、私は前日のA氏の「あなたには私もいっぱい話したいことがある。」という言葉が嘘であること、「あなたには私もいっぱい話したいことがある。明日楽しみに待ってろよな!」で言いたかったことは、「私はあなたの逮捕と送検日時・場所の情報を七社会・警視庁記者会・ニュース記者会に知らせるので、明日あなたは多数の報道機関の方々に撮影され報道されるだろう。覚悟しておけ。」という意味であることが分かった。
ここから、A氏が私に対する怒りと憎悪の個人的感情を充足させる目的で、私を社会的に抹殺しようとしている意図が窺える。

「『あなたの行為は紛れもなくストーカー行為だ。』という内容の発言を繰り返し、私に対して執拗なすり込みを行った。」
ここから、A氏が私に対する怒りと憎悪の個人的感情を充足させようとしていることが窺える。

★東京区検察庁 高橋 俊輔 検察官事務取扱検事 との会話と状況の記録(一部)

私の取り調べ担当検事は高橋俊輔氏。高橋検事の取り調べは11月18日、24日、30日、12月5日、6日の5回あった。2016年11月24日(木)15時45分から16時30分まで2回目の検事取り調べがあり、その際、高橋検事は次のように言った。
高橋氏「18歳未満は恋愛禁止。法律に規定がある。」
私は本当にそんな法律があるのかと思い、ずっと気になっていたので、12月6日の5回目の検事取り調べの時に思い切って高橋氏に聞いてみた。
私「検事さんは以前、18歳未満は恋愛禁止だとおっしゃっていましたが、その根拠となる法律は何ですか?」
高橋氏「東京都の条例で決まっている。」
私「民法では女性は16歳で結婚できますよね?」
高橋氏「親の同意がなければならないので、それは事実上難しい。」

また、高橋検事は取り調べの際、次のように発言した。
「今回の件は、カードを入れたこと自体が、処罰の対象となっている。」

★高橋氏との会話と状況の記録から私が思うこと

高橋氏は私を2016年11月17日(木)~12月7日(水)まで拘束・監禁し、私についての公訴を提起し、略式命令を請求した実行責任者である。
高橋氏の「18歳未満は恋愛禁止。法律に規定がある。」「今回の件は、カードを入れたこと自体が、処罰の対象となっている。」という発言から、高橋氏は年齢によって条件づけられた愛を強制し、無条件の純粋な愛を弾圧しようとしていることが分かる。この発言は行為の弾圧ではなく、思想の弾圧である。

また未成年者の結婚について、高橋氏の「親の同意がなければならないので、それは事実上難しい。」という発言から、高橋氏は結婚の当事者である子供の自由意思や自己決定権よりも、結婚の当事者ではない親の意志と決定権を尊重しているということが分かる。しかしこれは、民法737条1項に「未成年の子が婚姻をするには、父母の同意を得なければならない。」と記されていることから、高橋氏個人の思想ではなく法律の根底を支えている思想そのものであると言うべきである。子供の自由意志と自己決定権は、親の意志と決定権に帰属する、すなわち子供は親の所有物であるという思想である。しかしこの、子供は親の所有物であるという思想は、神の教えでは否定されるべきものであることを以前私は論じた(福音の弁明と立証81参照)。

★今回の捜査における危険性の指摘

また今回の捜査は、相手の方本人が私に好意を持っているという可能性は全く除外された。私が何回か担当刑事に「相手の方が私に好意を持っている可能性があります。」と言うと、頭ごなしに「それは全くあり得ない」と決めつけ、一切耳を貸さず、全然取り合おうとしなかった。その様子はむしろ意図的にこの可能性を排除しているようにも感じられた。また私は2016年12月13日(火)、担当検事に、相手の方本人が私に好意を持っている可能性から、カードについてある捜査を依頼した。しかし担当検事がある人物にこの捜査の許可を求めたところ、その人物が「捜査は望まない」と返答したために却下され、行われなかった。何らかの忖度があると考えるのが自然だろう。そもそも捜査というものは真実性や公平性を期すため、あらゆる可能性を排除してはならないはずである。しかし今回、捜査のこの大原則は守られなかった。初めから結論ありき、シナリオありきの捜査、まことに恣意的な捜査であったと言わざるを得ない。私が敢えてこれを指摘するのは、もし相手の方が私に好意を持っているとしたら、今回の事件は結果的に国家権力が相手の方本人の自由意志と自己決定権を蹂躙したことになり、国家権力が相手の方本人に対して、取り返しのつかない、看過できない重大な人権侵害を犯したことになるからである。誰を好きな人として選ぶのかという意志と、誰を選んで結婚するのかという決定権はたとえ未成年であっても本人だけに帰属するものである。なぜなら誰を好きな人として選ぶか、誰を選んで結婚するのかという問題は言うまでもなく、成年・未成年にかかわらず人間が幸福に生きるために非常に大切なことだからである。この自由意志と自己決定権は、たとえ国家権力であろうと親権者・監護権者と呼ばれる人であろうと決して侵害してはならないのである。

★無条件の愛を否定・弾圧する邪悪な思想に対する反駁

私は先に条件づけられた愛を邪説であると言って、正邪つまり善悪の価値判断を下した。条件づけられた愛が邪説であることの根拠は聖書にある。すなわち主イエス・キリストの教えの中で最も大切なものは次の2つである。一つ目は「イスラエルよ、聞け、私達の神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」であり、もう1つは「隣人を自分のように愛しなさい。」である(福音の弁明と立証32参照)。
「愛しなさい」とあることから分かるように、神の教えでは愛することは実に命令である。「愛してよい」という許可でも、「愛してはならない」という禁止でも決してない。実際、主イエスは愛することを禁止したことは一度もない。主イエスは「愛しなさい」とだけ教え、愛することをひたすら命令するのみなのである。ただ聖書全巻を通して、人間が偶像を、つまり神でないあらゆるものを愛してはならないということは読み取れるが(福音の弁明と立証55,151,158/神学の森35参照)。
だから人間が愛さなかったり、人間が何か自分に都合の良い理由をつけて愛することを禁止したり、何か自分に都合の良い理由をつけて愛することを条件づけて部分的に禁止したり、或いは人間に過ぎないにもかかわらず居丈高に振る舞って愛することを許可したりするのは、神に反逆する思想であり、唾棄すべき邪悪な思想に他ならない。このような思想をあたかも正当なものであるかの如く吹聴して奨励したり教え広めたりする人々や、このような思想に支配された人々は、悔い改めて福音を受け入れない限り、神に逆らう者として、神の裁判の際、罪に定められるということを知るべきである(福音の弁明と立証54-82参照)。今回の事件で明らかになった客観的事実はそっくりそのまま、来たるべき神の裁判における神に逆らう者に対する起訴状でもあるのだ。
「主は御自分に従う人が主に逆らう者の手中に陥って裁かれ/罪に定められることをお許しにならない」(詩編37編33節)
「主に従う人を憎む者は罪に定められる。/主はそのしもべの魂を贖って下さる。/主を避けどころとする人は罪に定められることがない。」(詩編34編22-23節)
しかし私はキリスト者である。主イエスの次の言葉を傾聴する者である。「私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書5章44-48節)
また「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。あなた方を迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ローマの信徒への手紙12章9,14節)という言葉を実践する者である。だから私は、私を憎悪する者達に対して、私に対して物理的強制力を行使することによって無条件の愛を否定し弾圧する者達に対して、彼等が救われるように、神の裁判の際罪に定められることのないように、邪悪な思想に支配された奴隷状態から解放されるように、悔い改めて福音を受け入れて真に自由にされるように、祝福されるように、神に祈ろう。私は彼等を愛そう。そして私自身が、自分とは相容れない思想を持つ者に対して物理的な強制力を行使することを是とする人間とは、本質的に全く異なる人間であることを証明しよう。

慈しみ深い神よ、あなたは造られた全ての人を愛し(福音の弁明と立証27参照)、罪人が死ぬことを望まれず、主に立ち帰って生きることを喜ばれます。どうかあなたを信じない人々、十字架にかけられたキリストへの信仰を拒む人々をみ心に留め、その気づかないでいることを悟らせ、み言葉を軽んじる心とかたくなな心とを除き、主イエス・キリストに従わせて下さい。そしてどうか彼らに祝福をお与え下さい。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願い致します。アーメン

私は断言する。全ての愛は肯定されなければならない。偶像への愛を除いて。だからこそ、肯定された全ての愛においては、愛の秩序という視点が非常に重要であり、強調されるべきなのである。愛の秩序については以前、私は福音の弁明と立証の中で詳しく論じておいた(福音の弁明と立証41-45参照)。

繰り返し言う。今回の事件を通して客観的に明らかになったのは、私は物理的強制力を一切行使しなかったが、国家権力は私に対して物理的強制力を行使したという事実、また日本国はこれを法律で正当化しているという事実である。
また今回の事件を通して、条件づけられた愛を肯定しこの思想に支配されている人達が、無条件の愛を肯定しこの思想に支配されている私に対して、物理的な強制力を行使したことによって、無条件の愛という思想を否定し弾圧したことが、客観的な事実として明らかになった。
しかし、たとえいかなる脅迫や物理的強制力を受けたとしても、私は思想の弾圧に対しては決して屈服しない。ここに私は宣言する。条件づけられた愛を肯定し、邪説であるにもかかわらずこれをあたかも守るべき道徳規準や価値基準のようなものとして押し付け、厚顔にも人間を強制し、脅迫し、隷属させようとする思想に対しては、私は決してこれに支配されない。却ってこれを邪悪なものとして徹底的に否定する。何歳以上は愛してよい、何歳以下は愛してはならない、というような、無条件の愛を禁止し、条件づけられた愛を強制する思想は、神に反逆する思想として直ちに粉砕されるべきである。徹底的な否定は絶対的な肯定を前提とする。私は神を肯定する者、すなわち心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主である神を愛する者である。だからこそ神に逆らう邪悪な思想、つまり偶像礼拝の思想は憤激をもって、これを否定せざるを得ないのである。

★全ての未成年者諸君へ

未成年者諸君!今回私の身に起こった事件は君達と無関係ではない。事態は非常に深刻である。私の事態がではない、君達の事態がである。とんでもない事態が今や明らかになった。私の担当検事の次の言葉を聞き給え。「18歳未満は恋愛禁止。法律に規定がある。」「(未成年者の結婚について)親の同意がなければならないので、それは事実上難しい。」これらの言葉は検事一個人の発言ではない。実に日本国を支配している法律体系の根底を支えている思想そのものを代弁しているのである。つまり日本国の法律は、君達が誰を好きな人として選ぶか、誰を選んで結婚するかという、君達に本来備わっているべき自由意志と自己決定権を全く認めていないという事である。法律は未成年者を保護するためだと言うだろうが、決して騙されてはならない。保護するという名目において実は未成年者の君達を都合良く管理し、都合良く支配したいだけなのだ。私の担当刑事の一方的な捜査の態度も見給え。このことを如実に証明している。だから君達は巧妙な隠蔽の裏にある、この事態の本質を見抜くべきだ。こんなにひどい人権侵害が犯罪とされず合法とされ平然とまかり通っていることに対して、今こそ君達は憤らなければならない。私は、君達の自由意志と自己決定権が認められないとか、君達の自由意志と自己決定権が親権者や監護権者に帰属するとは口が裂けても言わない。私は君達を真に愛する。ゆえに私は、現在侵害されている、君達の自由意志と自己決定権を徹底的に擁護するのである。君達が誰を好きな人として選ぶか、誰を選んで結婚するかは、本当に君達の自由である。この自由を居丈高にも制限したり規制したり禁止したりするのは、たとえそれをするのが国家権力であれ君達の親権者や監護権者であれ、人間の純粋性を破壊する許されざる越権行為であり、犯罪とされるべき人権侵害である。君達の自由意思と自己決定権は他ならぬ君達だけのものである。他の誰にも譲り渡してはならないのだ。国家権力にも君達の親権者や監護権者にも。だから君達は、自由意志と自己決定権は自分固有のものであり自分の基本的人権であると自覚的に主張すべきなのだ。無条件の愛を否定・弾圧する邪悪な思想も、子供は親の所有物であるという思想も、君達の自由意志と自己決定権を認めず、君達の基本的人権を侵害する、神に逆らう邪悪な思想であるがゆえに、直ちに粉砕されるべきである。
なぜならこの自由意志と自己決定権こそ未成年・成年にかかわらず人間の尊厳だからである。実際神は人間を創造した際、神を信じて神に従う自由も、神を信じないで神に逆らう自由も人間に与えたのである。まさに自由意志と自己決定権こそ人間の尊厳なのだ。しかし合理性や効率性を追求する、人間の浅はかな知恵や賢さから見れば、これは愚かなことと映るだろう。「なぜ神はそんな回りくどいものとして人間を創造したのか?全能であるのだから最初から自由意志と自己決定権など与えずに、全員神を信じて道からそれないロボットのようなものとして創造すれば面倒臭くなく、全く問題も生じないではないか?」と。しかし神は人間を敢えてそのようには創造しなかった。それは神が人間を愛しているからだ。まさに「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(コリントの信徒への手紙Ⅰ1章25節)のである。
だからこそ未成年者諸君!神から与えられた人間の尊厳である、この自由意志と自己決定権を奪ったり侵害したりする思想に対して、神を信じて、私と共に戦おうではないか!この戦いは暴力や強制力などの物理的な力によるものではない。あくまでも内的で静的な思想によるものである。洞察力や直観力が鋭い人は既に気がついていると思うが、成年・未成年にかかわらず日常生活において今やこの人間の自由意思と自己決定権は危機に瀕していると言うべきである。自由意志と自己決定権を侵害するものは、これから徐々に人間ではなく、人間の作り出した法律や社会システム、AIや人工知能などといったものになり、見えない形で確実に進行していく。事実、現在まさに進行中である。これらのものは勿論、人間が主人として用いる道具としてあるならば、存在してよい。しかし、これらのものが主人となって人間の尊厳である自由意志と自己決定権を奪い去るのであれば、決して存在してはならない。しかし人間は目の前にある日常生活の利益を最優先し、利便性と功利性を追求するので、喜んで自ら自由意志と自己決定権をこれらのものに譲り渡し、喜んで自らこれらのものの奴隷になる。つまり偶像礼拝をするようになる(福音の弁明と立証55,151,158/神学の森35参照)。この流れはもはや止めることはできない。だからこそ思想的に戦い続けることが必要なのだ。
未成年者諸君!君達は純粋な愛を求めている。私もそうである。そして周囲には純粋な愛がないことに絶望する。私もそうである。しかし私は言う。純粋な愛は確かに周囲にはないが、決して絶望したり、嘆き悲しんだりしてはならない。また純粋な愛を諦めたり、まして周囲の惰性に流され、功利的・打算的な不潔な愛に妥協したりしてはならない。純粋な愛とは所与のものではない。純粋な愛とは我々自身が激しい決意と覚悟をもって絶望と対決し能動的に造り上げてゆくものなのだ。そして純粋な愛はただ主イエス・キリストが示されたのである。だから、この方を信じ、古い既存の固定観念や古い既存の社会常識にとらわれず、勇気と希望をもって苦難と困難を乗り越え、私と共に純粋な愛を新たに造り上げてゆこうではないか。
未成年者諸君!君達は私の福音の弁明と立証を読めば、誰が真理に属しているか、誰が真に正しい人であるか、お分かり頂けたと思う(福音の弁明と立証13-47参照)。また正しい人であるということと合法的な人であるということは全く別のことであるということもお分かり頂けたと思う(福音の弁明と立証48-49参照)。正しい人とは、自分の実存を公けに明らかにし、神を信じて福音を受け入れ、洗礼を受けて罪を赦され、神によって正しくされた人である(福音の弁明と立証53,82-92参照)。私がそうである。今回の事件について言えば、私の担当刑事も私の担当検事も自分の実存を公けにはせず、自分の実存を覆い隠したままである。実際彼等は私の携帯電話・パソコン・デジタルビデオカメラ・書籍などを押収し、中に入っている動画・画像・インターネットの接続履歴・交友関係などを全てくまなく調べたり、私の舌の表面からDNAサンプルを採取したりして調べたりしたが、自分達についてのものを調べられることを欲しなかったし、また調べもしなかったのである(福音の弁明と立証3参照)。そして人間の法律や裁判では、これは合法とされ正当化されている。しかし神の裁判では、このような人間の御都合主義によるごまかしは一切容赦されない(福音の弁明と立証54-82参照)。全ての人が実存を公けにされ曝かれるのである(福音の弁明と立証88参照)。
人間は古来より洋の東西を問わず、自分の実存を覆い隠して、自分を正しい人であると偽り正しい人を演じて生きている。しかしそのようなグロテスクな茶番劇は、いい加減に終止符を打つべきだ、慈しみ深く憐れみ豊かな神が今や主イエス・キリストによって人間に救いの道を開いて下さったのだから、神の福音を信じて受け入れ、このような生まれながらに神の怒りを受けるべき状態から救われ、直ちに神と和解するべきだ、というのが日頃の私の主張である。そしてこれは私の主張というよりも、世の終わりと神の裁判を迎えるにあたっての、つまり世界が完成を迎えるにあたっての、人間に対する神からの愛のメッセージなのである。
それだから未成年者諸君!君達は、既存の人間社会の惰性に流されてこのようなグロテスクな茶番劇を自らも演じる者になってはいけない。またいつも既成権力のお先棒をかついでいれば責任を果たしたものと考えるプロパガンディストになってもいけない。両者共に安住自足しており、容易であるが故に当然の如く思われるが、それは致命的な錯覚である。なぜなら主イエスは次のように言うからである。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイによる福音書7章13-14節)と。
グロテスクな茶番劇を演じることもプロパガンディストになることも、その門は広く、その道も広々としている。現実に多くの者がその広い門から入るし、多くの者がその広々とした道を歩んでいる。しかしその広い門とその広々とした道は、実は滅びに通じているのだ。君達は滅びてはならない。君達は命に通じる狭い門から入り、細い道を歩むべきだ。命に通じる狭い門から入り、細い道を歩むというのは、神の福音を信じて、古い行動原理を否定し(福音の弁明と立証96-106参照)、罪の赦しという神の恵みを受けて、新しい行動原理に従い(福音の弁明と立証107参照)、神によって正しい人とされることである(福音の弁明と立証53,82-92参照)。グロテスクな茶番劇を演じることもプロパガンディストになることも、古い行動原理に支配された古い人類の所産である。古い行動原理に支配された古い人類の時代は終わった。それは既に過去のものである。新しい行動原理に支配された新しい人類の時代は、ついに主イエス・キリストの復活と聖霊降臨によって打ち開かれ、始まるのだ(福音の弁明と立証95,139参照) 。
だから諸君!今こそ私と共に、命に通じる狭い門から入り、細い道を歩もうではないか。既に世に対して勝利したイエス・キリストを信じて、新しい行動原理に支配された新しい人類となり、思想的に戦うことによって、グロテスクな茶番劇を演じる者やプロパガンディストの高慢と虚言と偽善を叩き潰し、古い行動原理を粉砕して、私と共に新しい時代を切り開いていこうではないか。
諸君は、新しい時代を切り開いていくのは、地位や名誉や財産に優れていることとか、高度な知識や技術とか、卓越した権力や武力や財力などのあらゆる人間的有能さであると教えられ、そのように思い込んでいるかも知れない。しかしそれは大きな間違いだ。そのような人間的有能さは新しい時代を切り開いていくのには無能である。なぜならそのような人間的有能さは、古い行動原理を否定することができないからだ。そのような人間的有能さは、この古い行動原理に支配された古い時代の惰性を絶望的に積み上げて固めていくことしかできないのだ。
未成年者諸君!実際、私は君達の自由意志と自己決定権を守るためならば、また新しい行動原理に支配された新しい時代を切り開くためならば、自分が物理的に抹殺されることも社会的に抹殺されることも厭わない。自分の犠牲が人類の新しい時代を切り開く礎となるならば、私はむしろそれを喜ぶのである。
私は断言する。新しい時代を切り開くのは決して人間的有能さではない。そうではなく、真の愛を追い求め、高邁な思想に殉ずることを厭わない純粋な青春の情熱と、聖霊の愛の火に燃え立たされた無限の革命精神こそ、新しい時代を切り開いていくのだ。
それだから諸君!私と共にイエス・キリストを主と信じて、罪の赦しという人知を超えた神の恵みに頼り、主の名によって思想的に戦い、父と子と聖霊の名によって古い行動原理と徹底的に対決していこうではないか。実際、主イエス・キリストを信じる者と共に神はおられるのである。主イエスは「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」(マタイによる福音書28章20節)と言われ、また「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)と言われるからである。だから父と子と聖霊である神と共に、この古い行動原理に支配された古い時代にあって、勇者のように雄々しく戦い、ペシミスティックに哄笑しながら前進し、新しい行動原理に支配された新しい時代を切り開いていこうではないか。
私はこれらのことを未成年者だけに語っているのだろうか。いや、むしろ神の言葉を聞くことのできる耳を持つ全ての人に語っているのである。

全能の神よ、あなたはこの世界を愛してみ子を遣わし、全ての人があなたとの完全な和解と交わりの内に生きることができるように望みまた働いておられます。どうか私達を導いてそのみ業を悟らせ、己を献げてこれを証しすることができるようにして下さい。また聖霊によってキリストの福音が正しく宣べ伝えられ、聞く人々はこれを信じ、古い行動原理に支配された、罪と死と悪魔の国は砕け、新しい行動原理に支配された、神の国の門は開かれ、分かれ散った羊の群れはついに一つの群れとなって永遠の命にあずかることができるようにして下さい。主イエス・キリストによってお願い致します。アーメン

[2018/2/21]

★追記。対決宣言の活動・福音の宣教・キリスト教の説教の記録~木田啓介ツイッターより~。

自分の名刺というものを初めて作りました。
これは全ての人に対する私からの福音信仰のおすすめです。どうぞ宜しくお願い致します。
受け取られた方に、私達の父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が豊かにありますようにお祈り致します。
主は私を通して「私について来なさい」(マタイによる福音書4章19節/マルコによる福音書1章17節)と、全ての人を福音信仰に、つまり神の国に招いておられます。
聖書には、洗礼者ヨハネが主イエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」「見よ、神の子羊だ。」(ヨハネによる福音書1章29,36節)と証言したことが書かれています。そして次のようにも聖書には書かれています。「書き記せ。子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」(ヨハネの黙示録19章9節)
受け取られた方に、主イエス・キリストの婚宴の幸いが訪れますようにお祈り致します。

主イエスは十二人の弟子を福音宣教に派遣する際、「私はあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」(マタイによる福音書10章16節)と言いました。私は、人間からではなく神から呼ばれ、選び出され、派遣されて、福音宣教の働きを任命された者ですが、福音宣教の働きというものは、常に敵がいるもので危険ととなり合わせです。なぜなら福音宣教の働きを神から任命された使徒聖パウロも聖書の中で「私の働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいる」(コリントの信徒への手紙Ⅰ16章9節)と書いているからです。しかし彼は次のようにも書いています。「全ての人に信仰があるわけではない。しかし、主は真実な方です。必ずあなた方を強め、悪い者から守って下さいます。」(テサロニケの信徒への手紙Ⅱ3章2-3節)
だから私は、主なる神が福音宣教の働きに従事する私を悪い者から守って下さるようにお祈りします。
「主よ、あなただけは私を遠く離れないで下さい。/私の力の神よ、今すぐに私を助けて下さい。/私の魂を剣から救い出し/私の身を犬どもから救い出して下さい。/獅子の口、雄牛の角から私を救い/私に答えて下さい。」(詩編22編20-22節)
父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによって。アーメン
[2018/11/2]

「いかに美しいことか/山々を行き巡り、福音を伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの福音を伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を/国々の目にあらわにされた。地の果てまで、全ての人が私達の神の救いを仰ぐ。」(イザヤ書52章7-10節)

主なる神よ、あなたが私を福音を伝える者として立てて下さったことを感謝します。私はあなたの僕、あなたの奴隷。あなたの言葉の通り、この身に成りますように。父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによって。アーメン
[2018/11/13]

「主の言葉が私に臨んだ。/『私はあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。/母の胎から生まれる前に/私はあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。』/私は言った。/『ああ、わが主なる神よ/私は語る言葉を知りません。/私は若者に過ぎませんから。』/しかし、主は私に言われた。/『若者に過ぎないと言ってはならない。/私があなたを、誰のところへ/遣わそうとも、行って/私が命じることを全て語れ。/彼等を恐れるな。/私があなたと共にいて/必ず救い出す』と主は言われた。
主は手を伸ばして、私の口に触れ/主は私に言われた。/『見よ、私はあなたの口に/私の言葉を授ける。/見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。/抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。』
私は、わが民の甚だしい悪に対して/裁きを告げる。/彼等は私を捨て、他の神々に香をたき/手で造ったものの前にひれ伏した。
あなたは腰に帯を締め/立って、彼等に語れ/私が命じることを全て。/彼等の前におののくな/私自身があなたを/彼等の前でおののかせることがないように。/私は今日、あなたをこの国全土に向けて/堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として/ユダの王やその高官たち/その祭司や国の民に立ち向かわせる。/彼等はあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。/私があなたと共にいて、救い出すと/主は言われた。」(エレミヤ書1章4-10,16-19節)

主なる神よ、あなたは私を母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出し、福音宣教者として立てて下さったことを感謝します。私はあなたの僕、あなたの奴隷。あなたの言葉の通り、あなたが常に私と共にいて下さいますように。父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによって。アーメン
[2018/11/14]

今朝、ある駅の近辺で、自分の名刺を福音宣教のためのチラシとして配布していたところ、麹町警察署の2人の警察官、奥野直人氏と庄司友樹氏に突然話しかけられ、当該行為を20分程中断させられた。近くの交番で事情を聞きたいとのことだったので私は同行した。
交番で私は事前に取っておいた当該行為のための道路使用許可証を呈示し、私のチラシ配布は正当かつ合法的に行われていると説明した。私は私服の警察官2人が私に話しかけてきたということは、誰かが私を通報したと察し、庄司氏に、私を通報した者の氏名を教えて欲しいと言った。
彼は「それは答えられない」と言って、答えなかった。憤りを感じる。なぜ通報者が匿名で保護されているのか私には理解できない。日本国憲法は、民主主義の根幹である思想・良心の自由、表現の自由、信教の自由などの基本的人権を保障している。
チラシ配布は、基本的人権におけるこれらの保障された自由の重要な表現手段の1つである。通報者の行為は明確なチラシ配布の妨害行為であり、基本的人権を侵害する行為であると言わざるを得ない。その意味で通報者には重大な責任がある。それなのに通報者は匿名のまま保護され、何の責任も問われない。
こんな不合理な話はない。誰だか分からないが通報者には大いに反省して頂きたい。通報者にも自分の言動には責任があるということを自覚して頂きたい。だから通報行為について、無制限な匿名の保護は断じてかけられるべきではない。
今回のような無責任な通報を決して許してはならないし、この日本を通報奨励社会や密告天国のような社会にしてはならないのだ。私は2人の警察官から自分の氏名、住所、電話番号、生年月日、勤務先を聞かれたので、答えた。
そして交番を出る時に、2人の警察官に対して、正当かつ合法的に行われている私のチラシ配布を今後妨害しないで頂きたいという事と、通報者に対して今回の行為は私に保障された基本的人権を侵害する行為なのでやめて頂きたい旨の伝言をお願いした。私はその後中断させられたチラシ配布を再開した。
いずれにせよ私は、神の福音に反対する勢力や救いの道を妨害しようとする勢力に対しては一歩も譲歩しないし、決して屈服しない。ここに改めて宣言しておく。
私は、通報者も2人の警察官も全ての人が古い行動原理を悔い改めて神の福音を信じて救われることを心より祈るものである。
主なる神は、み言葉の通り、常に私と共にいて下さり、敵の手から私を救い出して下さった。 主に感謝。
[2018/11/15]

「主は言われた。『人の子よ、私はあなたを、私に逆らった反逆の民に遣わす。恥知らずで、強情な人々のもとに、私はあなたを遣わす。彼等に言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼等が聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼等は自分達の間に預言者がいたことを知るであろう。人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼等を恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼等が反逆の家だからといって、彼等の言葉を恐れ、彼等の前にたじろいではならない。たとえ彼等が聞き入れようと拒もうと、あなたは私の言葉を語らなければならない。」(エゼキエル書2章3-7節)

主なる神よ、あなたが私を福音宣教者として立てて下さったことを感謝します。私はあなたの僕、あなたの奴隷。どうか、あなたの命令を私が忠実に守ることができるように、必要な知恵と力と勇気を私にお与え下さい。父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによって。アーメン
[2018/11/15]

「高い山に登れ/福音をシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ/福音をエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなた達の神/見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(イザヤ書40章9-11節)

主なる神よ、あなたが私を福音を伝える者として立てて下さったことを感謝します。私はあなたの僕、あなたの奴隷。あなたの言葉の通り、この身に成りますように。父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによって。アーメン
[2018/11/16]

私が自分の名刺をチラシとして配布している近くで、「私(木田啓介)とは関わりを持たないように」という指導をした学校があると知人から情報を得た。その学校は「人を差別しましょう」ということを教育方針として掲げているのだろうか? 少なくとも主イエスはそんなことを教えなかった。
[2018/11/17]

「主である私は、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。私は主、これが私の名。私は栄光を他の神に渡さず/私の栄誉を偶像に与えることはしない。見よ、初めのことは成就した。新しいことを私は告げよう。それが芽生えてくる前に/私はあなたたちにそれを聞かせよう。新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの/島々とそこに住む者よ。荒れ野とその町々よ。ケダル族の宿る村々よ、呼ばわれ。セラに住む者よ、喜び歌え。山々の頂きから叫び声をあげよ。主に栄光を帰し/主の栄誉を島々に告げ知らせよ。主は勇士のように出で立ち/戦士のように熱情を奮い起こし/叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される。」(イザヤ書42章6-13節)

主なる神よ、あなたが私を恵みをもって呼び、福音を伝える者として立てて下さったことを感謝します。私はあなたの僕、あなたの奴隷。あなたの言葉の通り、この身に成りますように。父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによって。アーメン
[2018/11/17]

@N5j4UtRELYoX5TN(?)の発言
そりゃ、こんなことしてる奴が学校近くに湧いたら誰だって警告するだろwwwwwww
日本の法律より神の法律の方が大事だとか言うゴミクズは消えてどうぞww
に対して

? 様
コメントをどうもありがとうございます。
? 様が私のブログをよく読んで下さり、またその内容をきちんと理解されている事に感心しました。? 様が「日本の法律よりも神の法律が大事だとか言うゴミクズは消えてどうぞww」とおっしゃられる通りです。
私は神の法律が大事だと思っています。しかし日本の法律を完全に否定しているのではありません。日本の法律も重要だと思います。ただ私は日本の法律よりも神の法律を優先してるのです。? 様はその事が腑に落ちないと感じていらっしゃるようなので、私はもう少し詳しく説明したいと思います。
私が日本の法律よりも神の法律を優先するのは、決して無視できない基本的前提があるからです。それは「人間は死んで終わりなのではない」という大事な基本的前提です。聖書に「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ人への手紙9章27節)と書いてある事を私は信じているのです。人間が死んだ後に受ける裁き、つまり神の裁判では、日本の法律は適用されません。神の法律が適用されるのです。人間は死後、神の法律によって裁かれ、永遠の命か、それとも永遠の死かのどちらかに振り分けられるのです。
日本の法律は人間が地上に生きている間だけ効力があります。死んだ人には日本の法律は効力を失います。
? 様は私を「ゴミクズは消えてどうぞww」とおっしゃられますが、全くその通りです。私は「ゴミクズ」です。? 様が「消えてどうぞww」と言われるまでもなく、人間は全てあっという間に消えていなくなります。長くてもせいぜい100年位でしょう。聖書にも次のように書いてあります。
「主なる神は土の塵で人を形づくった」(創世記2章7節)、「神はアダムに向かって言われた。『塵に過ぎないお前は塵に帰る。』」(創世記3章19節)、「アブラハムは言った『私は塵と灰に過ぎない』」(創世記18章27節)と。
またキリスト者は、主イエスの受難を覚える季節の始まりである、灰の水曜日(Ash Wednesday[英]/Aschermittwoch[独])に、自分が塵と灰に過ぎない者であり悔い改めが必要な者である事のしるしとして、額に灰で十字架のしるしをつけられます。だから人間は全て、神様の目から見たら「ゴミクズ」なのです。
もし、「人間は死んだらそれで終わり」ということを基本的前提とするならば、? 様のおっしゃる通り、日本の法律が一番大事です。神の法律なんて本当に無価値でどうでもよい。
しかし、「人間は死んで終わりなのではない」ということを基本的前提とするならば、日本の法律よりも神の法律を優先せざるを得ないのです。人間は地上に生きている間は有限の場に置かれていますが、死んだ後は無限の場に置かれます。
有限の場の生活と無限の場の生活のどちらが重要か、当然無限の場の方が有限の場よりもずっと長く続くものであり永遠なのだから、私は無限の場における永遠の命か永遠の死かが重要だと考えています。だから私は日本の法律よりも神の法律を優先するのです。
主なる神様からの恵みと平和が? 様に豊かにありますように心よりお祈り致します。
木田啓介
[2018/11/19,21]

@LfCBmyCh3kePWPE(ゴンザレス)の発言
まあ前科あるから仕方ないね
に対して

ゴンザレス様
コメントどうもありがとうございます。私はゴンザレス様も含めて全ての人が私のように、古い行動原理を悔い改めて神の福音を信じ、罪を赦され、正しい人とされ救われるようにお祈りしているのです。
ゴンザレス様に主なる神からの恵みと平和が豊かにありますように心よりお祈り致します。
[2018/11/21]

「島々よ、私に聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にある私を呼び/母の腹にある私の名を呼ばれた。私の口を鋭い剣として御手の陰に置き/私を尖らせた矢として矢筒の中に隠して/私に言われた/あなたは私の僕、イスラエル/あなたによって私の輝きは現れる、と。私は思った/私はいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たしたと。/しかし、私を裁いて下さるのは主であり/働きに報いて下さるのも私の神である。主の御目に私は重んじられている。私の神こそ、私の力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあった私を/御自分の僕として形づくられた主は/こう言われる。私はあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/私はあなたを国々の光とし/私の救いを地の果てまで、もたらす者とする。」(イザヤ書49章1-6節)

主なる神よ、あなたが母の胎にある私を呼び、福音を伝える者として立てて下さったことを感謝します。私はあなたの僕、あなたの奴隷。あなたの言葉の通り、この身に成りますように。父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによって。アーメン
[2018/11/21]

@fdAodKCRNL5E2Yy(仏陀)の発言
よう!犯罪者!
に対して

仏陀 様
フォローをどうもありがとうございました。
仏陀 様に神様の祝福が豊かにありますように心よりお祈り致します。
木田啓介

仏陀様には以下の岡本太郎氏の言葉をお贈りしたいと思います。 「人が純粋な行動をとろうとすれば、瞬間瞬間にはばまれる。この社会においては、あらゆる行動が規制されているからだ。それをまもらなければ、生活してゆけない。人生は隅から隅まで、こまごまとした枠の中にとじこめられている。
しかも互いがさらにそれをせばめあっているのだ。 法律、常識、風俗、しきたり。人間世界は譲歩しなければならない約束ごとばかりだ。それは誰でもがまもる。しかしそんなもの、永遠の眼から見れば非本質的であり、皮相なアクシデントだ。
ところがみんな、義務的にまもらなければならないものの方を道徳だと思いこんでいる。大間違いだ。もっとも、古い道徳観の多くがそうだったのだが。 人間にとって、それをまもらない意志の方が本質的であり、モラルなのだ。……空をくもりなく見る眼のような、そういう純粋な世界、行動。
それをはばむようなすべては、人間にとって本来ではない、侮蔑である。」 岡本太郎『美しく怒れ』2011年、角川oneテーマ21<D-1>、pp.24-25
[2018/11/22-23]

@fdAodKCRNL5E2Yy(仏陀)の発言
規制しなかったらみんな好き勝手やるんじゃないですか?
都合よく解釈しすぎじゃないですか?
永遠の眼で見たら女子中学生ストーカーするのはありなんですか?
に対して

仏陀 様
有益な批判を頂き、どうもありがとうございます。批判には真摯に耳を傾けなくてはならないと私は思います。
「都合よく解釈しすぎじゃないのか?永遠の眼で見たら女子中学生のカバンの中に手紙を入れるのはありなのか?」という仏陀 様の私への問いは、2年前の私の事件を通して、仏陀 様だけではなく日本社会全体が私に向けているものだと私は常に感じており、当然この問いに答える責任が自分にはあります。この問いに対する答えについては、私は、言葉ではなく、実際の行動で、社会に対してこれから示し続けていこうと考えています。
「規制しなかったらみんな好き勝手やるんじゃないか?」と仏陀 様は言います。確かに仏陀 様の言う通り、規制が無かったらみんな好き勝手をやる。だから規制がある。私もなぜ規制があるのか理由を知っています。しかしそれでも敢えて私は言いたいのです。人間は本来、どんな規制のもとにも置かれるべきではないと。なぜなら規制のもとでは人間は真の意味で自由ではないから。人類が「みんな好き勝手やるから」という理由で、今までと同じように、これからも人間に規制をかけていくというのであれば、人類の、本当の意味での進歩は無いと私は思います。
人類は今までは規制が存在することを前提としてきましたが、これからは規制を無くすことを目指さなければならない、そして人類は本当の意味で進歩しなければならない、真の意味で自由にならなければならないと私は思います。
人間からあらゆる規制を無くす、その目的を達成するためにこそ、私は今、福音への信仰を全ての人におすすめしているのです。仏陀 様の言う「みんな好き勝手やる」というのは実は重要です。福音への信仰が無い状態では「みんな好き勝手やる」と、バラバラです。人間は羊飼いのいない羊のようにそれぞれ勝手な道を進みます。「私達は羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」(イザヤ書53章6節)と書いてある通りです。しかし福音への信仰がある状態では「みんな好き勝手やる」と、人間は唯一の神へと向かうのです。つまり各人に与えられた神からの恵みや賜物に従って、各人に備えられた主イエス・キリストの道を進むのです。
仏陀 様に主なる神からの恵みと平和が豊かにありますようにお祈り致します。
木田啓介
[2018/11/25]

「イエスは言われた。『あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。』」(使徒言行録1章8節)

主なる神よ、あなたが私を福音宣教者として立てて下さったことを感謝します。どうか私に聖霊を送り、私があなたの証人として、福音宣教の働きを全うすることができるようにお導き下さい。父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによって。アーメン
[2018/11/25]

「主は私に油を注ぎ/主なる神の霊が私をとらえた。私を派遣して/貧しい人に福音を伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/私達の神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め/シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃墟を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃墟の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。」(イザヤ書61章1-4節)

主なる神よ、あなたが私に聖霊を送り、私を福音宣教者として派遣して下さったことを感謝します。私はあなたの僕、あなたの奴隷。あなたの言葉の通り、この身に成りますように。また福音を信じる全ての人が正義の樫の木とされますように。父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによって。アーメン
[2018/12/4]

私は今、アッシジというイタリアの小さな町に来ている。この町は聖フランチェスコ、聖クララが修道生活を送った場所である。今回の旅は聖フランチェスコ、聖クララを覚えて祈り黙想することを目的とした巡礼である。私の洗礼名はフランシスであるが、これはフランチェスコの英語読みである。

聖フランシスを覚えて
全能の神よ、あなたの恵みによって聖霊の愛の炎をその心に燃やした聖フランシスは、普遍の教会の燃えて輝く光となりました。どうか私達にも同じ聖霊を送り、その信仰と愛によって私達を燃え立たせ、光の子として常にみ前を歩ませて下さい。主イエス・キリストによって。アーメン

聖クララを覚えて
救い主なる神よ、喜びの内に、主の童貞女、聖クララを覚えて祈る私達に、子供のような信頼の念を与えて下さい。どうぞ、聖クララが聖フランシスを模範として清貧を愛したように、私達もその敬虔な生活を信仰の模範とすることができますように、守り導いて下さい。主イエス・キリストによって。アーメン
[2019/1/6]

今日、私は聖フランチェスコ教会(Basilica di San Francesco)での顕現日聖餐式と主の公現荘厳ミサに参加した。ミサはとても素晴らしく感動した。
入堂行列行進(Procession)は、サリファー(Thurifer=香炉捧持者)1名、クロス・ベアラー(Cross bearer=十字架捧持者)1名、トーチ・ベアラー(Torch bearer=蝋燭捧持者)2名、助祭(Deacon)1名、司祭団(Priests)7名他。香の匂いの刺激はこれだけ大きい聖堂だと全く気にならないということが分かった。
聖歌隊もパイプオルガンも良かった。楽器はパイプオルガン以外にもタンバリンやトライアングル等の打楽器も使われていたのが印象的だった。聖歌隊のソロはべラボーに上手だった。流石はイタリア。パヴァロッティを輩出した国だなと思った。
しかし、これらの素晴らしいことを通して私に与えられた最も素晴らしいことは、私が主イエス・キリストと一つであること、私が聖霊の交わりの中で聖フランチェスコ・聖クララと一つであること、キリストの体である普遍の教会が霊的に一つであることを、自分の肉体の五感で実感できたということである。
主に感謝。
[2019/1/6]

@GMPYFfbIJv4QWHh(たーよー@ウイイレ垢)の発言
木田啓介の過去が知りたい。
に対して

たーよー@ウイイレ垢 様
私の過去については、ブログに書きました。是非、ご一読下さい。
[2019/1/23]

慶應義塾中等部 生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。因みに私は1998年法学部政治学科卒の塾員です。
私からチラシを受け取るか否かについては、また私の発言が真実か虚偽かについては、また神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
自由の先駆者であり、独立自尊の気風を重んじる慶應義塾に学ぶ君達は、私の言葉の意味をよく理解してくれるものと信じています。
主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/1/28]

慶應義塾中等部 生徒のみなさん

こんにちは。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
今まで本当にどうもありがとうございました。
私は今までに色々な場所を巡り、色々な学校の児童・生徒達にこのチラシ配布を行ってきましたが、君達が断然、一番多くのチラシを私から受け取ってくれました。私はとても嬉しかったです。もちろん受け取ってくれた人の中には私とは異なる思想・信仰・考え方を持つ人も多くいましたが、それにもかかわらず私からチラシを受け取り、私に対して紳士的な対応をしてくれました。君達が自由の先駆者であり、独立自尊の気風に満ちている事を私は実感しました。君達は、自分達が警察の奴隷ではなく、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもない事を自ら証明したのです。
そして君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人でもあります。
また中等部の先生方も生徒達に対して「私からチラシを受け取るな」とは決して言わなかったと知人から聞いています。これによって慶應義塾は、実力行使を伴う行政機関ではなく塾祖の理想を実現する教育機関である事、警察の奴隷ではなく教育機関の自治・独立を保っている事、生徒達の自由意志と自己決定権を尊重している事が証明されたと思います。私が今までにチラシを配布した近辺の学校では先生方が生徒達に「私からチラシを受け取るな」と指導した所がありました。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
私達の父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、君達に、また慶應義塾中等部の先生方と保護者の方々に豊かにありますように心よりお祈り致します。
[2019/2/2]

白金小学校
白金の丘学園
聖心女子學院初等科・中等科・高等科
明治学院高等学校
児童・生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、また私の発言が真実か虚偽か、また私が不審者であるか否か、また神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を不審者と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/2/5]

白金小学校
白金の丘学園
聖心女子學院初等科・中等科・高等科
明治学院高等学校
児童・生徒のみなさん

こんにちは。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、自分達が警察の奴隷ではなく、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもない事を自ら証明したのです。
そして君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人でもあります。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
私達の父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、君達に、また教職員の方々と保護者の方々に豊かにありますように心よりお祈り致します。
[2019/2/9]

法政大学中学高等学校
明星学園小学校・中学校・高等学校
児童・生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、また私の発言が真実か虚偽か、また私が不審者であるか否か、また神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を不審者と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/2/12]

@parumeman(みるっ♪(日本ハム)の発言
めげずにチラシ配り頑張ってください
に対して

みるっ♪(日本ハム 様
応援コメントをどうもありがとうございます!
はい、めげずにチラシ配りを頑張ります。
思想的な戦いは今後も続けます。
神に逆らう偶像礼拝の思想には、私は決して隷属しないし、屈服はしません。
みるっ♪(日本ハム 様に主なる神の祝福が豊かにありますようにお祈り致します。
[2019/2/16]

@parumeman(みるっ♪(日本ハム)の発言
チラシに書いてありました神から罪を許されるということは神からお告げがあったのですか?どのような罪は許されるのですか?
に対して

全ての人は、教会で洗礼を受けることによって神から全ての罪を赦されます。また洗礼を受けた後の罪は教会で個人懺悔(ゆるしの秘跡)をすることによって神から赦されます。私は赤ちゃんの時に教会で洗礼を受け、また私の一番最初のツイートにあるように2017年8月16日、教会で個人懺悔をしました。
[2019/2/16]

法政大学中学高等学校
明星学園小学校・中学校・高等学校
児童・生徒のみなさん

こんにちは。
本日もちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
特に法政大学中学高等学校の君達は、先生方が「私とは関わるな」と指導したにもかかわらず、多くのチラシを受け取ってくれました。君達から「自由と進歩」「自主・自律」という法政大学の精神を私は強く感じました。
まさに君達は、自分達が警察の奴隷ではなく、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもない事を自ら証明したのです。
そして君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人でもあります。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
私達の父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、君達に、また教職員の方々と保護者の方々に豊かにありますように心よりお祈り致します。
[2019/2/16]

麻布中学校
麻布高等学校
生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、また私の発言が真実か虚偽か、また私が不審者であるか否か、また神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を不審者と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/2/18]

@4gzQENcK8wTsSQc(岡村りん)の発言
天皇陛下万歳
に対して

岡村りん 様
コメントをどうもありがとうございます!
当方は岡村様の立場を尊重致します。決して信仰を強制したりはしません。私も神道を勉強したいと思います。
[2019/2/26]

@to_torinsanity2(トートリん)の発言
毎日顔を見るたび不愉快になるのでやめてください。性犯罪者は消えて
に対して

トートリん 様
コメントをどうもありがとうございます。
私は、トートリん 様も含めて全ての人が、私のように、悔い改め、福音を信じて、正しい人とされ、救われることをお祈りしているのです。
トートリん 様に神様の祝福が豊かにありますように、お祈り致します。
[2019/2/27]

麻布中学校
麻布高等学校
生徒のみなさん

おはようございます。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は活発に色々なコメントを私に寄せてくれた事から、私は君達から自由闊達の気風を実感しました。君達は、自分達が警察の奴隷ではなく、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもない事を自ら証明したのです。
そして君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人でもあります。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
私達の父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、君達に、また教職員の方々と保護者の方々に豊かにありますように心よりお祈り致します。
[2019/2/27]

学習院女子中等科
学習院女子高等科
生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、また私の発言が真実か虚偽か、また私が不審者であるか否か、また神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を不審者と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/3/5]

@kakm52275395(k@akm)の発言
麻布に絡んだつもりが今では麻布に絡まれてるの草生えり
に対して

k@akm 様
コメントどうもありがとうございます。
いえいえ。精鋭揃いの麻布生に記憶して頂けて本当に光栄です。
[2019/3/5]

@7Pjasghhxd2z6A5の発言
学習院の近くを布教活動してると通報されますよ
に対して

委細承知!
[2019/3/7]

学習院女子中等科
学習院女子高等科
生徒のみなさん

君達に非常に大事なことをお知らせ致します。今日、私がいつもの場所でチラシを配布していたら、君達の学校のY先生と牛込警察署のNさんから「ここであなたが通行人にチラシを配布するのは自由だが、学習院女子中高の生徒に配布するのはやめて欲しい」と言われました。全く合理性のない理不尽な論理です。私はすぐに「私からチラシを受け取るか否かは生徒達自身が自由に判断し決定することだ」と反論しました。どうやら私のチラシ配布について、君達の内のある保護者の方が学校に連絡し、学校が牛込警察署に連絡したようです。今日、私は君達が学校側の指導によっていつもの帰路を強制的に変更させられているのを目の当たりにしました。君達は、自分達の自由意志と自己決定権を侵害する、このような学校側の理不尽な指導に従う必要は全くありません。
私は繰り返して言います。私からチラシを受け取るか否か、また私の発言が真実か虚偽か、また私が不審者であるか否か、また神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を不審者と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/3/7]

@kyouzinnnomai(狂人の舞)の発言
あなたに旧約聖書『創世記』3章19節をおすすめします。塵に過ぎない奴は塵にかえってタヒね。
に対して

狂人の舞 様
コメントと聖書箇所のおすすめをどうもありがとうございます。
素晴らしい箇所ですね。この箇所は当然、私だけでなく狂人の舞 様にも向けられたものですよね。私も狂人の舞 様に新約聖書「コリントの信徒への手紙Ⅱ」4章7-11節をおすすめします。狂人の舞 様に神様の祝福がありますように。

【補足】
創世記3章19節:神はアダムに向かって言われた。「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
コリントの信徒への手紙Ⅱ4章7-11節:パウロとテモテは記した。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」
[2019/3/8]

学習院女子中等科
学習院女子高等科
生徒のみなさん

おはようございます。
本日もちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、自分達が警察の奴隷ではなく、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもない事を自ら証明したのです。
そして君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人でもあります。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
私達の父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、君達に、また教職員の方々と保護者の方々に豊かにありますように心よりお祈り致します。
[2019/3/14]

@mayo_azb(まよ)の発言
花火。学校。ボッ。燃えた。
に対して

まよ 様
火災による死傷者が一人も出ず、校舎の床が焼かれるだけで済んだというのは、本当に良かったと思います。 私としては、この火災を教訓にした麻布生が逆境を克服して、自分達の文化祭を開催することを希望します。 私が信じている次の聖書の言葉を麻布生に贈ります。
「あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ10章13節)
[2019/4/7]

暁星小学校・中学校・高等学校
九段中等教育学校
白百合学園小学校・中学校・高等学校
和洋九段女子中学校・高等学校
児童・生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
こんにちは。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、また私の発言が真実か虚偽か、また私が不審者であるか否か、また神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を不審者と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/4/9]

@u_tan_sunteam(酸値蒸)の発言
いつか政治家デビューする日を楽しみにしています。
に対して

酸値蒸 様
応援と励ましのコメントをどうもありがとうございます!
私が政治家デビューするかどうかは神様のみ心次第ですが、これからも福音宣教者として頑張ります。
また機会があれば麻布に行きたいと思います。
[2020/4/10]

@xman_daishi(どん卍ぢあ風呂)の発言
今朝、あんた警察に絡まれてたな 気をつけてな
に対して

どん卍ぢあ風呂 様
コメントどうもありがとうございます!
今朝、私と話していた方は、田麦さんとおっしゃる方で、なんでも市ヶ谷の近くにある工場で働いていらっしゃるようですよ。卵に光シールを貼る作業をしているとおっしゃっていました。
[2019/4/12]

「喉をからして叫べ、黙すな/声をあげよ、角笛のように。私の民に、その背きを/ヤコブの家に、その罪を告げよ。彼らが日々私を尋ね求め/私の道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として/彼らが私の正しい裁きを尋ね/神に近くあることを望むように。」(イザヤ書58章1-2節)

主なる神よ、あなたが私を福音宣教者として立てて下さったことを感謝します。私はあなたの僕、あなたの奴隷。あなたの言葉の通り、この身に成りますように。父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによって。アーメン
[2019/4/15]

暁星小学校・中学校・高等学校
九段中等教育学校
白百合学園小学校・中学校・高等学校
和洋九段女子中学校・高等学校
児童・生徒のみなさん

おはようございます。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
私はある生徒から4月11日(木)のチラシ配布の際、「私からチラシを受け取った後、学校に向かう途中、私服の人が警察手帳を見せてきて『あの人は子供が大好きな頭のおかしな人だから関わらないように』と言われた。」という情報を得ました。この発言からこの警察官の人間性がよく分かります。君達はこの警察官の発言が何に似ているかはもうよく分かりますよね?そうです。「いじめ」です。この発言から君達は、学校の中だけでなく、大人の社会にも立派に「いじめ」が存在するということがよく分かると思います。しかも警察手帳を見せての発言であることから、単に個人のいじめではありません。国家権力によるマインドコントロール、巨大な組織ぐるみのいじめです。私が実際に平和的に安全にチラシ配布を行っている様子を目で見ているにもかかわらず。口ではいつも「いじめ防止」や「いじめ撲滅」を謳っておきながら、実際の行動では平気で「いじめ」を行って正義面をして恥じない。私は言います。君達はこの発言の偽善を見抜かなくてはなりません。そしてこのような偽善の発言をする大人を決して見倣ってはなりません。その生徒はこの警察官の発言を「許せないです。」と言っていました。
また私はある生徒から4月12日(金)のチラシ配布の際、「私からチラシを受け取った後、学校に向かう途中、私服の人から警察手帳を見せられ、受け取ったチラシを回収されてしまった。」という情報を得ました。君達はよく憶えておくべきです。警察官は他人の者を盗んでも窃盗罪や強盗罪に問われないらしい。私はある漫画で「警察はお上公認のヤクザじゃけえ。」というセリフを読んだことがあります。この表現は真に当を得ていると思います。暴力団は違法行為をすれば違法とされるが、警察は一般人が違法行為とされる行為をしても合法とされます。その意味で警察は暴力団よりもタチが悪いと言うべきです。その生徒は「木田啓介さんの見えない所でそうやってチラシを回収するのは相当おかしい。木田さんをあそこまでマークするのはあり得ない。」と言っていました。この警察官の物理的強制力を伴う行為は、本当に卑劣であると言わざるを得ません。何よりもこの警察官はその生徒の自由意志と自己決定権をこの行為で見事に踏み躙ったという事に気づくべきです。私は言います。私はこの警察官とは異なり、あくまでも君達の自由意志と自己決定権を尊重すると。
主なる神の祝福が、君達に、保護者の方々と警察の方々に豊かにありますように心よりお祈り致します。
[2019/4/15]

@peto_114514の発言
本当だとしたら警察おかしくね?
に対して

おかしいと思います。 私は、警察に通報者に対する忖度があると強く感じています。
[2019/4/15]

@u_tan_sunteamの発言
警察の低能さが伺えますね。
に対して

励ましのコメントをどうもありがとうございます! はい、取り締まるべき案件と取り締まるべきでない案件を見極める能力について警察の低能さが伺えます。感情論や通報者の忖度によって現行法がねじ曲げられようとしていますね。
[2019/4/16]

「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者なのか。」(サムエル記上17章26節)
「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前を私の手に引き渡される。私は、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まった全ての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前達を我々の手に渡される。」(サムエル記上17章45-47節)

主なる神よ、私はあなたの僕、あなたの奴隷、キリスト・イエスの兵士。新しい行動原理に支配された、神のイスラエルであり、生ける神の戦列です。あなたの言葉の通り、私が「剣」や「槍」によって象徴される物理的強制力によってではなく、万軍の主であるあなたの名によって、古い行動原理と偶像礼拝の思想に立ち向かい、勇敢にこれと戦い、これを撃破して粉砕し、殲滅することができるようにして下さい。父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによって。アーメン
[2019/4/22]

今日、私は巣鴨警察署に行った。
今後予定されている福音宣教のための、私のチラシ配布活動について事前に通告するためである。生活安全課のマチダさんに対応して頂いた。私は以下に記した事前通告書の内容を口頭で読み上げ、かつ書面にして手渡した。併せて道路使用許可証のコピーも手渡した。

事 前 通 告 書

平成31年4月22日

警視庁巣鴨警察署長 殿
警視庁巣鴨警察署生活安全課 各位
警視庁ストーカー対策室 各位

通告者 住所 氏名 木田啓介 ㊞

主の平和があなた方にありますように。
福音宣教者である私、木田啓介があなた方に挨拶を記します。
3年前の、ストーカー行為等の規制等に関する法律違反の事件では、あなた方に大変お世話になり、どうもありがとうございました。
私はこの度、キリスト教の福音宣教のため、神の法律である聖書(※1に聖書的根拠を明示)と人間の作った法律である日本国現行法(※2に根拠となる法令を明示)に基づき、別紙道路使用許可証に記載されている通り、正当かつ合法的にチラシ配布を行う事を、警視庁巣鴨警察署長、警視庁巣鴨警察署生活安全課及び警視庁ストーカー対策室各位に、事前に通告します。
もしある人物が、正当かつ合法的に行われている私のチラシ配布行為をストーカー行為に当たるとして、あなた方に被害届を提出した場合、私は刑法第172条に基づき、私の行為の目的を明確に示す物的証拠と私のチラシ配布行為が平和的で安全であるという客観的事実を証明する夥しい数の証人・証言と共に、虚偽告訴等罪の被害届を提出する用意がありますので、受理せずに私にお知らせください。

★刑法第172条(虚偽告訴等)の全文
「人に刑事又は懲戒の処分を受けさせる目的で、虚偽の告訴、告発その他の申告をした者は、三月以上十年以下の懲役に処する。」
★刑法第172条(虚偽告訴等)についての3つの判例
①本条にいう「虚偽」とは、申告の内容をなすところの刑事・懲戒の処分の原因となる事実が客観的事実に反することをいう。(最高裁判所決定・昭和33年7月31日・最高裁判所刑事判例集12-12-2805)

②本罪の成立には、告訴状が当該捜査官署に到達し、捜査官の閲覧しうる状態におかれれば足り、捜査官による受理、捜査の着手を要しない。(大審院判決・大正3年11月3日・大審院刑事判決録20-2001)
③本条にいう「目的」とは、他人をして刑事若しくは懲戒の処分を受けさせる結果の発生すべきことの認識をもって足り、それを希望することまでは必要としない。(大審院判決・大正6年2月8日・大審院刑事判決録23-41)

正当かつ合法的に行われている私のチラシ配布行為をストーカー行為に当たるとする被害届は、上記刑法第172条、条文中の「虚偽のその他の申告」に当たり、これを提出することは刑法第172条の構成要件に該当します。また判例②が示すように、この被害届が捜査機関に到達した時点で犯罪は成立します。そして確か刑法第172条は非親告罪であったはずです。
3年前、あなた方は私に対して日本国現行法に従って逮捕状請求手続きを粛々と進めたのであれば、今、同じようにあなた方は他の者に対しても日本国現行法に従って逮捕状請求手続きを粛々と進めなければならない、当然の話しです。
あなた方の仕事は、自分達の固定観念に基づく正義感や自分達の固定観念に基づく善悪の価値判断を、自分達の仕事に持ち込むことではありません。また自分達の忖度に基づいて実力行使の対象となるべき人物を恣意的に選んだり恣意的に除外することでもありません。あなた方の仕事はあくまでも現行法を遵守することであり、現行法を遵守しない人達全てに対して等しく物理的強制力を行使することです。それがあなた方の職務であり責任です。つまりそれがあなた方の営業であり商売です。
もしあなた方が、ある人物を忖度して私のチラシ配布行為に対して逮捕状請求手続き等の物理的強制力を行使するのであれば、その責任は必ずお取り頂くことになりますので、つまり正当かつ合法的な行為を処罰したという警察職について職務違反の責任と、本来逮捕状請求手続きを行わなければならない事案を行わないで済ませたという警察職について職務懈怠の責任が必ずあなた方の頭上に降りかかってくることになりますので、そうなることのないように、主イエス・キリストの慈しみと愛を込めて、ここにあなた方に事前にお伝えします。
あなた方は、「3年前と同じように私を逮捕して犯罪者として公けに晒せば、私を社会的に抹殺できるだろう。私をブタ箱にブチ込んで闇に葬り去れば問題は全て解決するだろう。その結果、勤務成績の定期評定において自分達の評価が上がり、自分達が昇給昇格することになって、今まで以上に良い生活を送ることができ、安逸を貪ることができるだろう。自分達は今までと同じように組織の陰に匿名で隠れて平穏無事で安全な生活を確保することができるだろう。」というような、神に逆らう、不潔で卑しい、高慢なお考えを、ゆめゆめ偽善の仮面の裏側にお持ちになりませんように、心よりお勧め致します。主なる神はそのような考えを持つ者を罰せずにはおかれません。聖書に次のように書いてある通りです。
「主に逆らう者は待ち構えて/主に従う人を殺そうとする。 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ/罪に定められることをお許しにならない。」(詩編37編32-33節)
「主に従う人には災いが重なるが/主はその全てから救い出し 骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。 主に逆らう者は災いに遭えば命を失い/主に従う者を憎む者は罪に定められる。 主はその僕の魂を贖ってくださる。/主を避けどころとする人は/罪に定められることがない。」(詩編34編20-23節)と。

「物理的強制力を一切行使しなかった者に対して、物理的強制力を行使するのは当然である。」という思想や「愛は条件づけられるべきで、無条件の愛は否定されるのが当然である。」という思想は、すなわち神に逆らう偶像礼拝の思想は、神の忌み嫌われるものであり、たとえ人間と人間の作った法律がこれを許容、是認しているとしても、主なる神はこれを決してお赦しになりません。悔い改めない限り。
どうか主なる神があなた方に対して、怒りの御顔を向けるのではなく、あなた方が悔い改めて福音を信じる事によって慈しみの御顔を向けられますように、どうか主なる神が、あなた方を怒りの器に定めるのではなく、あなた方が悔い改めて福音を信じる事によって憐れみの器に召し出して下さいますように、心よりお祈り致します。

全てのものを支配される全能の神よ、真の正義と真の裁きは私達人間の手にはなく、ただあなたの御手にのみあり、あなたの御力に逆らって勝つ者はありません。どうか今、警視庁巣鴨警察署長、警視庁巣鴨警察署生活安全課の方々と警視庁ストーカー対策室の方々に臨み、愚かと誤り、偏りと高ぶりを除き、聖霊によって彼等の心を清め、その働きを治め、御旨にかなう業を行い、人々の生活の安定と進歩に尽くすことができるようにして下さい。
父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる御子イエス・キリストによってお願い致します。アーメン

以上

※1 福音宣教のためのチラシ配布についての聖書的根拠

★マタイによる福音書28章19-20節
イエスは言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼等に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」

★テモテへの手紙Ⅱ4章1-5節
パウロは記した。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師達を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれていくようになります。しかし、あなたはどんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者としての仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」

★コヘレトの言葉12章1節
あなたの青春の日々にこそ、あなたの創造主に心を留めよ。/苦しみの日々が来ないうちに。/「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。

★詩編100編3節
知れ、主こそ神であると。/主は私達を造られた。 私達は主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。

★ゼカリヤ書11章15-17節
主は私に言われた。「愚かな羊飼いの道具を取れ。見よ、わたしはこの地に羊飼いを起こす。彼は見失われたものを尋ねず、若いものを追い求めず、傷ついたものを癒さず、立っているものを支えもせず、肥えたものの肉を食べ、そのひづめを砕く。災いだ、羊を見捨てる無用の羊飼いたちは。剣が、その腕と右の目に差し向けられる。その腕は力を失い、右の目はかすむ。」

★エゼキエル書34章10-13,16,23節
主なる神はこう言われる。見よ、わたしは羊飼いたちに立ち向かう。わたしの群れを彼等の手から求め、彼等に群れを飼うことをやめさせる。羊飼いたちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼等の口から群れを救い出し、彼等の餌食にはさせないからだ。まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼等の世話をする。羊飼いが、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、全ての場所から救い出す。わたしは彼等を諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼等の土地に導く。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼等を養う。わたしは彼等のために一人の羊飼いを起こし、彼等を牧させる。

★ヨハネによる福音書10章14-16節
イエスは言われた。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。私にはこの囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

★マタイによる福音書12章30節,ルカによる福音書11章23節
イエスは言われた。「私に味方しない者は私に敵対し、私と一緒に集めない者は散らしている。」

★ヨハネによる福音書21章15節
イエスは言われた。「私の子羊を飼いなさい。」

★ヨハネによる福音書21章16節
イエスは言われた。「私の羊の世話をしなさい。」

★ヨハネによる福音書21章17節
イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。」

※2 福音宣教のためのチラシ配布についての根拠となる法令

★日本国憲法第21条
①集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

★道路交通法第77条
①次の各号のいずれかに該当する者は、それぞれ当該各号に掲げる行為について当該行為に係る場所を管轄する警察署長(以下この節において「所轄警察署長」という。)の許可(当該行為に係る場所が同一の公安委員会の管理に属する二以上の警察署長の管轄にわたるときは、そのいずれかの所轄警察署長の許可。以下この節において同じ。)を受けなければならない。
一 道路において工事若しくは作業をしようとする者又は当該工事若しくは作業の請負人
二 道路に石碑、銅像、広告版、アーチその他これらに類する工作物を設けようとする者
三 場所を移動しないで、道路に露店、屋台店その他これらに類する店を出そうとする者
四 前各号に掲げるもののほか、道路において祭礼行事をし、又はロケーションをする等一般交通に著しい影響を及ぼすような行為で、公安委員会が、その土地の道路又は交通の状況により、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図るため必要と認めて定めたものをしようとする者
②前項の許可の申請があった場合において、当該申請に係る行為が次の各号のいずれかに該当するときは、所轄警察署長は、許可をしなければならない。
一 当該申請に係る行為が現に交通の妨害となるおそれがないと認められるとき。
二 当該申請に係る行為が許可に付された条件に従って行われることにより交通の妨害となるおそれがなくなると認められるとき。
三 当該申請に係る行為が現に交通の妨害となるおそれはあるが公益上又は社会の慣習上やむを得ないものであると認められるとき。

★道路交通法第78条
①前条第一項の規定による許可を受けようとする者は、内閣府令で定める事項を記載した申請書を所轄警察署長に提出しなければならない。
③所轄警察署長は、前条第一項の規定による許可をしたときは、許可証を交付しなければならない。
⑥第一項の申請書の書式、第三項の許可証の様式その他前条第一項の許可の手続きについて必要な事項は、内閣府令で定める。

★道路交通法施行規則第10条
①法第七十八条第一項の内閣府令で定める事項は、次に掲げるものとする。
一 申請者の住所及び氏名(法人にあっては、その名称及び代表者の氏名)
二 道路使用の目的
三 道路使用の場所又は区間
四 道路使用の期間
五 道路使用の方法又は形態
六 現場責任者の住所及び氏名
②法第七十八条第一項の申請書及び法第七十八条第三項の許可証の様式は、別紙様式第六のとおりとし、申請者は二通提出するものとする。
③前項の申請書には、道路使用の場所又は区間の付近の見取図その他の第一項各号の事項を補足するために公安委員会が必要と認めて定めた書類を添付しなければならない。

※追記:尚、あなた方に提出したこの事前通告書と道路使用許可証の写しは、偏向報道を避けるため下記に挙げた各報道機関の担当部署宛てにも送付されます。もしあなた方が今回、私のチラシ配布行為に対して逮捕状請求手続き等の物理的強制力を行使した場合、各報道機関に、国家権力からの独立を守るという報道機関としての当然の責任を果たして頂くため、つまり3年前の事件と同様「大本営発表」のように警視庁発表の情報のみを受け売りするという「発表報道」の愚に陥いることのないようにして頂くためです。
【送付先】朝日新聞社、産業経済新聞社、日本経済新聞社、毎日新聞社、讀賣新聞、東京新聞、共同通信社、時事通信社、テレビ朝日、TBSテレビ、日本テレビ、フジテレビジョン、NHK。

私に敵対する者達は、自分達が誰の怒りを買ったのか、自分達が誰を敵に回しているのかをよく知るべきである。自分達の命のために。
彼等が敵に回しているのは私ではない。
実際、主は私と共におられる。
この方は、体を殺してもその後何もできない彼等とは違う。体を殺した後で地獄に投げ込む権威を持っている方である。
この方は、その名を「万軍の主」と呼ばれる方であり、天地の創造主、万物の真の支配者、父と子と聖霊である唯一の神である。

「全ての王よ、今や目覚めよ。/地を治める者よ、諭しを受けよ。 恐れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。 子なる神に口づけせよ。 主の憤りを招き、道を失うことのないように。/主の怒りはまたたくまに燃え上がる。 いかに幸いなことか/主を避けどころとする人は全て」(詩編2編10-12節)
[2019/4/22]

@soutasuwahouの発言
お金はどうやって稼いでるの?
に対して

普通に働いて生活費を稼いでいます。
[2019/4/23]

@xman_daishiの発言
何故辞める?
に対して

他の場所でも福音宣教のチラシ配布を行うためです。
[2019/4/23]

@soutasuwahouの発言
あしじつけとるやん
に対して

はい、そうです!よく分かりましたね! 私がつけている十字架は、アッシジの聖フランチェスコ(1182-1226)のタウ(τ)十字架です。フランチェスコは、1215年の第4ラテラノ公会議でのローマ教皇インノケンティウス3世の開会訓話に感銘を受け、それ以来タウ十字架を自分のしるしとして自分の署名に使いました。インノケンティウス3世のこの開会訓話では、旧約聖書エゼキエル書9章が引用され、悔い改めている正しい人の額にはタウ(τ)の字がしるされ、これをしるされた者は神の怒りを免れることが述べられました。
実際、ヴルガタと呼ばれるラテン語聖書ではエゼキエルの見た神の幻として次のように書かれています。
「私が聞いていると、その方は大声で叫んで言われた。『町を罰する者達よ。おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。』すると、北に面する上の門の方角から六人の男が、それぞれ自分の手に打ち壊す道具を持ってやって来た。その中の一人は上質の亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼等はやって来て、青銅の祭壇の傍らに立った。すると、ケルビムの上にあったイスラエルの神の栄光がそこから立ち昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。主は彼に言われた。『町のただ中、エルサレムの中を行き巡り、そこで行われている全ての忌むべきことについて嘆き呻く人々の額にタウのしるしを付けよ。』また主は、私の聞いている所で他の男達に言われた。『彼の後に従い、町を行き巡り、打ち殺せ。あなたは憐れみの目を向けてはならない。また惜しんではならない。老人も、若い男も女も、子供も女達も殺害し、滅ぼせ。しかし、あのタウのしるしの付いた者には誰も近づいてはならない。私の聖所から始めよ。』すると、亜麻布をまとい、その腰に筆入れを着けた者が報告して言った。『お命じになった通りに致しました。』」(エゼキエル書9章1-6,11節)
ここで、神の怒りを受けて罰せられる町、殺害されて滅ぼされる人々というのは、忌むべき行いをする人達、それは神を愛さないで神に逆らい、神でないものを神として愛する人達、つまり偶像を愛して偶像を礼拝する人達です。
私は以前、神に喜怒哀楽の感情があることを書き(神学の森33-36参照)、主は「熱情の神」(出エジプト記20章5節)であり、人間に対して強い関心があることを書きました。実はこの「熱情」という言葉は原文では「ΖΗΛΩΤΗΣズィロティス」であり、「嫉妬」という意味もある言葉です。神にも嫉妬の感情があるのです。神は人間がご自分を愛さないと嫉妬します。つまり神は、人間が神ではなく偶像を愛して偶像礼拝をすると嫉妬して激しい怒りを燃やすのです。私達は人間の内にある嫉妬の感情がいかに特別に激しいかを知っています。日常生活の恋愛関係や結婚関係において、浮気や不倫というものが激しい嫉妬の感情を引き起こし、その激しさのあまり、裁判沙汰になったり、傷害事件や殺人事件になったり、家庭を崩壊させたりすることをよく知っています。人間の嫉妬でさえこのように激しいものですから、まして神の嫉妬の激しさは測り知れません。一国家そのものをまるごと滅ぼしたり、人類や世界や宇宙をまるごと滅ぼしてしまうレベルの激しい嫉妬の感情なのです。
神が偶像礼拝をする人間に対して激しく怒り、偶像礼拝者達を罰として徹底的に滅ぼし尽くしたり殲滅するという、このような内容の記述は、旧約聖書に繰り返し現れるモチーフです。聖書はこれらのモチーフによって一体何が言いたいのか?答えは明白です。偶像礼拝が人間を、外面的にも内面的にも、物質的にも実存的にも、あらゆる意味で滅ぼしてしまう諸悪の根源であるということを、私達人間に教えようとしているのです。私達人間は、たとえ人間の作った法律において合法的に歩んだとしても、偶像礼拝をすることによって神の怒りを招くのは避けられません。 しかしタウのしるしをつけられた者は神の怒りを免れます。
私がタウ十字架をつけているのは、全ての人が、私のように、悔い改めて福音を信じて罪を赦され、正しい人とされて、神の怒りを免れて救われるように私が祈り励ましていること、全ての人が偶像礼拝によって怒らせた神と和解するために私が福音信仰を勧めていること、私が聖霊を受けて福音宣教者として働いていることのしるしです。
[2019/4/27]

@azabu_Kansaiの発言
木田さん沢山リプ貰ってるみたいで羨ましいです…!どうしたらそんなにリプを貰えるのでしょうか…?
に対して

うーん…正直に言って、僕もよく分かりません。とても不思議な現象なので驚いています。でもこの現象は、麻布生に福音への関心を持ってもらえた証拠だと思って、とても励まされています。
[2019/5/8]

暁星小学校・中学校・高等学校
九段中等教育学校
白百合学園小学校・中学校・高等学校
富士見小学校
三輪田学園中学校・高等学校
和洋九段女子中学校・高等学校
児童・生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、飯田橋駅前交番のすぐそばでチラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/5/9]

@to_torinsanity3(とーとりん)の発言
お、変態
ゴキブリで皆騒ぎだす感覚
に対して

ゴキブリ? ゴキブリが昼間活動するのか? 日の当たる所や、光の当たる所で堂々と活動するのか? ゴキブリは闇を好み、日が当たったり光を見るとすぐに逃げ、物陰へコソコソ隠れるではないか。 私のチラシ配布活動は正々堂々と、公然と行われている。
匿名という物陰に隠れて、自分の発言に全く責任を持たず、自分の欲求の為に他人を誹謗する、醜悪な発言をコソコソと繰り返す者たちこそ、ゴキブリに似ているのではないか?……
聖書には次のように書かれています。 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネによる福音書3章18-21節)
私は、とーとりん様も含めて全ての人が私のように、古い行動原理を悔い改めて神の福音を信じ、罪を赦され、正しい人とされ、闇に属する者から光に属する者へと救われるようにお祈りしています。 とーとりん様に主なる神からの祝福が豊かにありますように心よりお祈り致します。
[2019/5/9]

暁星小学校・中学校・高等学校
九段中等教育学校
白百合学園小学校・中学校・高等学校
富士見小学校
三輪田学園中学校・高等学校
和洋九段女子中学校・高等学校
児童・生徒のみなさん

おはようございます。
本日をもちまして、飯田橋駅前交番のすぐそばで行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2019/5/21]

「私の僕イスラエルよ。私の選んだヤコブよ。私の愛する友アブラハムの末よ。私はあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたは私の僕/私はあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、私はあなたと共にいる神。たじろぐな、私はあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/私の救いの右の手であなたを支える。見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆/恥を受け、辱められ/争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。争いを仕掛ける者は探しても見いだせず/戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。私は主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う/恐れるな、私はあなたを助ける、と。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/主は言われる/恐れるな、虫けらのようなヤコブよ/イスラエルの人々よ、私はあなたを助ける。見よ、私はあなたを打穀機とする/新しく、鋭く、多く刃をつけた打穀機と。あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする。あなたがそれをあおると、風が巻き上げ/嵐がそれを散らす。あなたは主によって喜び躍り/イスラエルの聖なる神によって誇る。」(イザヤ書41章8-16節)

主なる神よ、あなたが私を福音宣教者として立てて下さったことを感謝します。私はあなたの僕、あなたの奴隷。あなたの言葉の通り、この身に成りますように。父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによって。アーメン

「主よ、あなたは私の灯を輝かし/神よ、あなたは私の闇を照らして下さる。あなたによって、私は敵軍を追い散らし/私の神によって、城壁を越える。神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。全て御もとに身を寄せる人に/主は盾となって下さる。主の他に神はない。神の他に我等の岩はない。神は私に力を帯びさせ/私の道を完全にし/私の足を鹿のように速くし/高い所に立たせ/手に戦いの技を教え/腕に青銅の弓を引く力を帯びさせて下さる。」(詩編18編29-46節)
「主をたたえよ、私の岩を/私の手に戦うすべを/指に戦するすべを教えて下さる方を/私の支え、私の砦、砦の塔/私の逃れ場、私の盾、避けどころ/諸国の民を私に服従させて下さる方を。」(詩編144編1-2節)
「主をたたえよ。主は私達を敵の餌食になさらなかった。仕掛けられた網から逃れる鳥のように/私達の魂は逃れ出た。/網は破られ、私達は逃れ出た。私達の助けは天地を造られた主の御名にある。」(詩編124編6-8節)
[2019/5/22-23]

「主は私の光、私の救い/私は誰を恐れよう。主は私の命の砦/私は誰の前におののくことがあろう。さいなむ者が迫り私の肉を食い尽くそうとするが/私を苦しめるその敵こそ、かえってよろめき倒れるであろう。彼等が私に対して陣を敷いても/私の心は恐れない。私に向かって戦いを挑んで来ても/私には確信がある。一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。災いの日には必ず、主は私を仮庵にひそませ/幕屋の奥深くに隠して下さる。岩の上に立たせ/群がる敵の上に頭を高く上げさせて下さる。私は主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ/主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27編1-6節)
「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに。イスラエルは言え/慈しみはとこしえに。アロンの家は言え/慈しみはとこしえに。主を恐れる人は言え/慈しみはとこしえに。苦難のはざまから主を呼び求めると/主は答えて私を解き放たれた。主は私の味方、私は誰を恐れよう。人間が私に何をなし得よう。主は私の味方、助けとなって/私を憎む者らを支配させて下さる。人間に頼らず、主を避けどころとしよう。君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。国々はこぞって私を包囲するが/主の御名によって私は必ず彼等を滅ぼす。彼等は幾重にも包囲するが/主の御名によって私は必ず彼等を滅ぼす。蜂のように私を包囲するが/茨が燃えるように彼等は燃え尽きる。主の御名によって私は必ず彼等を滅ぼす。激しく攻められて倒れそうになった私を/主は助けて下さった。主は私の砦、私の歌。主は私の救いとなって下さった。御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。主の右の手は高く上がり/主の右の手は御力を示す。死ぬことなく、生き長らえて/主の御業を語り伝えよう。主は私を厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。正義の城門を開け/私は入って主に感謝しよう。これは主の城門/主に従う人はここを入る。私はあなたに感謝をささげる。あなたは答え、救いを与えて下さった。」(詩編118編1-21節)

主なる神よ、あなたは常に、福音宣教者である私と共におられます。あなたは私を守り、新しい行動原理に支配された私を、敵の手から、すなわち古い行動原理に支配された者達の手から救い、勝利を与えて下さいました。私はあなたに感謝します。私はあなたの僕、あなたの奴隷。これからも主の御業を、すなわち福音を語り伝えます。どうかこれからも常に私と共におられ、あなたの栄光をあらわす者とならせて下さい。そして罪の赦しを肯定する神の国の論理と罪の赦しを否定する人間社会の論理との思想的な対決、この霊的な戦争を導き、最終的にはあなたが勝利し、この人間社会の隅々にまで神の国を実現して下さいますように。そして全ての人があなたに向かって賛美の歌をうたいますように。聖霊の交わりの中であなたと共に世々に生き、支配しておられる御子、私達の主イエス・キリストによって。アーメン
[2019/5/24]

國學院大學久我山中学高等学校
生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/5/24]

@8sUlf9kuQxEsbBSの発言
最近飯田橋にいないよね
に対して

はい、5月21日をもってチラシ配布を終了しました。
https://t.co/JRQVcyMYYD
[2019/5/28]

@SSKK50658758(SSKK)の発言
んー宣教などをしても前科持ちの人にいいイメージを持たなくそれにより偏見が生まれてしまう可能性が高いと思うので貴方が宣教などをするのは避けるべきだと思います。 女子中学生にストーカー行為をして前科を持っていて、女子中学生が毎日使用している通学路で宣教をしていたら先生方もやめさせようと思うのでは? 学校側としては生徒が犯罪を起こす可能性が高い人間と関わることを良く思わないでしょう。 保護者も同様です。 それを理解していますか? 貴方が過去に起こしたことをよく考えて、宣教を続けるかの判断をお願いします。
そんなことより迷惑な宣教やめたらどうですか?
そんなことより迷惑な布教を辞めるべきでは?貴方が布教などをしても笑いものにされるだけですよ。
に対して

全くそうは思いませんね。 私は福音を恥としない。福音は信じる者全てに救いをもたらす神の力だからです。 私のチラシ配布活動をどのように評価するかはあなたのご自由です。しかし私がいつどこでチラシを配布するかは、私が自由に判断し決定する事であり、あなたが判断し決定する事ではありません。
私はあなたの奴隷ではありません。無論、学校の先生の奴隷でもなければ保護者の奴隷でもありません。プロフィールにある通り私はキリスト・イエスの奴隷です。私のチラシ配布活動は正当かつ合法的に行われています。
5月31日に久我山でのこのチラシ配布活動を匿名で警察に通報された方がいらっしゃいましたが、私はこの事を警察に説明して確認されたので、現在、取り締まりを受けずに続行しております。匿名通報者はSSKK様でいらっしゃいましたか?
通報者の責任は問われて当然です。誰であれ正当かつ合法的に行われているチラシ配布活動を妨害する権利はないからです。 明日も平和的に安全に久我山でのチラシ配布活動を行いますので、どうぞよろしくお願いします。
SSKK様に主なる神からの祝福が豊かにありますように心よりお祈り致します。
[2019/6/4]

國學院大學久我山中学高等学校
生徒のみなさん

おはようございます。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私からチラシを受け取るなという先生方の指導にもかかわらず、私から多くのチラシを受け取ってくれました。私はとても嬉しかったです。特に女子生徒は今まで配布した中で一番多くのチラシを受け取ってくれました。君達は、自分達が警察の奴隷ではなく、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもない事を自ら証明したのです。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2019/6/5]

@SSKK50658758(SSKK)の発言
遊 び 半 分
学校で遊びのネタにされていることを知り合いから聞いた。ただの遊びであって遊具としか扱われてないと推測できます。
に対して

それは大いに結構。前にも言った通り私のチラシ配布活動をどのように評価するかは各人の自由ですから。ただ各人は自分の評価について必ず責任を問われることになります。もし私が「遊び半分」でこのチラシ配布活動を行っていると思う人がいたら、それはまことにオメデタイことですね。
[2019/6/8]

獨協中学校・獨協高等学校 生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
福音宣教者・木田啓介から挨拶を記します。
君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
因みに私は1993年ドイツ語クラス卒業のOBです。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/6/8]

@to_torinsanity3(とーとりん)の発言
あの僕はキリスト教信じてないのでキリスト教で反論されてもへーぐらいなのですが」に対して

いつもリプライをどうもありがとう!とーとりん君は私にとても関心があるのですね。「へーぐらい」ということは、少なくとも聖書の言葉の意味を「へーぐらい」理解しているということですね。流石は麻布生です。感心しました。とーとりん君の「僕はキリスト教信じていない」という言葉は、上記聖書中の「信じない者は…」にあてはまろうとしているので、気をつけて下さいね。しかし、とーとりん君は「キリスト教を信じていない」と言ったのであって「御子であるイエス・キリストを信じていない」とは言ったのではありません。
とーとりん君に主なる神からの祝福がありますように、お祈り致します。
[2019/6/8]

@to_torinsanity3(とーとりん)の発言
性犯罪者で社会のゴミの怒りですか?
に対して

うーん、麻布生なのだから、もう少し私の言葉の意味を読み込んで欲しかったですね。怒りを発しているのは私ではなく、私と共におられる方です。
[2019/6/8]

@to_torinsanity3(とーとりん)の発言
看守ですか?あいにく犯罪を犯したことがないもので
に対して

私は看守ではありませんよ。とーとりん君も囚人ではありませんよね。私は、他人を監視したり強権を行使したり自由を奪ったりする人になるなんて、まっぴらごめんです。
確かにとーとりん君自身は合法的な人です。しかし聖書には「合法的な人は救われる」とは一切書かれていないのです。
ただ「信じる人は救われる」と書いてあるのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。」(ヨハネによる福音書3章16-18節)と書いてありますし、イエス様も「あなたの合法的な行いがあなたを救った。」と言ったことは一度もありません。
ただ、「あなたの信仰があなたを救った。」(マタイによる福音書9章22節/マルコによる福音書10章52節/ルカによる福音書8章48節,17章19節,18章42節)と言います。
[2019/6/10]

@to_torinsanity3(とーとりん)の発言
キリストなんていませんよ?この大日本の統治者たる天皇様こそが日本国民を守ってくださる神です!!
に対して

いないものにリプライなんてしないと思います。 とーとりん君は天皇陛下が好きなのですね。統治者・神であるとは思っていませんが、私も天皇陛下は好きです。過去の日本、天皇陛下を統治者であり神であると声高に主張して強権を行使した人達が一部いました。
その人達は表面上は天皇陛下を愛し敬っているように見えましたが、実は天皇陛下を愛し敬っていたのではなく、自分達の政治的野望を達成するために天皇陛下を道具として利用していただけなのです。確かにとーとりん君の言う通り、天皇陛下が日本国民を守ったという事実はあります。
昭和20年8月9日の御前会議で裕仁天皇はポツダム宣言を受諾して敗戦を受け入れる決定をし、日本国民を守ったのです。しかし天皇陛下を統治者であり神であると声高に主張して強権を行使した人達は、敗戦を受け入れられず、あくまでも戦争を継続することを主張し、結果的に日本国民を守りませんでした。
とーとりん君は天皇陛下を、本当の意味で愛し敬う人になって下さいね。
聖書に次のように書いてあります。「パウロは記した。『そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とを全ての人々のためにささげなさい。王達や高官のためにもささげなさい。』」(テモテへの手紙2章1-2節) 私も天皇陛下のために願いと祈りと執り成しと感謝をささげます。
[2019/6/10]

東京音楽大学付属高等学校 生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。
君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/6/12]

2019年6月11日7時35分頃、私がいつも通り護国寺駅6番出口附近でチラシを配布していると、A氏(ブログ【対決宣言】参照)に出会った。
彼は3年前のストーカー規制法事件の際、私を逮捕し取り調べた刑事で、警視庁発表の、事件に関する全ての情報を、私の実名と肖像を含めてネット・新聞・テレビ等の報道機関に公表する判断と決定をした実行責任者である。
彼がここに来たのは偶然だったのか、大塚警察署に用があったからなのか、私のツイートやブログを見たからなのか、匿名の通報があったからなのかは分からない。会った時、先ず彼が「自分を覚えているか」と言ったので、私は「はい、覚えています」と答えた。そしてチラシを彼に手渡し、彼は受け取った。
私は彼に「このチラシ配布活動は合法的に行っていますので、どうぞ宜しくお願いします」と挨拶し、彼は立ち去った。彼が逮捕等の物理的強制力を私に行使しなかった事を見ると、彼は悔い改めたのかもしれない。
私は彼が悔い改めて福音を信じて救われることを神に祈り、彼との出会いを与えて下さった神に感謝する。私のチラシ配布活動が実際にどのように行われているかを彼が自分の目に焼き付けたのはとても良いことだ。私はこれまで通り平和的に安全にチラシ配布を続けるだけである。
[2019/6/14]

今朝7時50分頃、私がいつも通り護国寺駅6番出口附近でチラシを配布していると、3年前のストーカー事件の際、私を逮捕し取り調べた刑事であるA氏にまた出会った。彼は私に「自分の名前をネットに実名で書くのはやめて欲しい。頼むからやめて欲しい。」と言ってきた。
私が彼に理由を尋ねると「ネットで自分の名前を検索すると出てきちゃうから。ネットで自分の名前が全世界に配信されるのは嫌だから。」とのことである。
私が「あなたは3年前のストーカー事件の時、私の実名と肖像を含めてネット・新聞・テレビ等の報道機関に公表した責任があるではないか。」と言うと、彼は「自分がやったわけではない。警視庁がやったことだ。自分はただ仕事をしただけだ。責任は自分にはなく警視庁にある。」と答えた。
私は彼に「考えておきます。」と言うと彼は立ち去った。
彼の発言は、お世辞にも理由になっているとは言えないし、たとえ上からの指示でしなければならない仕事であったとしても、自分の取った行動について全く無責任であるとしか言いようがない。
組織の中で、たとえ最終的な意志決定について責任がない個人であったとしても、行動について実行責任は全個人に必ず問われるのである。例えば振り込め詐欺を見ても、実行役の出し子や受け子は自分達が実際に振り込め詐欺を計画したり意志決定した訳ではない。彼等はただ仕事をしただけである。
しかし周知の如く警視庁は、組織の中で最終的な意志決定について責任がない出し子や受け子であっても当然逮捕するし、身柄を検察に送って刑事裁判を受けさせることによって、個人の実行責任を必ず問うのである。だから彼の「責任は自分にはなく警視庁にある」という発言はすでに論理破綻している。
もしそれを言うのであれば、自分の所属している組織である警視庁が現在行っていることを否定することになるからである。
従って本来ならば、私は彼の言い分を聞き入れる義理は全くない。 しかしよく考えた末、今日の彼は私に対してひどく懇願めいた様子であったことから、また彼にも色々と事情があるのだろうと察したことから、私は主イエス・キリストの慈しみと愛を持つことにした。
私は彼の実名を伏せてツイートをし直すことに決めた。
[2019/6/14]

麻布中学校
麻布高等学校
生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。 福音宣教者・木田啓介から挨拶を記します。
お久しぶりです。お元気ですか?
明日、私は君達の文化祭に行きます。
楽しみにしています。
どうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m
[2019/6/14]

私は自分のブログについてもA氏の実名を伏せる事に決めた。 彼が「自分の名前をネットに実名で書くのはやめて欲しい。頼むからやめて欲しい。」と言っていること自体、彼がすでに悔い改めている証拠だと気づいたからである。
もし彼が悔い改めず、今でも自分の取った行動を100%完全に正しいと考えているのであれば、そもそも実名で書かれていることについて全く気にしないはずだし、むしろ誇るはずだからである。
[2019/6/15]

麻布中学校
麻布高等学校
生徒のみなさん

文化祭お疲れさまでした!
私は土曜日に、化学部展、ピタゴラスイッチ展、鉄道研究部、管弦楽部サマーコンサート、スマッシュ展を回りました。どれも楽しかったです。どうもありがとうございました!
油そば展は13時35分頃に並んだのですが既に完売で残念でした。 ロボットマスター展と縁日展はチラシをもらったりお誘いを受けたので行こうと思ったのですが、時間切れで回ることができませんでした。すみませんm(_ _)m
今年の文化祭は例年とは異なり、逆境を克服しての開催だったので、君達にとってもかけがえのない経験となったのではないでしょうか? これからも頑張って下さい。応援しています!
[2019/6/17]

東京音楽大学付属高等学校
獨協中学校・獨協高等学校
生徒のみなさん

本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
獨協生の中に「関心のある友達のために」と言って、私から大量にチラシを受け取って行く生徒達がいたので、私は教育方針にある「善意志」を感じ、嬉しく思いました。「善意志guter Wille」はドイツの哲学者カントの言葉で、教育方針にカント哲学の言葉が書かれている学校は日本全国広しと言えども、獨協中高だけではないかと思います。
君達は、自分達が警察の奴隷ではなく、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもない事を自ら証明したのです。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。

イマヌエル・カントIMMANUEL KANT著
『道徳形而上学原論Grundlegung zur Metaphysik der Sitten』より

「我々の住む世界においてはもとより、およそこの世界のそとでも、無制限に善と見なされ得るものは、善意志のほかにはまったく考えることができない。
Es ist überall nichts in der Welt, ja überhaupt auch außer derselben zu denken möglich, was ohne Einschränkung für gut könnte gehalten werden, als allein ein guter Wille.

知力、才気、判断力等ばかりでなく一般に精神的才能と呼ばれるようなもの、或いはまた気質の特性としての勇気、果断、目的の遂行における堅忍不抜等が、色々な点で善いものであり、望ましいものであることは疑いない、
Verstand, Witz, Urteilskraft, und wie die Talente des Geistes sonst heißen mögen, oder Mut, Entschlossenheit, Beharrlichkeit im Vorsatze, als Eigenschaften des Temperaments, sind ohne Zweifel in mancher Absicht gut und wünschenswert;

しかし、これらの自然の賜物を使用するのは他ならぬ我々の意志である、意志の特性は性格であると言われるのは、この故である。それだからこの意志が善でないと、上記の精神的才能にせよ或いは気質的特性にせよ、これらは極めて悪性で有害なものになり兼ねないのである。
aber sie können auch äußerst böse und schädlich werden, wenn der Wille, der von diesen Naturgaben Gebrauch machen soll und dessen eigentümliche Beschaffenheit darum Charakter heißt, nicht gut ist.

事情は幸運の賜物についてもまったく同様である。権力、富、名誉はもとより、健康ですらも、更にまた身の上の安泰や、現在の境遇に対する満足感をも含めて、およそ幸福という名のもとに総括されるところのものは、人をして得意ならしめ、彼をしばしば傲慢にする。
Mit den Glücksgaben ist es ebenso bewandt. Macht, Reichtum, Ehre, selbst Gesundheit, und das ganze Wohlbefinden und Zufriedenheit mit seinem Zustande unter dem Namen der Glückseligkeit machen Mut und hierdurch öfters auch Übermut,

これらの幸福の賜物が人間の心情に及ぼす影響を規正するばかりでなく、またそうすることによって行為の原理全体までも規正して、これを一般的-合目的たらしめるような善意志がないと。
wo nicht ein guter Wille da ist, der den Einfluß derselben aufs Gemüt, und hiermit auch das ganze Prinzip zu handeln, berichtige und allgemein-zweckmäßig mache;

物の分かった偏見のない人でも、純粋で善良な意志のひとかけらも身の飾りにしていないような人物が、健康と繁栄とを享受し続けている有様を眺めては、さすがに好感を持ち得ないことは言うまでもあるまい。
ohne zu erwähnen, daß ein veunünftiger unpartaiischer Zuschauer sogar am Anblicke eines ununterbrochenen Wohlergehens eines Wesens, das kein Zug eines reinen und guten Willens ziert, nimmermehr ein Wohlgefallen haben kann,

それだから善意志は、人間が幸福に値いするためにも、欠くことのできない条件をなすもののように思われる。
und so der gute Wille die unerläßliche Bedingung selbst der Würdigkeit, glücklich zu sein, auszumachen scheint.」

「善意志は、それが遂行し或いは成就するところのものによって善なのではない、また何によらず所期の目的を達成するに役立つから善なのではない。善意志は、実に意欲そのものによってのみ━換言すれば、それ自体として善なのである。
Der gute Wille ist nicht durch das, was er bewirkt oder ausrichtet, nicht durch seine Tauglichkeit zur Erreichung irgend eines vorgesetzten Zweckes, sondern allein durch das Wollen, d. i. an sich, gut,

善意志は、ただそれだけとして見ても、それによって、何か一つの心的傾向を━それどころかもし欲するのであれば一切の傾向を、満足させるために為し得るかも知れないすべてのものよりも、比較を絶して高く評価されるべきである。
und, für sich selbst betrachtet, ohne Vergleich weit höher zu schätzen als alles, was durch ihn zu Gunsten irgend einer Neigung, ja wenn man will, der Summe aller Neigungen nur immer zustandegebracht werden könnte.」
[2019/6/21]

武蔵高等学校中学校 生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/6/26]

武蔵高等学校中学校 生徒のみなさん

こんばんは。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
ある生徒達は私に「頑張って下さい。」と声をかけてくれたり、毎回チラシを受け取ってくれたので私はとても励まされました。またある生徒は私に「チラシを受け取って読んだのだけれどもよく分からなかった。イエスの真似をしなさいということですか。」と直接質問してくれたので、武蔵生の知的好奇心に感心しました。私が「僕が結局言いたいのは、福音を理解しなさいということよりも、福音を信じなさいということです。」と答えるとその生徒は納得してくれた様子だったので良かったです。
実際、福音は理解することよりも信じることの方が大切です。なぜなら主イエスは「福音を理解しなさい」とは言わずに、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章15節)と言っているからです。ミラノ主教聖アンブロシウス(339-397)も福音のサクラメントである洗礼について説明する時、説明を理解することよりも、「キリスト信者にとっては、信仰が先に来るからである。In christiano enim viro prima est fides.」(アンブロシウスAMBROSIUS『サクラメントについての講話DE SACRAMENTIS』1巻)と言っているからです。もちろん福音を理解することは重要ですし、「イエスの真似をすること」、即ち福音を行動することも重要です。聖書に「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」(ヨハネの手紙Ⅰ1章6節)と書いてある通りです。しかし福音は何よりもまず信仰が大切であり、信仰が全てに先立つということです。つまり福音を理解することも福音を行動することも、福音を信じることなしには不可能であり、逆に言えば福音を理解することも福音を行動することも、福音を信じれば可能であるということです。この信仰というものの大切さ、信仰というものが実は人間の想像を絶する凄いものであり、信仰には無限の可能性があるのだということについて主イエスも次のように言っています。
「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここからあそこに移れ』と命じても、その通りになる。あなた方にできないことは何もない。」(マタイによる福音書17章20節)
「はっきり言っておく。あなた方も信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、その通りになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(マタイによる福音書21章21-22節)
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2019/7/8]

跡見学園中学校高等学校
お茶の水女子大学附属小学校
お茶の水女子大学附属中学校
お茶の水女子大学附属高等学校
児童・生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/9/2]

@y4RilMLzvAbZWjl(@2日で)の発言
捕まった人と捕まっていない人のどちらが信頼できると思いますか?どちらが良い人だと思いますか?
に対して

リプライをどうもありがとうございます。
捕まった人と捕まっていない人、つまり犯罪者と合法者のどちらが信頼できるか、どちらが良い人かという問いですね。
@2日で様は恐らく「犯罪者は悪い人であり信頼できない人。合法者は良い人であり信頼できる人。」と考えていることと思います。
しかしそのように考えるのは早計、短絡的であり危険であると私は思います。というのは「正しい」や「良い」という事と「合法的である」という事は本質的に全く異なる事であり、両者の間に関係は全くないからです。これについて私は既にブログで詳述しました(福音の弁明と立証48-50参照)。
人間社会の論理では確かに合法者は良い人であり信頼できる人であるとされます。しかし神の国の論理ではそうではありません。主イエスは「合法者は救われる」と言った事は一度もありません。
それどころか、主イエスを十字架につけて殺したのは合法者達ですし、彼は合法者達から死刑に値する犯罪者として裁かれたのです。死刑犯罪の法的根拠は十字架の罪状書きに書かれた「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」(ヨハネによる福音書19章19節)です。
彼は、真に人・真に神であることから当然、人類全体の真の王です。だから合法者達の作った死刑犯罪の構成要件に該当しますが、私は彼を合法者達よりも信頼できるし、良い人だと思います。
合法者だから「良い人」「信頼できる人」なのではありません。聖書には 「全ての人が罪を犯した」(ローマの信徒への手紙5章12節) 「善を行う者はいない。一人もいない。」(詩編14編3節) 「人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」(イザヤ書2章22節)と書いてあります。 つまり犯罪者・合法者にかかわらず、人間に「良い人」「信頼できる人」などというものは存在しないと聖書は教えているのです。
そして聖書には「今や、神の正義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる事により、信じる者全てに与えられる神の正義です。そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で正しい人とされるのです。」(ローマの信徒への手紙3章21-24節)と書かれています。
従って私は「犯罪者も合法者も人間は全て、信仰によって正しい人とされ、神の恵みによって本当の意味で良い人・信頼できる人になることができる。」と考えています(福音の弁明と立証51-90参照)。
なぜなら私は、人間社会の論理を伝える者ではなく、神の国の論理を伝える者、すなわち福音宣教者だからです。
[2019/9/2]

@y4RilMLzvAbZWjl(@2日で)の発言
あなたがストーカーしなければ済む問題です。
に対して

私自身はストーカーをしているつもりは微塵もありません。ただ私は今までと同じように福音宣教活動を行うだけです。しかし私の福音宣教活動をストーカー行為に当たると判断する人がいるのであれば、決して妥協したりゴマカシたりで済ませてはならない問題がそこに存在すると私は考えています。
[2019/9/2]

@y4RilMLzvAbZWjl(@2日で)の発言
自分も悪いということを自覚してください。
に対して

@2日で様は、自分が悪いということを自覚していない人が、赦しのサクラメントである個人懺悔を受けると思いますか(福音の弁明と立証序参照)?
聖書に次のように書かれています。
「主よ、あなたが罪を全て心に留められるなら/主よ、誰が耐え得ましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」(詩編130編3-4節)
@2日で様が、この神の言葉を注意深く傾聴し、よく反芻される事を心よりお勧め致します。
[2019/9/2]

跡見学園中学校高等学校
お茶の水女子大学附属小学校
お茶の水女子大学附属中学校
お茶の水女子大学附属高等学校
児童・生徒のみなさん

おはようございます。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2019/9/7]

桜蔭中学校
桜蔭高等学校
生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/9/10]

@mayo_unei_loveの発言
ちょっと通報される程度に頑張ってください!
に対して

通報されるためではなく、福音宣教のために頑張ります! 私は今までと同じように、平和的に安全にチラシを配布するだけです。
[2019/9/10]

今日、私が桜蔭生にチラシを配布していたら、なぜか暁星生が来て、紛れて私からチラシを受け取ってくれたので、嬉しかったです。 Merci beaucoup!
もちろん今までに私からチラシを受け取ってくれた桜蔭生もどうもありがとうございます!
[2019/9/12]

本日7時55分頃いつものように水道橋駅近辺でチラシ配布をしていると、本富士警察署のナイトウさんという方が来て、「ここで何をしていますか?」と私に聞いてきた。
私は「チラシの配布です。」と答え、事前に取っておいた道路使用許可証を示すと、彼は確認しただけで帰って行った。チラシ配布は特に妨害されることはなかった。
聖書に次のように書いてあります。 「全ての人に信仰があるわけではない。しかし、主は真実な方です。必ずあなた方を強め、悪い者から守って下さいます。」(テサロニケの信徒への手紙Ⅱ3章2-3節)と。 この言葉の通り、主は私を守って下さいました。主に感謝します。
ナイトウさんが言うには、匿名の通行人から非通知で110番通報があったようで、その通報者とはもう連絡が取れないとのこと。 通報者が私のツイートを見ているかどうかは知りませんが、その人に言っておきます。
「主は私と共におられます。私は福音のために命を捨てる覚悟が既にあり、このチラシ配布活動を決して遊び半分やふざけた気持ちで行っているのではありません。それなので桜蔭生に福音を伝えるため、私は明日もチラシ配布活動を続行します。」と。

いずれにせよ私は、神の福音に反対する勢力や救いの道を妨害しようとする勢力に対しては一歩も譲歩しないし、決して屈服しない。ここに改めて宣言しておく。
[2019/9/13]

桜蔭中学校
桜蔭高等学校
生徒のみなさん

おはようございます。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2019/9/17]

@mayo_unei_loveの発言
ちょっと通報される程度に頑張ってください!
に対して

結果的に君の言う通りになりましたが、チラシ配布活動は妨害されることなく無事に終了しました。
福音の反対者の悪意から私を守って下さった主なる神に感謝します。
[2019/9/17]

聖学院小学校
聖学院中学校高等学校
女子聖学院中学校高等学校
児童・生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/9/18]

獨協中学校
獨協高等学校
生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
福音宣教者・木田啓介から挨拶を記します。
お久し振りです。お元気ですか?
明日、私は君達の文化祭に行きます。楽しみにしています。どうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m
[2019/9/20]

獨協中学校
獨協高等学校
生徒のみなさん

獨協祭1日目、お疲れ様でした!
私は時間の関係上、全てを見ることはできませんでしたが、4階と3階を中心に見ました。どれも楽しかったです!
私が見て回っている間、たくさんの獨協生達が私に声をかけてくれ、握手を求められたり、サインを求められたり、写真に一緒に写ることを求められたので、嬉しかったです!
私は求めに応じて、パンフや紙片やスマホや財布や腕や頬など様々な場所にサインしましたが、書きにくい場所では上手くサインができなかったので申し訳なかったですm(_ _)m しかし私はとても励まされました。どうもありがとうございました! 獨協祭2日目も頑張って下さい。応援しています!
[2019/9/21]

法政大学中学高等学校 生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
福音宣教者・木田啓介から挨拶を記します。
お久しぶりです。お元気ですか?
明日、私は君達の文化祭に行きます。楽しみにしています。どうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m
[2019/9/21]

法政大学中学高等学校 生徒のみなさん

鈴掛祭、お疲れ様でした!
ある法政生が、私が来る前から校門の前で私を待っていて下さり、私の入場受付後すぐに何人かの法政生の護衛をつけて丁寧にフロアを案内して下さったので、私は鈴掛祭をとても楽しむ事ができました。
法政生のホスピタリティーに感動しました。どうもありがとうございます!これからも頑張って下さい。応援しています!
[2019/9/22]

聖学院小学校
聖学院中学校高等学校
女子聖学院中学校高等学校
児童・生徒のみなさん

おはようございます。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2019/9/25]

駒場学園高等学校
駒場東邦中学校・高等学校
筑波大学附属駒場中学校・高等学校
日本工業大学駒場中学校・高等学校
生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/9/26]

暁星中学校
暁星高等学校
生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
福音宣教者・木田啓介から挨拶を記します。
お久しぶりです。お元気ですか?
明日、私は君達のエトワール祭に行きます。楽しみにしています。どうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m
[2019/9/27]

暁星中学校
暁星高等学校
生徒のみなさん・教職員のみなさん

エトワール祭1日目、お疲れ様でした!
私は、れいわっふる,なんなん?,BIO TALE,色彩のパイオニア,Flontiers of Physics,Shateki「シューティーバン」人間スゴロク,1年C組脱出ゲーム!!,ストラッククイズ,学年発表,卓☆遊☆戯,君のあわ。,今…ドーム作りませんか?,ロールちゃんとひみつの帽子,御悩板,競技かるたの世界,Ball Park,タッセンブル,卓球の達人,チェックメイド,暁の森の占星師,鉄研2019を見て回りました。どれも楽しかったです!食べ物はどれも美味しかったです!
私が見て回っている間、エトワール祭実行委員の暁星生だけでなく、暁星の教職員の方々までもが私を親切丁寧に案内して下さいました。とても感激しました。
流石は暁星の教職員、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9章13節)という主イエスの教えをよく理解していらっしゃる方々だなと感心しました。
またある暁星生は「よかったら使って下さい」と言って、私に無償でカレーのチケットをくれました。
私は、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20章35節)、「はっきり言っておく。私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水の一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイによる福音書10章42節)という主の言葉を思い起こしました。
エトワール祭で私はとても励まされました。どうもありがとうございました!主に感謝します。
エトワール祭2日目も頑張って下さい。
主なる神からの恵みと平和が暁星学園に豊かにありますようにお祈りします。
[2019/9/28]

駒場学園高等学校
駒場東邦中学校・高等学校
筑波大学附属駒場中学校・高等学校
日本工業大学駒場中学校・高等学校
生徒のみなさん

おはようございます。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2019/10/5]

@luncher_ktの発言
宣教師だったんですね 無言だったから知らなかった
に対して

無言ではなかったはずですが、私の正体が福音宣教者である事を分かって頂けて良かったです。
[2019/10/6]

東京中華學校
雙葉小学校
雙葉中学校・高等学校
児童・生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/10/8]

@kamihitoe810の発言
決して敵対してる訳ではないですが、何故中学校・高校で宣伝をされるのですか?大人に対して宣伝をすることは何故しないのですか?是非とも東京駅や渋谷駅、新宿駅や新橋駅でも名刺配布をしていただきたいのですが。子供よりも大人の方が入信される方は多いんじゃないですか?
に対して

コメントどうもありがとうございます!
私が何故福音を中学校・高校で宣伝し、大人に対して宣伝しないのかという問いですね。
私は今、福音を大人に対して宣伝していない訳では決してありません。なぜなら、私が中学校・高校で福音を宣伝することこそが、東京駅や渋谷駅、新宿駅や新橋駅で福音を宣伝するよりもはるかに強烈に大人に対して福音を宣伝することになるからです。
先ず根幹となる聖書的理由(詳細は2019年4月22日のツイート「事前通告書」参照)。
私が福音宣教をする理由は、主イエス・キリストの私に対する以下の命令です。
「イエスは言われた。『私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼等に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。』」(マタイによる福音書28章19-20節)
ここで「全ての民」と言われている事から分かるように、福音宣教は大人に対してもしなければなりません。
そして私が特に中高生世代の皆さんに精力的にチラシ配布をしているのは次の聖書的根拠によります。
「あなたの青春の日々にこそ、あなたの創造主に心を留めよ。/苦しみの日々が来ないうちに。/『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。」(コヘレトの言葉12章1節)
次に私の置かれた状況や文脈に由来する固有の理由。
ブログ「対決宣言」に書いたように、私は担当検事から、女子中学生のカバンにカードを入れたこと自体が処罰対象であると言われました。これは担当検事の個人的な考えや意見ではなく、日本国の法律を支えている思想を代弁した発言です。つまり日本社会全体が今も私に対して女子中学生のカバンにカードを入れる事についてノーを突きつけ続けている事実があるのです。この事実に対して私は責任を持って応答しなければなりません。ブログ「対決宣言」に書いたように私は日本国の法律を支えている思想を否定し、徹底的にこれと対決する者です。だから私は今、中学校・高校で福音を宣伝しているのです。私の現在の行動、即ち私の福音宣教活動自体がこの事実ゆえに日本社会全体に対する私の応答なのです。私が東京駅や渋谷駅、新宿駅や新橋駅で福音を宣伝してもこの事実に対する応答には全くなりません。従って私が今、行っている中学校・高校での福音宣教活動はこの事実ゆえに実は中高生世代に対してだけではなく日本社会全体に対してのものなのです。そして私の福音宣教活動が日本社会全体に対してのものなのであれば、それは当然大人に対しての強烈なメッセージ、つまり大人に対しての強烈な福音の宣伝でもあるのです。
[2019/10/8]

@N1K2J4の発言
特攻となんの関係があるんですか?
に対して

私のブログやツイートのどこに「特攻」という言葉がありましたか?
特攻とは何の関係もありません
[2019/10/8]

東京中華學校
雙葉小学校
雙葉中学校・高等学校
児童・生徒のみなさん

おはようございます。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2019/10/15]

海城中学高等学校
戸山小学校
生徒・児童のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/10/16]

@taku_mwxzの発言
あの名作漫画のエヴァンゲリオンと関係があるんですか?
に対して

いいえ。
私のチラシ表紙の枠文字右半分に「私は福音を恥としない」という文がありますが、これは新約聖書の中のローマの信徒への手紙1章16節の引用です。この文のギリシア語原文が枠文字下段「ΟΥ ΓΑΡ ΕΠΑΙΣΧΥΝΟΜΑΙ ΤΟ ΕΥΑΓΓΕΛΙΟΝ(ウ・ガル・エペスヒュノメ・ト・エヴァンゲリオン)」です。
新約聖書のローマの信徒への手紙はパウロという人がギリシア語で書きましたが、書かれたのは紀元後1世紀のことです。
その名作漫画が書かれたのは紀元後何世紀のことですか?
私が言及するのは名作漫画のエヴァンゲリオンではなく聖書のエヴァンゲリオンΕΥΑΓΓΕΛΙΟΝです。
因みに枠文字左半分「NON ENIM ERUBESCO EVANGELIUM(ノン・エニム・エルベスコ・エヴァンゲリウム)」は同じ文のヴルガタ聖書でのラテン語訳です。
[2019/10/22]

海城中学高等学校
戸山小学校
生徒・児童のみなさん

おはようございます。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2019/10/26]

@LUKAMINの発言
「きっしょ、こんなん神も泣くわ」
に対して

神も泣く?
なぜ?
聖書的根拠は?
[2019/10/27]

@LUKAMINの発言
「こんなんやつに信仰されたら誰だって泣くんだよなぁ…」
に対して

全くそうは思いませんね。
神は泣きませんよ。
あなたは聖書というものを読んだことがありますか?
聖書には、イエス・キリストが「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9章13節)と教えたと書かれています。
この言葉の意味を聞いて理解することのできる耳を神があなたに与えて下さることを心よりお祈り致します。
[2019/10/27]

大妻中学高等学校 生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/10/28]

本日15時53分頃、私がいつものように半蔵門駅5番出口附近でチラシ配布をしていると、麹町警察署のオオヤさんという方が近付いて来て、声をかけられた。「お兄さんがいつも路上でチラシを配っているけどいいのか?」という110番通報があったとのこと。
私が事前に取っておいた道路使用許可証を示すと彼は確認しただけで帰って行った。
チラシ配布は特に妨害されることはなかった。
通報者が私のツイートを見ているかどうかは知りませんが、その人に言っておきます。
「主は私と共におられます。私は福音のために命を捨てる覚悟が既にあり、このチラシ配布活動を決して遊び半分やふざけた気持ちで行っているのではありません。それなので明日も私は福音宣教のためにチラシ配布活動を続行します。」と。

いずれにせよ私は、神の福音に反対する勢力や救いの道を妨害しようとする勢力に対しては一歩も譲歩しないし、決して屈服しない。ここに改めて宣言しておく。
[2019/10/30]

麹町小学校
女子学院中学高等学校
武蔵野大学附属千代田高等学院・千代田女学園中学校
児童・生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/10/30]

@yuna_tori_の発言
聖書の中で一番好きな個所はどこですか?
に対して

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。」(マタイによる福音書22章37-40節)
[2019/11/2]

@yuna_tori_の発言
聖書を全部覚えているなんてすごいですね。
に対して

この箇所は、キリスト教徒にとって黄金律とも言うべき大事な箇所なので覚えています。私以外のキリスト教徒も覚えている人が多いと思います。 もちろん私は聖書の隅から隅まで一字一句間違えずに暗誦できる訳ではありません。一応、手元の聖書を確認していますよ。
余談ですが、聖書を暗誦するということは古くから伝統的に行われています。私は、ユダヤ教徒の小学生が全員、教室内で自分の机の上に旧約聖書を開いて、体を揺らしながらヘブライ語の創世記を一心不乱に暗誦している映像を見たことがあります。
[2019/11/3]

大妻中学高等学校
麹町小学校
女子学院中学高等学校
武蔵野大学附属千代田高等学院・千代田女学園中学校
生徒・児童のみなさん

おはようございます。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2019/11/7]

城北中学校・高等学校 生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/11/8]

今朝8時頃、いつものように緑ヶ丘第二公園附近でチラシを配布していたら、ある城北生からサインを求められたので応じた。
応援どうもありがとうございます!
[2019/11/13]

今朝8時頃、いつものように緑ヶ丘第二公園附近でチラシを配布していたら、ある城北生から握手を求められたので応じた。
またある城北生は「友達のために」と言って私から15枚チラシを受け取ってくれ、「頑張って下さい!」と励ましてくれた。
応援どうもありがとうございます!
[2019/11/14]

今朝いつものように緑ヶ丘第二公園附近でチラシを配布していたら、多くの城北生からサインや握手や大量のチラシを求められたので応じた。そのため今日配布予定のチラシは午前8時過ぎには全て配り尽くしてしまった。
明日はもっと大量にチラシを用意して行きます。
応援どうもありがとうございます!
[2019/11/15]

今朝いつものように緑ヶ丘第二公園附近でチラシを配布していたら、多くの城北生からサインや握手や大量のチラシを求められたので応じた。
また、ある城北生は私のファンだと言ってくれた。
更に今日は2人の城北生から記念撮影を求められたので応じた。彼等は私と一緒にチラシを配布してくれて、手伝ってくれた。
応援どうもありがとうございます!
[2019/11/16]

今朝は、何人かの城北生からDMで時刻と枚数を指定して大量のチラシを受け取りたい旨の連絡が事前にあったので、いつもの緑ヶ丘第二公園附近でのチラシ配布で応じた。
その後のDMによると貰ったチラシは学校で一瞬で配り終えてしまったとのこと。
多くの城北生にチラシを受け取って頂けて嬉しいです!
[2019/11/18]

今朝8時15分頃、いつものように緑ヶ丘第二公園附近でチラシを配布していたら、板橋警察署上板橋駅前交番のシラヤさんが近づいて来て、声をかけられた。私のチラシ配布について苦情があったとのこと。私が「通報者は誰ですか?」と尋ねると、彼は「それは答えられません。」と言った。私は事前に取っておいた道路使用許可証を彼に示し、「通報者に私のチラシ配布は正当かつ合法的に行われているので無責任な通報はしないで頂きたいと伝えて頂けますか。」と言った。彼は確認しただけで帰って行った。チラシ配布は特に妨害されることはなかった。

いずれにせよ私は、神の福音に反対する勢力や救いの道を妨害しようとする勢力に対しては一歩も譲歩しないし、決して屈服しない。ここに改めて宣言しておく。

https://t.co/YhrE2k2r75
[2019/11/19]

今朝も、いつものように緑ヶ丘第二公園附近でチラシを配布していたら、多くの城北生から大量のチラシや握手を求められたので応じた。
また、「ファンです!」とか「応援してます!」とか「頑張って下さい!」と言ってくれる城北生がいた。中には「大好きです!ラブレターもらってあげるよ!」と言う城北生もいた。
更に今朝は、DMでチラシ大量受け取りの事前連絡をしてくれた、ある城北生がサインを求めてきた。わざわざ色紙まで準備してくれたので、その場で私は色紙に自分の名前と、ギリシア語で
「δουλος Χριστου Ιησου κλητος αποστολος αφωρισμενος εις ευαγγελιον θεου」
(ドゥロス・クリストゥ・イイス・クリトス・アポストロス・アフォリズメノス・イス・エヴァンゲリオン・テウ)
と書いた。
これは、新約聖書「ローマの信徒への手紙1章1節」の原文である。
意味は「キリスト・イエスの奴隷。呼ばれた者、派遣された者、選び出された者、神の福音のために。」で、私のプロフィールの自己紹介欄に記した言葉である。
応援どうもありがとうございます!
[2019/11/19]

城北中学校・高等学校 生徒のみなさん

こんばんは。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2019/11/19]

鷗友学園女子中学校
鷗友学園女子高等学校
生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/11/20]

@Y09483033 の発言
ローマ教皇が日本に来ていますが、それについてはどう思いますか?
に対して

とても歓迎しています。
私はローマカトリック教会とローマ教皇を尊敬しており、祈りの内にいつも覚えております。
因みにフランシスコ教皇のフランシスコと、私の霊名であるフランシスは同一人物で、アッシジの聖フランチェスコです。
[2019/11/24]

今朝8時8分頃いつものように鷗友学園正門附近でチラシを配布していたら、学校周辺を清掃していた用務員の方が「傘がなくて大丈夫か?いらない傘ならたくさんあるんだよ。」と言って、私に傘を貸してくれた。
とても助かりました!
優しいお心遣いをどうもありがとうございます!
[2019/11/27]

@wZ4fMS20W8UM8qKの発言
FF外から失礼致します。 木田さんが本日、名刺の配布を行った鴎友学園女子中学高等学校は、プロテスタント系のキリスト教の学校です。 そのような学校にキリスト教のチラシ配布を行うのは何故でしょうか? なぜ配布先に選んだのですか?
に対して

コメントをどうもありがとうございます。
はい、全ての人に福音を告げ知らせるためです。 鴎友学園女子中高関係者には、まだ父と子と聖霊の名によって洗礼を受けていない人がいるからです。
あなたは福音を信じていますか?
そして父と子と聖霊の名によって洗礼を受けていますか?
[2019/11/29]

@wZ4fMS20W8UM8qKの発言
私自身は福音はあまり信じておりませんし、洗礼も受けておりません。 では木田さんは鴎友学園の関係者全員が洗礼を受けるべきだとの考えのもとで布教活動を行っていらっしゃるのでしょうか?
に対して

返信どうもありがとうございます。
ご自身がまだ洗礼を受けていらっしゃらないこと、分かりました。
ご質問の件についてはそうです。しかしこれは、私の個人的な考えや意見とか私の独自の発想や思いつきなのではなく、聖書が語り、教えていることです。なぜなら聖書に次のように書いてあるからです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネによる福音書3章16-18節)
「イエスは言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。』」(ヨハネによる福音書3章3,5節)
「イエスは言われた。『私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼等に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。』」(マタイによる福音書28章19-20節)
だから私は、私の個人的な考えや意見とか私の独自の発想や思いつきに従って布教活動を行っているのではなく、これらの、聖書が語り、教えている内容に従って布教活動を行っているのです。
[2019/11/29]

@wZ4fMS20W8UM8qKの発言
丁寧なご返答ありがとうございます。 では何故ターゲットを中学校や高等学校に絞り活動をなさっているのですか?
に対して

返信どうもありがとうございます!
私が特に中学校や高等学校に対してチラシ配布をしているのは、聖書が次のように教えているからです。 「あなたの青春の日々にこそ、あなたの創造主に心を留めよ。/苦しみの日々が来ないうちに。/『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。」(コヘレトの言葉12章1節)
[2019/11/30]

@xV0oyX4tfPWIu5hの発言
キリスト・イエスではなくイエス・キリストではないですか?
に対して

コメントをどうもありがとうございます!
ご指摘の通り、現在、全世界的にはイエス・キリストの語順が一般的に通用しています。しかし新約聖書の初期の文書であるパウロが書いた手紙(実は書かれた年代では四福音書よりも古い)ではイエス・キリストの語順もキリスト・イエスの語順も両方の用例が認められます。意味的には両方とも全く変わりません。「イエス」は人名であり、「キリスト」はヘブライ語のメシア(油注がれた者=王・救い主)のギリシア語訳で、称号であり、両者は同格です。プロフィールのキリスト・イエスは、ローマの信徒への手紙1章1節のギリシア語原文「ΔΟΥΛΟΣ ΧΡΙΣΤΟΥ ΙΗΣΟΥ ΚΛΗΤΟΣ ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΑΦΩΡΙΣΜΕΝΟΣ ΕΙΣ ΕΥΑΓΓΕΛΙΟΝ ΘΕΟΥ」からの直訳なので、キリスト・イエスの語順になっています。文中の「ΧΡΙΣΤΟΥ ΙΗΣΟΥ」が「キリスト・イエス」の語順になっています。 https://t.co/cz5JvsZTRx
礼拝堂の中にある祭壇の彫り物や刺繍とかローソクとかに「ΧとΡ」が重なった図形や「ΙΗΣ(ΙΗS)」という文字を見かけたことはありませんか?これは実はギリシア語で「ΧとΡ」が重なった図形は「ΧΡΙΣΤΟΣキリスト」を意味し、「ΙΗΣ(ΙΗS)」は「ΙΗΣΟΥΣイエス」を意味するのです。
[2019/11/30]

今朝7時36分頃いつものように鷗友学園正門附近で平和的に安全にチラシを配布していたら、マスクをした一人の男性が近づいて来て、いきなり「ここでチラシを配るのは通行人に危険だからやめて欲しい。」と素っ頓狂なことを言ってきた。その男性は、「あなたの名前は何ですか?」という私からの問いに答えることなく、そのまま鷗友学園に入って行った。
全く合理性のない意味不明な論理である。しかも彼は私に自分の名前すらも名乗っていない。このように明らかに不合理で、無責任極まりない名無しの発言に従う必要は全く無いので、私は構わずにチラシ配布を続行した。
その後7時50分頃、一人の婦人警官が自転車で来て鷗友学園に入って行った。
またその後、生徒ではない一人の女性が近づいて来て私からチラシを受け取り、またしても自分の名前を名乗ることなく、いきなり私に「ここでチラシを配布するのは学校側としてはやめて欲しい。」と言ってきた。私は「ここは学校の敷地外ですよね?」と応じて、チラシ配布を続行した。彼女はそのまま鷗友学園に入って行った。
更にその後、先程自転車で来た、北沢警察署のテラダさんという婦人警官の方が鷗友学園から出て来て私に「ビラ配りの110番通報があったので来ている。学校側があなたにチラシ配布を別の場所で行って欲しいと言っている。」と伝えに来た。私は事前に取得した道路使用許可証を彼女に提示し、ここでのチラシ配布活動が正当かつ合法的に行われている事を確認してもらった。そして私は彼女にお願いしてチラシ配布が終わるまで私のそばにいてもらい、場所を変えずにそのままチラシ配布を続行した。

いずれにせよ私は、神の福音に反対する勢力や救いの道を妨害しようとする勢力に対しては一歩も譲歩しないし、決して屈服しない。ここに改めて宣言しておく。

https://t.co/YhrE2k2r75
[2019/11/30]

今朝いつものように鷗友学園正門附近でチラシを配布していたら、背後から何か「ゴン!ゴン!」という音がしたので振り向くと、校舎3階の大きな窓に多数の鷗友生が集まっていて、私がチラシを配布する様子を見ていた。その中のある生徒達が私に向かって手を振ってくれたので私も手を振り返した。そうしたら「キャーッ!」という声が聞こえた。
応援どうもありがとうございます!
とても嬉しかったです!
[2019/11/30]

鷗友学園女子中学校
鷗友学園女子高等学校
生徒のみなさん

こんばんは。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2019/11/30]

@waiwai364364の発言
人気者ですねぇ〜
に対して

私については、よく思う人とよく思わない人の両極端ですよ。
[2019/11/30]

全ての人が主なる神に祝福された、良いクリスマスを迎えることができますように、お祈りします。

全能の神よ、あなたの独り子の降臨によって人類に救いを与えられたことを感謝します。御子は栄光の内に再び来られ、正義によって世を裁かれる時、全てのものを新しくされます。
どうか、御子の訪れによって私達を清め、心の闇を照らして下さい。主が来られる時、主にふさわしいみ住まいを、常に私達の内に備えることができますように、聖霊の交わりの中で、あなたと共に世々に生き、支配しておられる御子、私達の主イエス・キリストによって。アーメン
[2019/12/1]

開成中学校・高等学校 生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2019/12/3]

今朝7時50分頃いつものように開成學園正門附近でチラシを配布していたら、ある開成生が私を睨みつけ、大声で「チッ!!何がやりたいんだ!バカヤローッ!!」と罵声を浴びせてきた。彼は私に危害を加えないで、そのまま通り過ぎて行った。
彼とはその場で会話することはできませんでしたが、私がやりたいのは福音の宣教です。ただそれだけです。どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m
父と子と聖霊である神が、どうか彼を祝福し、心の癒しと平和を与えて下さいますように、お祈り致します。
「イエスは教えられた。『私のためにののしられ、迫害され、偽る者達からあらゆる悪口を浴びせられる時、あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなた方よりも前の預言者達も、同じように迫害されたのである。』」(マタイによる福音書5章11-12節)
主に感謝。
[2019/12/5]

@wZ4fMS20W8UM8qKの発言
返信ありがとうございます。あなたの思想は大まかには理解できましたが、あなたに気付いて欲しいことがあります。 どの学校にもカリキュラムや予定というものが存在します。学生に福音を告げたいというあなたの思想は決して悪ではないと思いますが、大抵の人間は見知らぬ人物を警戒します。その人物が宗教関係者か連続殺人犯かわからないからです。なぜなら口ではどうとでも言えるから。 そして学校に予定があると申し上げたのは、もしそういった見知らぬ人物が生徒に接触するとなれば学校側としては警戒せざるをえません。強制的に無視するよう求めているのではなく、生徒を守ろうとしているからです。またそういった警戒によって、場合によっては授業の遅延(聖書の授業や礼拝など)も発生します。つまり私が木田さんに何を言いたいかというと、キリスト教の布教、洗礼の推進、学生への接触は善行ですが、可能なら(木田さんがカトリックかプロテスタントかは存じ上げないので)神父または牧師などと言った資格を取り、その肩書のもとで学校で講義を行った方がより良いと思います。重ねて申し上げますが、生徒含め人間は見知らぬ人物を警戒します。ですからあなたが校門や通学路でチラシ・名刺の配布を行うことは、単刀直入に申し上げれば生徒にとっても迷惑です。いつナイフで切りつけられるかわかりませんから。 長文になってしまいましたが、私の言いたいことは以上です。 訂正させて頂きます。 『可能なら』資格を取った方がより良い ではなく、 資格を取った方が確実に良い に訂正します。 返信して頂けないようなので恐らくミュートされたと思われますが、最後に一言。 自分の行動を振り返ってください。他人の気持ちを考えてください。キリスト教は自分と違う考えの人間を排除する宗教ではありません。 もしあなたがこのまま独善的な行動を続けるのなら、それはただの我儘です。 神の名の下に、という名目で全てが正義になるという主張が何を引き起こしたかご存知ですよね?宗教戦争ですよ。
に対して

私のチラシ配布活動に対するあなたの匿名の個人的な感想を確かに聞かせて頂きました。
あなたは繰り返し、私と私のチラシ配布活動に対して警戒して当然であると主張されていますが、それでは私はあなたにお尋ねします。私がこれまでに鷗友生に対して一人でも何らかの危害を加えた事実があるのですか?もし危害を加えた事実が一つもないのであれば、あなたの「警戒して当然である」という主張が完全に誤りであり、匡正されなければならないという事になぜあなたは気がつかないのですか?
あなたには、以下の主イエスの言葉を贈ります。
イエスは教えられた。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、先ず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイによる福音書7章3-5節)
あなたが福音を信じるか信じないかはあなたの自由ですが、私は、あなたが私のように、古い行動原理を悔い改めて神の福音を信じ、罪を赦され、正しい人とされ救われるようにお祈りします。
父と子と聖霊である神からの祝福があなたに豊かにありますように。
[2019/12/6]

@gomikuzu1515の発言
ff外から失礼します。 姪がかつて通っていたので、たまたま知ったのですが、見ず知らずの他人が学校に入るためにはそこを通らなくてはならないのに門の目の前にいてかなり警戒していた子もいたそうです。また、いきなり手を振られたという子も。それが事実なのか私に確認する術はありません。 しかしもし私ならこの歳でもいきなり知らない人から手を振られたら怖いですし(それが本当は善い人だったとしても)中学高校くらいの子供は変な人(悪い意味ではなく、自分の知っている普通より外れているという意味で)を見つけると騒ぎ立てたくなるものです。かつて私にもそんな頃がありましたから。 このような状況下で、応援ありがとうございますという発言は少々おかしいのではないでしょうか。 私はあなたの子供たちに自分の信仰している宗教を広めたいという考えは悪いものであるとは思いません。しかし、これが生徒たちのためになっているかというと私には疑問を持たざるを得ません。 今、宗教はイスラム国やその他事件などの影響により怖いものと考える人も多い世の中になっています。ただでさえ見知らぬ人が校門に立ち続けているというだけでも不審なのに、宗教ときたら警戒も強まってしまう可能性が高いです。このように生徒、また学校側も警戒している中で福音を告げることは果たして効果的と言えるのでしょうか。私は洗礼を受けている者ではありません。ただキリスト教に対して特別悪いイメージを抱いたこともありませんでした。しかし、このような布教の仕方ではキリスト教=怖いともなりかねないと思うのです。 人間は見た目だけではどのような人物か判断できません。その人が相手に対してどのように考えているかも。だからこそ他人は基本的に信用はできても信頼はできないというのが私の自論です。ましてや誰かも分からないあまり良くない過去を持っている可能性がある人物を信頼などできるわけがないでしょう。 宗教の布教はまず信頼がなければ成り立たないのではないかと私は考えます。そのため、学校の前での布教活動は、学校にとってはもしかしたら生徒に危害を加えるかもしれない人を警戒しなければならず、生徒は宗教や外部の他者への恐怖を植え付けられ、あなたにとっても骨折り損となっていると思います 長々とツイートしてしまいましたが、結局のところ、貴方の行動は空回りしており、むしろ多くの人にマイナス要素があると言えます。何か方法を考え直す必要を感じました。そもそもこちらにはカトリックかプロテスタントかも分からないのに布教とか言われても、信じることなど不可能です。 また今時、学校の前と限られた場所で名刺の配布をすることは効果が大変薄いです。受け取ってもらえても、運が良ければ本の栞にされるのがオチだと思います。 どうしても中学高校の子供にターゲットを絞ってくばりたいのならばもっと人の集まる都心の方や、いくつかの学校が使用する最寄駅で行う方がまだ効果が期待できます。 また、多くの大人のいる中や監視カメラや交番が近いところで配ることで警戒心を薄めることも期待できます。 こちらの方がずっと貴方の目標に近づけることは確かです。 また、このツイートでは先生の指導を気にせずにチラシを受け取るものを評価しています。しかし、先生の指導を聞きいれて(またそうでなくても)チラシを受け取らないという選択もある意味自分で選んだことで立派な自主自立と言えます。このような物事を俯瞰できない書き方は貴方の布教活動をしているようなハイレベルな学校の子供は、差別につながると理解しているはずです。これはキリスト教の誤解にもつながりかねません。私はキリスト教徒ではなくとも、キリスト教の精神には学ぶところは多いと思っていますが、キリスト教は差別を推奨する宗教ではないですよね? むしろ、善きサマリア人の例え(でしたっけ)では隣人愛について書かれていましたよね?(うる覚えですみません) そもそもキリスト教が世界宗教なのはその隣人愛ゆえではないのですか? 私には貴方のやりたいことがイマイチ理解できません。ただ、少なくとも方法の改善は必須事項だと思われます。 ご返信いただけたら幸いです。
に対して

私のチラシ配布活動に対するあなたの匿名の個人的な感想を確かに聞かせて頂きました。
先ず、あなたは私のチラシ配布活動について「効果が大変薄い」とおっしゃいますが、私は全くそうは思いません。なぜなら私が告げ知らせている福音、すなわち主の言葉について次の聖書の言葉を信じているからです。
主は言われる。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとには戻らない。 それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ書55章10-11節)
次に、あなたは私の宣教、すなわちチラシ配布活動について「方法を考え直し改善すべき」「イマイチ理解できない」とおっしゃいますが、私は全くそうは思いません。なぜなら私の宣教、すなわちチラシ配布活動は人間的な思考判断に属するものではなく、神の思考判断に属するものだからです。あなたがこれを理解できないのは、使徒聖パウロが次のように書いているからです。
「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ2章14節)
だから福音の宣教というものは、自然的理性的な人間の目には愚かに見えるのが正しいのです。主イエスの福音の宣教の結果が十字架の死なのですから。しかしこの愚かに見える福音の宣教が実は神の賢さであり、人間の賢さを超越した最も賢いことなのです。主イエスの復活があるのですから。だからパウロは次のように書いているのです。
「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ1章20-21,25節)
最後に、あなたは繰り返し、私と私のチラシ配布活動に対して「警戒すべき」「恐怖を植え付けられ怖い」「不審」「信頼できない」という言葉を連発していますが、それでは私はあなたにお尋ねします。私がこれまでに鷗友生に対して一人でも何らかの危害を加えた事実があるのですか?もし危害を加えた事実が一つもないのであれば、あなたの「警戒すべき」「恐怖を植え付けられ怖い」「不審」「信頼できない」という評価が完全に誤りであり、匡正されなければならないという事になぜあなたは気がつかないのですか?
あなたは「キリスト教の精神に学ぶところは多い」とおっしゃているので、以下の主イエスの言葉を贈ります。是非この言葉をよく学んで下さい。
イエスは教えられた。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、先ず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイによる福音書7章3-5節)
あなたはキリスト教は隣人愛であるとおっしゃっています。まさにその通りです。そしてあなたが福音を信じるか信じないかはあなたの自由です。だから私は、あなたが私のように、古い行動原理を悔い改めて神の福音を信じ、罪を赦され、正しい人とされ救われるようにお祈りします。
父と子と聖霊である神からの祝福があなたに豊かにありますように。
[2019/12/6]

今朝7時48分頃いつものように開成學園正門附近でチラシを配布していたら、私からチラシを受け取ってくれたある開成生が「毎朝お疲れ様です!」と声をかけてくれた。
また8時2分頃には、ある開成生が私に元気よく「おはようございます!」と声をかけてくれた。
とても励まされました!今朝も多くの開成生にチラシを受け取って頂き、本当に光栄です!
チラシを受け取ってくれる開成生は、必ずペコリとお辞儀をしてくれるので、また丁寧に両手で受け取ってくれる方が多いので、開成生は礼儀正しいなと感じました。
[2019/12/6]

@Artisan3605の発言
お務めご苦労様です。
に対して

とても上手に描けていますね! 感心しました。 消すのがもったいないですね。
[2019/12/6]

@Artisan3605の発言
消せない過去ですもんね。
に対して

そうですね。私にとってだけではなく、日本社会全体にとってもね。
[2019/12/7]

今朝いつものように開成學園正門附近でチラシを配布していたら、昨日よりも多くの開成生たちが私に「お疲れ様です!」とか「頑張って下さい!」と声をかけてくれた。
また今朝は、チラシを沢山もらってくれる開成生たちもいた。
応援どうもありがとうございます!
[2019/12/7]

@T_tapitaloの発言
開成生に名刺を配りたいなら道路側ではなく壁側に立つべきではないでしょうか? わざわざ道路側まで行ってとりに行くと気まずいのです
に対して

ご意見どうもありがとうございます!
いつもの場所ですが、平日は開成生以外にも西日暮里駅方面に向かう一般の歩行者が結構多くいて、更に自転車もよく来るので、壁側ではなく、車道側に立っていました。交通状況を見て臨機応変に対応したいと思います。
[2019/12/9]

今朝7時32分頃いつものように開成學園正門附近でチラシを配布していたら、ある開成生がチラシについて私に「エヴァンゲリオンではなくエウアンゲリオンではないですか?」と質問をしてくれた。
流石は開成生、よく勉強しているなと感心した。
私が「そう、君の言う通り、古典ギリシア語発音だとエウアンゲリオンになります。現代ギリシア語発音だとエヴァンゲリオンになります。」と答えると彼は納得してくれた。
ΕΥΑΓΓΕΛΙΟΝは最新の研究によると、紀元前5世紀頃はエウアンゲリオンと発音され、パウロが活躍していた紀元後1世紀頃にはほぼ現代発音と同じでエヴァンゲリオンと発音されていたということである。
[2019/12/10]

今朝いつものように開成學園正門附近でチラシを配布していたら、多くの開成生たちが私に「おはようございます!」とか「お疲れ様です!」とか「ラストスパート頑張って下さい!」と声をかけてくれた。
また今朝は、私から大量にチラシを受け取ってくれる開成生たちが多かった。
いつも励まして頂き、本当にどうもありがとうございます!
[2019/12/10]

@brack_IA168247の発言
木田コレクター発見
に対して

大量に受け取って頂き、どうもありがとうございます!
他にチラシが欲しい友達がいたら、独り占めしないで配ってあげてくださいね。
[2019/12/10]

@brack_IA168247の発言
勿論です!
に対して

よろしく!
[2019/12/10]

@K__Motomiyaの発言
知名度が桁違いに増えた、というかチラシ配布前はkss内では0だった位でしょうからそれはもう素晴らしい広告です。  とにかく、罪深き生徒達に、明日からの定期考査への神の福音あらんことを。  頑張りましょう。 #定期考査に神の福音を #罪深きkssに神の福音を
に対して

コメントどうもありがとうございます!
分かりました。開成生のためにお祈りします。

主なる神よ。 あなたが私を通して開成生に福音を告げ知らせて下さったことを感謝します。 どうか今、定期考査に臨む彼らをみ心に留め、その健康を支え、各自が持てる力を完全に発揮できますように、守り導いて下さい。主イエスキリストによってお願い致します。アーメン
[2019/12/11]

今朝いつものように開成學園正門附近でチラシを配布していたら、いつものように開成生たちが私に「おはようございます!」とか「お疲れ様です!」とか「頑張って下さい!」と声をかけてくれた。
いつも励まして頂き、本当に感謝です!
また今朝は、ある開成生が私から大量にチラシを受け取り、握手を求めてきたので、応じた。握手の際、彼は「頑張って下さい!これから試験なので頑張ります!」と元気に声をかけてくれた。
応援どうもありがとうございます!
私も試験に臨む開成生たちを応援しています!頑張って下さい!
[2019/12/11]

開成中学校・高等学校 生徒のみなさん

おはようございます。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2019/12/11]

クリスマスおめでとうございます!

全能の神よ、救い主の降誕のこの時、あなたは独りの御子に人性を取らせ、この時、清いおとめから生まれさせて下さいました。これは、その汚れのない、神性と一体である人性をもって、私達人間の全ての罪を清めて下さるためです。どうかその恵みによって、再び生まれ、神の子とされた私達を、常に聖霊によって新しくして下さい。そして同じ恵みによって万物を新しくし、全ての人があなたに感謝と賛美をささげることができますように。父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによって。アーメン
[2019/12/25]

@k05669923の発言
イエス・キリストの誕生日は正確には分かっていないのではないでしょうか?
に対して

はい、その通りです。聖書にはイエス・キリストが何年何月何日に生まれたかは書いていません。だからイエスの誕生日は誰も正確には分かりません。 それでは何故12月25日をイエスの降誕日として祝うようになったかと言うと異教への対抗からです。
降誕日が教会で祝われるようになったのは紀元後4世紀頃ですが、当時ローマではミトラス教が流行していました。ミトラス教は12月25日を不滅の太陽神の誕生日としていました。これに対抗してキリスト教ではイエス・キリストこそ「正義の太陽」(マラキ書3章20節)であるとし、12月25日をイエスの降誕日として祝うようになったそうです。
[2019/12/26]

@k05669923の発言
教えていただきありがとうございます」
に対して

いえいえ!
因みに現在は降誕日に異教への抵抗の意味は全くありません。
ミトラス教は跡形も無く消え去ってしまっていますから。
現在、降誕日は後に続く一連の、
顕現(公現)日2020/1/6⇒東方の占星術の学者達にイエスが現れた日,
聖木曜日2020/4/9⇒イエスが弟子達と共に最後の晩餐をし、聖餐式(ミサ)を制定した日,
聖金曜日2020/4/10⇒イエスが十字架につけられて死んだ日,
聖土曜日2020/4/11⇒イエスの遺体が墓に安置された日,
復活日2020/4/12⇒イエスが死者の中から復活した日,
昇天日2020/5/21⇒復活したイエスが天に上げられた日,
聖霊降臨日2020/5/31⇒イエスの約束した聖霊が弟子達に降り、教会が誕生した日
と共に、教会暦というものを構成していて、イエスの生涯と教会の成立を、私達が毎年辿ったり想起したりできる、高度に洗練されたシステムとなっています。
[2019/12/26]

顕現日(主の公現)を覚えて

全能の神よ、東方の占星術の学者達は自分達の土地でユダヤ人の王の星を見、その星に導かれてこの日、母マリアと共におられる幼子イエスのもとに辿り着き、ひれ伏して幼子を拝み、黄金・乳香・没薬を贈り物として献げました。これはイエスが救い主・王の王・主の主である事が、ユダヤ人にだけではなく全ての国民・民族・異教徒に、顕か且つ公けに現わされたことを意味します。どうか全ての国民・民族・異教徒を導き、いま信仰によってあなたを知り、後の世にはあなたの栄光を親しく仰ぎ見させて下さい。聖霊の交わりの中で、あなたと共に世々に生き、支配しておられる御子、私達の主イエス・キリストによって。アーメン
[2020/1/6]

田園調布雙葉中學校
田園調布雙葉髙等學校
田園調布雙葉小學校
生徒・児童のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2020/1/9]

@shioshio_quizの発言
この人朝校門前にいた人だw 絶対もらうなって言われた
に対して

「絶対にもらうな」と誰が君に言ったのかは分かりませんが、その人に「彼からチラシを受け取るか否かは、あくまでも私自身が自由に判断し決定することであり、あなたが判断し決定することではない。もしあなたが強制力をもって彼からのチラシ受け取りを私に禁止するのであれば、それは私にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない重大な越権行為である。」とお伝え下さい。
[2020/1/13]

@shioshio_quizの発言
うちの学校の生徒は先生達に守られてるからな~笑 まあ私は無神教だから受け取らないけど
に対して

自分が無神教だから私からチラシを受け取らない事を、誰かに言われたからではなく、君が自分自身で判断し決定したのは、とても良いことです。
しかし私は、神の存在を否定する無神教あるいは無神論と呼ばれるものは、結果的には自分自身の存在を否定することになり、人間を救うことは決して無いと考えています。
これについて私は、自分のブログ「神学の森26-45」に詳しく書きましたので、是非ご一読頂ければ幸いです。私の、神が存在することの論証であり、同時に無神論に対する反駁となっています。
[2020/1/13]

田園調布雙葉中學校
田園調布雙葉髙等學校
田園調布雙葉小學校
生徒・児童のみなさん

こんばんは。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
チラシ配布の際、君達の多くは私に「おはようございます!」「こんにちは!」「こんばんは!」「さようなら!」とちゃんと目と目を合わせて笑顔で挨拶をしてくれました。また私に「頑張って」とか「お疲れ様です」と声をかけてくれる田雙生もいました。とても励まされました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2020/1/20]

早稻田中學校
早稻田高等學校
生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2020/1/21]

今朝7時53分頃いつものように早稲田駅3b番出口附近でチラシを配布していたら、ある早稻田生が私に「ツイッターフォローしてます!」と声をかけてくれた。
とても励まされました。応援どうもありがとうございます!
[2020/1/23]

今朝いつものように早稲田駅附近でチラシを配布していたら、ある桜蔭生が私からチラシを受け取ってくれたので、とても嬉しかったです。
[2020/1/24]

今朝いつものように早稲田駅附近でチラシを配布していたら、多くの早稻田生たちが私に「おはようございます!ツイッターをフォローしています!」とか「ツイッターを見てます!」とか「頑張って下さい!」と声をかけてくれたり、また「友達に配るので沢山下さい。」とか「友達に宣教するので10枚位下さい。ツイッター見てます!」と言って、私からチラシを沢山もらってくれる早稻田生たちもいたので、とても嬉しかったです。応援どうもありがとうございます!
[2020/1/24]

今朝7時45分頃いつものように早稲田駅附近でチラシを配布していたら、ある早稻田生が「お疲れ様です!良かったらこれを飲んで下さい。」と私に、温かいお茶を差し入れてくれた。身も心も温まりました。お心遣いをどうもありがとうございます!
また今朝は、DMでチラシの大量受け取りを私に事前連絡をしてくれた早稻田生がいたり、友達やクラスの皆に配るためと私から沢山チラシを受け取ってくれる早稻田生たちが多くいたので、とても嬉しかったです。応援どうもありがとうございます!
[2020/1/25]

@ShunsukeI4の発言
よかったですね!いい人多くて
に対して

どうもありがとうございます!
はい、きっと神様の導きだと思います。
[2020/1/25]

@kt65moriwakiの発言
毒入りのおーいお茶
に対して

全部飲みましたが、大丈夫でしたよ。
[2020/1/25]

@hah3VrmqIgNHz0Aの発言
おういんではなく学習院女子ですねぇ!
に対して

いいえ、学習院女子生ではなく確かに桜蔭生ですね。学習院女子生にもぜひ受け取って欲しいのですが、まだ一枚も受け取ってくれません。少しはこの桜蔭生を見習って欲しいですね。彼女たちには大人社会のくだらない“イジメ”に加担や参加をしないで欲しいし、例えば「前科があるから」「犯罪者だから」などと言って、平気で人を差別するようなケチくさくて卑しい根性を持った大人になって欲しくはありませんね。
[2020/1/27]

今朝いつものように早稲田駅附近でチラシを配布していたら、早稻田生たちが私に「お疲れ様です!」とか「応援してます!」とか「頑張って下さい!」と声をかけてくれた。
また今朝もDMでチラシの大量受け取りを私に事前連絡をしてくれた早稻田生たちや、友達に配りたいのでと私から沢山チラシを受け取ってくれる早稻田生がいた。
とても励まされました。応援どうもありがとうございます!
[2020/1/27]

今朝いつものように早稲田駅附近でチラシを配布していたら、多くの早稻田生たちが私からチラシを受け取ってくれた。ある早稻田生は私に握手を求めてきたので応じた。
また今朝7時25分頃、DMで事前にチラシの大量受け取りを連絡してくれた、ある早稻田生は私に温かいほうじ茶を差し入れてくれた。
とても励まされました。応援どうもありがとうございます!
[2020/1/28]

@TOMO41477023の発言
どうやってカバンに入れたんですか?
に対して

フォローとリプライをどうもありがとうございます!
今朝のチラシは、ある早稻田生が私へ事前にDMを送って枚数を知らせてくれたので、カバンに入れることができました。
[2020/1/28]

@TOMO41477023の発言
それもイエスのお告げですか?
に対して

福音宣教のためのチラシ配布自体はイエス様のお告げですが、今朝の枚数についてはDMで知らせてくれた早稻田生です。
[2020/1/28]

@hah3VrmqIgNHz0Aの発言
おういんではなく学習院女子ですねぇ!
に対して

今朝ようやく、ある学習院女子生が私からチラシを受け取ってくれました。早稲田駅附近では初めてです。
[2020/1/29]

今朝いつものように早稲田駅附近でチラシを配布していたら、ある学習院女子生が私からチラシを受け取ってくれ、その後「キャーッ!」という声が聞こえてきた。とても嬉しかったです。応援どうもありがとうございます!
[2020/1/29]

学習院女子中等科
学習院女子高等科
生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
福音宣教者・木田啓介から挨拶を記します。
お久し振りです。お元気ですか?
君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2020/1/29]

昨日、DMで事前にチラシの大量受け取り連絡をしてくれた早稻田生に、私は希望通り300枚のチラシを渡したのだが、その後のDMで、彼は同じ学年の各クラスに45枚ずつ配ってくれたとのこと。
とても嬉しかったです。福音宣教へのご協力に感謝します!
[2020/1/29]

今日16時10分頃いつものように早稲田駅附近でチラシを配布していたら、2人の学習院女子生が私からチラシを受け取って、私に「頑張って下さい!」と声をかけてくれた。
とても励まされました。応援どうもありがとうございます!
[2020/1/30]

今朝7時21分頃いつものように早稲田駅附近でチラシを配布していたら、ある学習院女子生がちゃんと私と目を合わせて「頑張って下さい!」と言い、私からチラシを受け取ってくれた。また7時47分頃には2人の学習院女子生がちゃんと私と目を合わせて「おはようございます!」と言い、私からチラシを受け取ってくれた。
とても励まされました。応援どうもありがとうございます!
今朝は多くの学習院女子生にチラシを受け取って頂いたので、とても嬉しかったです。
[2020/1/31]

早稻田中學校
早稻田高等學校
学習院女子中等科
学習院女子高等科
生徒のみなさん

こんばんは。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2020/1/31]

@5sUvlL5bIGEXa5xの発言
あなたは神です
に対して

フォローとリプライをどうもありがとうございます!
いいえ、私は人間です。
[2020/1/31]

筑波大学附属中学校
筑波大学附属高等学校
生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2020/2/1]

今朝いつものように筑波大学附属中学校・高等学校正門附近ででチラシを配布していたら、ある筑附生か私からチラシを30枚受け取り、私に「ファンです!」と声をかけてくれた。とても嬉しかったです。応援どうもありがとうございます!
[2020/2/6]

今朝8時15分頃いつものように筑波大学附属中学校・高等学校正門附近でチラシを配布していたら、筑波大学附属中学校のヤマグチ先生が私に近づいて来て、「ここで生徒達にチラシを配るのはやめて欲しい。受け取ったチラシを校内で生徒達が互いに押し付け合って大変な騒ぎになっている。もらったチラシをどうしたらよいか分からない生徒もいる。このチラシのような大切なものを、私は『捨てろ』と言うわけにもいかずに困っている。『捨てろ』と言うのは心が痛む。こういう大切なこと(恐らく宗教)は、まだ中学生だから親御さんとの話し合いや関わりの中で語られるべきだ。」と言った。
これに対して私は「もし私のチラシ配布活動が学校の敷地内で行われているのであれば、私はあなたの言う事に従わなければならない。しかし私のこのチラシ配布活動は学校の敷地外で行われており、事前に大塚警察署の許可を受け正当かつ合法的に行われている。従って、私はあなたの学校教員としての立場・見解は理解できるが、同時に私はあなたとは異なる立場・見解を持っているので、思想・良心の自由、信教の自由、表現の自由から、この福音宣教のためのチラシ配布を続けさせて頂く。」と応じた。
そして私は彼に、大体下記の内容を話した。事後に補足・追加した部分があるので話した内容そのままではない事を断っておく。
あなたが私のチラシを「大切なもの」と言った事、あなたが生徒達に私のチラシを「『捨てろ」と言うのは心が痛む。」と言った事については、そのような気持ちを持って頂き、本当に有り難く思う。しかし私は受け取った人がチラシを捨てても一向に構わない。というのは私のチラシの所有権は、受け取られた時点で受け取った人に移っているから。だから所有権のある、受け取った人がチラシをどのように扱おうとその人の全く自由である。所有権者がチラシを捨てても大いに結構である。もし所有権者が捨てたいと望んでいるのであれば、捨てるように指導して頂いても全然大丈夫である。
以前ある学校でチラシを配布した時、ある生徒は私からチラシを受け取り、読んだ後、無言でそれを私の目の前で真っ二つに引き裂いて私の持っていた袋に押し込み、去って行ったことがあった。それでも私は構わない。
逆に所有権者が、受け取ったチラシを自分の宝物として大切に取っておくというのでも勿論、私は構わない。過去にDMで私にそのように報告してくれた生徒もいた。いずれにせよ中学生は好奇心旺盛で多感な年代なのだから色々な反応があっても全然驚くに値しないし、むしろ当然である。
あなたが「こういう大切なこと(恐らく宗教)は、まだ中学生だから親御さんとの話し合いや関わりの中で語られるべきだ。」と言った事については、私はそうは思わない。宗教について親御さんとの間で真剣に語られることはまず無いと思う。宗教についてはせいぜい「自分が高齢になって自分の墓地の確保や葬儀の手配をしなければならなくなった時に考えればよいことであって、中学生の時に真剣に考えるべきことではない。宗教のような怖くて訳の分からない怪しいことを考えて時間を無駄に過ごしている暇があったら、現実的により高い地位や名誉や財産を獲得するために学業に専心すべきだ。」と受け止められているのが、現代における日本社会の一般的思想・風潮であるように思うからだ。
しかし私はこの一般的思想・風潮を真っ向から否定する。なぜなら人間はいくら高い地位や名誉や財産を獲得したとしても、実存にしっかり向き合わず、実存からいつも目を背けて逃げていては、ごまかすことはできたとしても、真に幸福になることは絶対にできないからだ。地位や名誉や財産というものは、確かに日常生活を送るのに必要な手段ではあったとしても、それらは所詮、どうすればこの世を上手く渡っていくことができるのかという処世術であるに過ぎず、人間の実存とは全く関係が無いからだ。
しかし福音は、人間の実存に触れる真理であり、人間の実存を照らす光である。
だから私は福音を告げ知らせているのであり、処世術によるごまかしではなく、真の幸福を得るために、好奇心旺盛で多感な中学生だからこそ、福音に触れるべきだと考えているのである。
聖書にも「あなたの青春の日々にこそ、あなたの創造主に心を留めよ。/苦しみの日々が来ないうちに。/『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。」(コヘレトの言葉12章1節)と書かれており、福音は、先述した現代日本社会の一般的思想・風潮を明確に否定している。
だから私は福音宣教のためのチラシ配布活動を遊び半分やふざけた気持ちで行っているのではない。私が福音宣教活動に命を懸けていることは、これまでに何度も警察に通報されているにも拘らずこのチラシ配布活動を続けていることが証明している。
[2020/2/6]

音羽中学校 生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2020/2/7]

@K43648451の発言
今日大丈夫でしたか?
に対して

ご心配をどうもありがとうございます!
大丈夫です。ヤマグチ先生と話していました。内容は先程ツイートしました。
[2020/2/7]

@TOMO41477023の発言
早稲田逃げたんですね
に対して

早稲田でのチラシ配布はツイートにある通り1月31日をもって終了しました。
機会があればまた早稲田に行きたいと思います。
https://t.co/CRauvkHABl
[2020/2/7]

@T_tapitaloの発言
転売してもいいですか
に対して

売れないと思いますよ。
[2020/2/7]

宗教アンチ(@SOKXR46LEZjVHQI)の発言
そもそも何故チラシ配布をしているのですか? あまりほかのツイートを見てないからなんか聞くのも申し訳ないですがここで教えてください あまり詳しく知らないことをネットで言うのは気が引けますが NHKの番組で、『 ネアンデルタール人の方が頭脳が大きく、体も強いのに何故我々ホモ・サピエンスが生き残ったのか』という話題のものを見て、それが宗教による繋がりで、一種族の発明や発見を共有出来たからだというのを知りました。つまり、宗教の考えとは合わないと思いますが、ネットによる繋がりがある今では、宗教の必要性が少なくなっているのではないでしょうか。 それなのに、何故そんなに熱心にチラシを配布しているのか疑問に思ったのでそこをハッキリさせて貰えると嬉しいです()
に対して

主イエス・キリストの命令だからです。
聖書に次のように書いてあるからです。
「イエスは言われた。『私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼等に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。』」(マタイによる福音書28章19-20節)
私は私の主イエス・キリストを心を尽くし思いを尽くし力を尽くして愛しているからです。
[2020/2/7]

@SOKXR46LEZjVHQIの発言
やっぱり宗教の考えは分からないそのキリストの命令で動くなんてただのキリストの奴隷じゃないか
に対して

はい、その通りです。私は「ただのキリストの奴隷」です。
しかし人間というものは、自分がいくら自由だと思っていても、必ず結局何かの奴隷であり、完全に自由だということは無いのです。しかし主イエスは「私の言葉に留まるならば、あなた達は本当に私の弟子である。あなた達は真理を知り、真理はあなた達を自由にする。」(ヨハネによる福音書8章31-32節)と言っています。 だからイエスを信じる者には、逆説に聞こえますが、イエスに隷属することが実は完全に自由になることなのです。
[2020/2/7]

@unicornbanshee6の発言
ふと思ったんですけど、 信教の自由と表現の自由は分かるんですけど 思想・良心の自由って 自分の中だけで考えるならたとえどれだけ危険なことであろうと外界に出なければその人の自由ですよ、ってものであって 思想・良心の自由に関してこの場合での使い方は間違えてるのではないかな、と思いました。
に対して

コメントどうもありがとうございます。
信教の自由と表現の自由に必要な前提という意味で使いました。
[2020/2/7]

今朝いつものように筑波大学附属中学校・高等学校正門附近でチラシを配布していたら、多くの筑附生たちが私に「お疲れ様です!」とか「頑張って下さい!」とか「ツイッター見てます!」とか「ツイッター、フォローしてます!」と声をかけてくれた。チラシを沢山もらってくれる筑附生たちもいた。
また今朝は、多くの筑附生たちが私に握手を求めてきたので、応じた。
とても嬉しかったです。応援どうもありがとうございます!
[2020/2/7]

今朝8時30分頃いつものように筑波大学附属中学校・高等学校正門附近でチラシを配布していたら、筑波大学附属中高のコバヤシ先生が私に近づいて来て、「学校の前でチラシを配るのは、できればやめて欲しい。」と言ってきた。私が事前に取得した道路使用許可証を彼女に見せると、彼女は「へえ、こんなものがあるんですねえ。」と言ってその場を立ち去った。
[2020/2/8]

今朝いつものように筑波大学附属中学校・高等学校正門附近でチラシを配布していたら、多くの筑附生たちが私に「応援してます!」「頑張って下さい!」「ツイッター見てます!」「ツイッター、フォローしてます!」「DM送った者です!」などと声をかけてくれた。
また今朝は、握手を求めてきた筑附生がいたり、私に開けたカバン見せて「ここにたくさんチラシを入れて下さい!」と言う筑附生もいたので、応じた。
いつも応援どうもありがとうございます!
[2020/2/8]

@yuki__arisuの発言
ファンアート
に対して

ファンアートをどうもありがとうございます!
とても上手に描けていて、嬉しく思います。
[2020/2/8]

@yuki__arisuの発言
ファンアート
に対して

どうもありがとうございます!
とても上手に描けていて、嬉しく思いますが、残念ながら私は共産主義者ではありません。
共産主義は、神の力を必要とせず、人間の力だけで理想社会を実現する事が可能だと考えますが、私は神の力がなければ理想社会は絶対に実現しないと考えています。
[2020/2/8]

@pjt_61の発言
予想的中です。結局彼は一枚も売れてません。なぜなら、私のようにちゃんと保管してる人や、来年度も来てくれると思ってる人がいるからです。ちなみに私はずっと財布の中に入れてます。
に対して

本当に転売しようとしたんですね……
はっきり言って、福音宣教というものは商売やお金儲けではありません。
[2020/2/8]

@pjt_61の発言
まぁ彼もクラスメートに冗談(?)でやってましたけどね。私は宣教で金を要求するのは詐欺だと思ってます。自分の意志でお金を捧げることに意味があると。
に対して

その通りです!よく分かっていらっしゃいますね!凄いです!感心しました!ひょっとしてクリスチャンですか?
[2020/2/8]

@pjt_61の発言
お褒めいただき光栄です。しかし、私は無宗教です。
に対して

そうですか…しかし無宗教の方でも福音に関心を持って頂いて光栄です。
神様の良い導きがありますように心よりお祈り致します。
[2020/2/8]

@pjt_61の発言
なぜ私が無宗教かというと、まだ学生は宗教を学びきれてないと思うからです。学生の間、宗教について学び、多くのことを知って大人になった時、また宗教を考えるべきだと思うからです。
に対して

なるほど、確かに学ぶことは私も大事だと思います。私もイエス様の教えを未だに学びきれていないからです。しかし私はそれ以上に信じることが大事だと思っています。なぜならイエス様は「福音を学びなさい」とは言わず、「福音を信じなさい」と言っているからです。
[2020/2/8]

@T_tapitaloの発言
自分も冗談のつもりでした でも木田さんにそのように言われて考えを改めます 大変申し訳ありませんでした
に対して

リプライをどうもありがとうございます!
いいえ、大丈夫ですよ。
主なる神は必ずあなたを赦して下さいます。
[2020/2/9]

今朝8時6分頃、いつものように筑波大学附属中学校・高等学校正門附近でチラシを配布していたら、トチボラさんを含めた2名の大塚警察署の警察官がパトカーで近づいて来て、声をかけられた。私のチラシ配布について通行の邪魔だという110番通報があったとのこと。私が「通報者は誰ですか?」とトチボラさんに尋ねると、彼は「匿名です。」と言った。私は事前に取得した道路使用許可証を彼に示し、「通報者に私のチラシ配布は正当かつ合法的に行われているので無責任な通報はしないで頂きたいと伝えて下さい。」と言ったが、彼は「通報者は匿名で分からない。」と答えた。彼らは許可証を確認しただけで帰って行った。私のチラシ配布は特に妨害されることはなかった。私はチラシ配布をそのまま続行した。
通報者が私のツイートを見ているかどうかは知りませんが、その人に言っておきます。
「あなたは私のチラシ配布活動が、歩行者の通行を邪魔せず、平和的に安全に行われている様子を目の当たりにしているにも拘わらず、私を警察に110番通報しました。私のチラシ配布を単に妨害したいという、あなたの幼稚な悪意を充足させるために、匿名で無責任な通報をするのはやめて頂きたい。主は私と共におられます。私は福音のために命を捨てる覚悟が既にあり、このチラシ配布活動を決して遊び半分やふざけた気持ちで行っているのではありません。それなので筑附生と音羽中生に福音を伝えるため、私は今後もチラシ配布活動を続行します。」と。

いずれにせよ私は、神の福音に反対する勢力や救いの道を妨害しようとする勢力に対しては一歩も譲歩しないし、決して屈服しない。ここに改めて宣言しておく。

https://t.co/YhrE2k2r75
[2020/2/10]

今朝いつものように筑波大学附属中学校・高等学校正門附近でチラシを配布していたら、筑附生たちが私に「ツイッター見てます!」とか「頑張って下さい!」と声をかけてくれた。
いつも応援どうもありがとうございます!
[2020/2/10]

お茶の水女子大学附属小学校 児童のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2020/2/12]

今朝いつものように筑波大学附属中学校・高等学校正門附近でチラシを配布していたら、筑附生たちが私に「おはようございます!」とか「頑張って下さい!」と声をかけてくれた。
いつも応援どうもありがとうございます!
[2020/2/12]

今朝7時半頃いつものように筑波大学附属中学校・高等学校正門附近でチラシを配布していたら、筑波大学附属中高の係りの人が近づいて来て、「今日は高校の入学試験でこの道は大勢の人が通るのでこちらで配って下さい。」と学校の敷地内の場所へと案内された。
その場所で私はY-SAPIXの人と平岡塾の人の間に立って一緒にチラシを配布していたら、ある筑附の女子生徒たちが通りがかりに友達同士で、「あーあ、一度木田啓介と会ってみたかったんだけど……あっ、いた。」「本人の前で!」という会話をしているのが聞こえた。またある音羽中生が通りがかりに友達に向かって「あっ、紛れて木田啓介がいるーっ!」と言っているのが聞こえた。
[2020/2/13]

筑波大学附属中学校
筑波大学附属高等学校
音羽中学校
お茶の水女子大学附属小学校

生徒・児童のみなさん

おはようございます。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2020/2/15]

青山学院中等部 生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2020/2/17]

@hAx5EKP3xlxJiMBの発言
遂に筑附側にも認められたんですね!
に対して

うーん、認められたと言うよりは、筑附の中には認める人もいれば認めない人もいるということだと思います。イエス様の時もそうです。彼を信じる人と信じない人とに分かれたのです。福音とはそういう働きがあります。人間が光と闇とに分かれ、裁かれる。つまり神の裁判が進行しているということです。
[2020/2/18]

@hAx5EKP3xlxJiMBの発言
僕は木田さんのおかげでイエス様を信じるようになりました。
に対して

それは君にとって善いことです!
イエス様が
「わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイによる福音書11章6節)
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネによる福音書20章27節)
「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20章29節)
と教えているからです。
[2020/2/18]

青山学院初等部 児童のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2020/2/19]

本日いつものように青山学院中等部正門附近ででチラシを配布していたら、15時15分頃から17時15分頃までの間に少なくとも5人の青学中等部生が私からチラシを受け取った後、それをビリビリに細かく引き裂き、自校の外壁に沿って歩道上に約80mにわたって撒き散らしながら帰って行った。また少なくとも2人の青学中等部生たちが私からチラシを受け取った後、自校の外壁に沿って歩きながら、それを歩道上にポイ捨てして帰って行った。
歩道上のチラシの残骸は、私がチラシ配布の後、全て拾い集めて処分した。
私は今まで多くの学校でチラシを配布してきたが、このような生徒たちに出会うのは初めてだ。彼等は歩道をゴミ箱だとでも思っているのだろうか?それとも歩道はゴミ箱であるという教育でも受けているのだろうか?
確かに、以前ある学校でチラシを配布した時、ある生徒は受け取ったチラシを私の目の前で真っ二つに引き裂いた。しかし彼はそのチラシを歩道にポイ捨てすることはしなかった。つまり彼は歩道はゴミ箱ではないという意識を持ち合わせていたということである。

繰り返して言うが、チラシは受け取った時点で所有権があるので、所有権者がそれをビリビリに引き裂こうが、捨てようが構わない。しかしゴミは歩道上には捨てず、家に持ち帰るかゴミ箱に捨てるべきである。
[2020/2/19]

本日15時17分頃いつものように青山学院中等部正門附近でチラシを配布していたら、多くの青学中等部生たちが私に「頑張って下さい!」と声をかけてくれた。そして「国学院久我山の友達が会ったと言ってました。頑張って下さい!」と報告してくれる青学中等部生もいた。また多くの青学中等部生たちが私から大量にチラシを受け取ってくれ、それだけではなく私のチラシ配布を手伝ってくれる青学中等部生もいた。とても嬉しかったです。
励まされました。どうもありがとうございます!
[2020/2/19]

@dRQPJjmiqmhsBckの発言
義のために迫害される人は幸せである
に対して

マタイによる福音書の言葉、どうもありがとうございます!
[2020/2/19]

@LH9PpBZchJ5oHO1の発言
酷いですね。 安心してください。木田さんが二学期にいらっしゃった学校ですか、未だに私を含め、みんなチラシを持っていて、授業などで木田さんの話をすることもあります!!
に対して

いまだにチラシを持っていてくれて、授業での話題にしてくれて、どうもありがとうございます!
[2020/2/20]

@Avf3RzQXv3y3MrTの発言
あなたの行動に怯えている子供たちがいます。 それは、聖書に反するのでは? 神も望んでいないと思われます。 まるでヘロデ王のようです。
に対して

全くそうは思いませんね。
https://twitter.com/Avf3RzQXv3y3MrT/status/1230431825756966912
何故ならイエス・キリストは次のように言っているからです。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章18-20節)
あなたは私を「まるでヘロデ王のようです。」とおっしゃいましたが、私のどこがヘロデ王のようなのでしょうか?聖書的根拠に基づいて説明して下さい。因みにヘロデ王は自分の政治的権力を脅かす危険分子のイエス・キリストを抹殺することによって自分の政治的基盤の安定を図るため「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(マタイによる福音書2章16節)人物ですよ。ヘロデ王は幼子イエス・キリストの抹殺を計画した上、男の子たちを虐殺した事により彼等の自由意志と自己決定権を全く認めていませんが…
[2020/2/21]

今朝8時2分頃いつものように青山学院中等部正門附近でチラシを配布していたら、「チラシを沢山下さい。」と言って、私からチラシを10枚位もらってくれる青学中等部生たちがいた。とても嬉しかったです。
[2020/2/21]

今朝8時11分頃いつものように青山学院中等部正門附近でチラシを配布していたら、警備員の目を窺い、その視線が離れた隙を狙って素早く私からチラシを受け取ってくれる青学中等部生たちがいた。
ということは青学中等部内で「私からチラシを受け取るな」という指導でもなされているのだろうか?
いずれにせよ、繰り返しになるが、私からチラシを受け取るか否かは生徒たち自身が自由に判断して決定することである。その自由を阻むものはいかなるものであれ、彼等の自由意志と自己決定権を侵害する越権行為である。
[2020/2/21]

@HMoriharuの発言
前科のある人とは関わらない方がいいと指導を受けました。
に対して

なるほど。その指導した人は青山学院の先生ですか?
青山学院の先生ならば「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」というイエス・キリストの言葉をよく勉強するようにお伝え下さい。
[2020/2/21]

今朝8時15分頃いつものように青山学院中等部正門附近でチラシを配布していたら、学校のチャイムの音が聞こえてきた。聞き覚えのあるメロディーだなと思ったら、それがドイツ語の歌「ローレライLoreley」であることに気づいた。私が中学生の時、音楽のテストでドイツ語で歌わされた曲である。
Ich weiß nicht, was soll es bedeuten, daß ich so traurig bin; Ein Mährchen aus alten Zeiten, das kommt mir nicht aus dem Sinn…
今でもそらで歌えるので懐かしい。
[2020/2/21]

今朝8時22分頃いつものように青山学院中等部正門附近でチラシを配布していたら、「木田くーん!」という声が上から聞こえた。見上げると校舎5階の窓から数人の青学中等部男子生徒が手を振っていたので、私も手を振り返した。
私に手を振って頂き、どうもありがとうございます!とても嬉しかったです。
[2020/2/21]

灰の水曜日を覚えて

永遠にいます全能の神よ、あなたは造られたものを一つも憎まず、悔い改める全ての罪人を赦して下さいます。どうか塵と灰に過ぎない私達の内に悔い改めの心を新たに起こして下さい。私達が罪を悲しみ、その災いを悟り、完全な赦しと平和にあずかることができますように、そしてあなたの恵みによって、自分の十字架を負う力を強められ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられますように、四十日四十夜断食した後、飢え、悪魔に試みられてこれに打ち勝たれた主イエス・キリストによって。アーメン

灰の水曜日の聖餐式で用いられる灰。
信者は司祭から、水で練られたこの灰で額に十字架のしるしをつけてもらう。
灰の水曜日のミサで用いられる灰。
信者は司祭からこの灰を頭頂にふりかけてもらう。
[2020/2/26]

@kei_umanohoneの発言
興味が出たので質問させていただきます。 その灰はどのような物を燃やした物なのでしょうか?
に対して

興味を持って頂き、リプライを下さり、どうもありがとうございます!
灰の水曜日の礼拝で使われる灰は、前年の復活日(=イースター2019/4/21)一週間前の日曜日、復活前主日(=枝の主日2019/4/14)に信者に配られた、ヤシ科のシュロの葉で作られた十字架を集めて燃やしたものです。 https://t.co/wxgP2wlqNd
枝の主日は、イエス・キリストが、これから自分がそこで十字架刑に処されることになるエルサレムに入城した時、大勢の群衆がヤシ科のナツメヤシの枝を持って彼を祝福して出迎えた事を記念する日です。
[2020/2/26]

@c8C6hEr6XtQBwWYの発言
僕にもかけてください
に対して

では教会に行きましょう!
[2020/2/26]

@c8C6hEr6XtQBwWYの発言
僕にも灰をかけてください
に対して

教会に行けばかけてくれますよ。
[2020/2/26]

昨日8時2分頃いつものように青山学院中等部近辺でチラシを配布していたら、青学中等部の2人の男子生徒たちと3人の女子生徒たちが私からチラシを受け取ってくれ、それぞれたて続けに「頑張って下さい!」「頑張って下さい!」「頑張って下さい!」「頑張って下さい!」「頑張って下さい!」と声をかけてくれた。
とても励まされ、嬉しかったです。どうもありがとうございます!
[2020/2/26]

今朝7時57分頃いつものように青山学院中等部近辺でチラシを配布していたら、チラシを受け取ってくれた、ある青学中等部の男子生徒が「頑張って下さい!」と声をかけてくれた。
応援どうもありがとうございます!
[2020/2/26]

今朝7時59分頃いつものように青山学院中等部近辺でチラシを配布していたら、チラシを受け取ってくれた、ある青学中等部の女子生徒が「応援してます!頑張って下さい!」と声をかけてくれた。
励まして頂きどうもありがとうございます!
[2020/2/26]

今朝8時10分頃いつものように青山学院中等部近辺でチラシを配布していたら、チラシを受け取ってくれた、ある青学中等部の男子生徒は私を見つけると遠くから私に手を振ってくれた。私も手を振り返した。彼は7日前に私のチラシ配布を手伝ってくれた生徒である。彼は16時22分頃にも遠くから私に手を振り、「木田さーん!さようならー!」と声をかけてくれた。
私に手を振って頂き、いつも応援して頂き、どうもありがとうございます!
[2020/2/26]

本日15時18分頃いつものように青山学院中等部近辺でチラシを配布していたら、2人の青学中等部の男子生徒たちが私からチラシを受け取ってくれ、「応援してます!」「頑張って下さい!」と声をかけてくれた。
また16時47分頃、ある青学中等部の男子生徒が私からチラシを受け取ってくれ、「ツイッターフォローしました!頑張って下さい!」と声をかけてくれた。
とても励まされました。応援どうもありがとうございます!
[2020/2/26]

@c8C6hEr6XtQBwWYの発言
僕も見かけました
に対して

どうもありがとうございます!
[2020/2/27]

今朝7時50分頃いつものように青山学院中等部近辺でチラシを配布していたら、事前にDMでチラシ大量受け取りの連絡をしてくれた青学中等部生が来てくれたので、応じた。
今朝は多くの青学中等部生たちが私に「お疲れ様です!」とか「頑張って下さい!」とか「感染症に気をつけて下さい!」と声をかけてくれ、また私から大量にチラシを受け取ってくれる青学中等部生たちが多かった。
いつも励まして頂き、本当にどうもありがとうございます!
[2020/2/28]

青山学院中等部
青山学院初等部
生徒・児童のみなさん

おはようございます。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2020/2/29]

@Winning0_Elevenの発言
歩道に捨てちゃいけないのは多分わかってる だけどそうせざるおえないくらいのチラシだったのでは?
に対して

「そうせざるおえない」ではなく「そうせざるをえない」です。
「そうせざるを(=そうしないことを)得ない(=できない)」という意味です。
「そうせざるを得ない」については、そんなことはありませんね。もし「そうせざるを得ない」のであれば、チラシを受け取った青学中等部生が全員歩道上にポイ捨てするはずです。しかし実際にはポイ捨てをしたのはごく一部の青学中等部生のみで、チラシを受け取った他の大部分の青学中等部生は歩道上にチラシをポイ捨てしませんでしたから。つまり「そうせざるを得た」、そうしないことをできた訳です。
「歩道に捨てちゃいけないのは多分わかってる」については、添付画像のリプライをする青学中等部生がいたので本当に分かっているかどうか不安でしたが、現在はどうやらこのリプライを削除していることと、このポイ捨てがあって以降、歩道上へのチラシポイ捨てが一切なくなったことから、多分わかってくれたと思います。
[2020/3/2]

@wow04903334の発言
あのさぁ・・・貴方のせいでこ↑こ↓の門封鎖されたんだよなぁ 今日はもうすっげぇキツかったゾー こっちの事情も考えてよ おじさん名刺配るのやめちくりー
に対して

青山学院中等部でのチラシ配布はツイートにある通り2月29日に終了しました。
中等部門が封鎖されたのは本当に私のせいですか?
中等部門が封鎖されて通行できなかったのは2月21日の午後のみで、それ以外は開かれており通行できたはずです。私も自分の目で確認しています。
私はある青学中等部生からDMで
「先生達が最近貴方のことを警戒していてチラシを貰いたいのに貰いに行けない。」とか
「チラシを貰うのは人の自由だと先生に反抗すると親を呼び出しされたりする。」とか
「自分の担任は、親達が心配していると、とても怒鳴ってきた。」とか
「担任の先生どころか終礼の放送でも度々貴方についての注意がされた。」
と聞いています。
私はこれらの情報から、中等部門が2月21日の午後に封鎖されたのは、先生が生徒達に怒鳴らざるを得ない程、一部の親が先生達に強い圧力をかけたからだと分析しています。
そして中等部門が、私のチラシ配布の全期間に亘って封鎖されたのではなく、2月21日の午後にのみ封鎖されたという事は、私のチラシ配布よりも、一部の青学中等部生による自校周辺歩道上へのチラシポイ捨てを懸念したからだろうと見ています。なぜなら青学中等部でのチラシ配布に関する一連の私のツイートの中で、2月19日のチラシポイ捨てツイートのインプレッションが1万6千件以上とダントツに高いからです。

また以下のツイートの反応から見ても分かるように、私のチラシ配布活動のツイートは校風の比較という点でも外部から注目されているからです。

https://twitter.com/MochiUsa0202/status/1230146129188122624
https://twitter.com/horn_yusuke/status/1231068362190381056
https://twitter.com/icloudwau/status/1221086404689592320
実際、チラシポイ捨てに関する私の2月19日のツイート以降、一部の青学中等部生による歩道上へのチラシのポイ捨ては全くありませんでしたし、中等部門も開かれていました。私も自分の目で確認しています。
[2020/3/2]

@rinokokuの発言
福音って言うのは子供を怯えさせることを推奨しているって言うことですね
に対して

私はあなたに「主を恐れることは知恵の初め。」(箴言1章7節)(詩編111編10節)という聖書の言葉の意味をよく勉強することをお勧めします。
あなたは、福音というものはいつも人間に、いわゆる「めでたしめでたし」や「ハッピーエンド」のような喜びや楽しみを与えてくれる能天気なオプティミスムスだとでも思っているのですか?
確かに福音は人間に神の救いの喜びや楽しみを与えてくれます。しかし神の救いの出来事というものは喜びや楽しみだけではないのです。
例えば神の救いの出来事である、ノアの洪水の箇所(創世記6-8章)では、神に従うノアは救われましたが、神の声が聞こえないで日常生活に没頭している、ノア以外の全ての人々は滅ぼされました。
また同じように神の救いの出来事である、葦の海の奇跡の箇所(出エジプト記14章)では、主なる神の導きを信じるモーセとイスラエルの人々は救われましたが、主なる神を決して認めようとはしないファラオとその軍勢、つまりイスラエル人を労働力として支配し隷属させるために追って来た者達は全て滅ぼされました。
つまり神の救いの出来事というものは、神の怒りによる滅びの出来事と決して切り離すことができず、両者は同じ出来事であるということです。
よく「神は無限の愛を持つ方、慈悲深く憐れみ深い方なのだから、最終的に人間は滅ぼされることはなく、必ず全員救われるはずだ。」と考える人がいますが、それは全くの嘘です。聖書がそのように教えていないからです。もし私が福音を伝える時、人間に気に入られるために、人々にそのように教えるのであれば、私は偽預言者として主なる神から厳しく罰せられるでしょう。聖書が教えていない事を人々に教えるのであれば私は福音宣教者として失格です。神が人間を救う時は必ず、神の怒りを受けて滅ぼされる人間がいるのです。
実際、使徒聖パウロが総督フェリクスに福音を伝えた時、フェリクスが福音に怯えたと、次のように聖書に書かれています。
「数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、『今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする』と言った。」(使徒言行録24章24-25節)
だから福音というものは、子供どころか大人でさえ怯えさせ、震え上がらせるほど強烈な、神からのメッセージなのです。
聖書に次のように書かれています。
「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネによる福音書3章36節)
従って福音は子供であろうと大人であろうと、信じる人には喜びと楽しみを、そうでない人には苦しみと恐怖を与えるものなのです。
しかし実際、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(テモテへの手紙Ⅰ2章4節)
だから私はこのように福音宣教活動を行っているのです。
[2020/3/2]

@rinokokuの発言
学校側もあなたを詳しく知っているわけでは無いので、不審者等のトラブルに巻き込まれないようにしている。本当に事件が起きてからでもあなたは同じことを言えるのか?
に対して

私は「言える」?いや、「言える」どころか、むしろ私は「断言」しますね。
結局、事件は何も起きませんでしたよ。
つまり今はあなたがご自分の発言した内容について責任を問われているということです。
私は今までと同じようにこれからも平和的に安全にチラシを配布するだけです。
それなので、私は、今までも、今も、これからも、「私からチラシを受け取るか否かは生徒たち自身が自由に判断して決定することである。その自由を阻むものはいかなるものであれ、彼等の自由意志と自己決定権を侵害する越権行為である。」と断言し続けます。
[2020/3/2]

@rinokokuの発言
残念ながら恐れると怯えるは違うんだよなぁ… 聖書とかいう自分勝手で妄想を羅列しているものをあてにするのではなく、一般的な日本人こ常識に沿って論理的に答えてください。
に対して

国語辞典には「怯える」とは「恐れてびくびくする。」と書いてあります(『現代国語例解辞典』小学館)。
なるほど。つまりあなたが言っているのは、「怯えているという認識でございました。恐れているという認識ではなかったのであります。」ということですね。
[2020/3/3]

@rinokokuの発言
残念ながら恐れると怯えるは違うんだよなぁ… 聖書とかいう自分勝手で妄想を羅列しているものをあてにするのではなく、一般的な日本人こ常識に沿って論理的に答えてください。
に対して

「一般的な日本人の常識」という言葉があまりにも抽象的で私には分かりません。
あなたの言う「一般的な日本人の常識」とは何でしょうか?具体的に説明して下さい。
[2020/3/3]

@rinokokuの発言
史実に基づいて答えてください。脚色と妄想に塗れていて事実を何一つ書いていない聖書には根拠の価値は微塵もありません。
に対して

私は、福音や信仰など、神に属する事柄、つまり物質的な事柄ではない霊的な事柄については、史実に基づくのではなく、聖書的根拠に基づかなければならないと考えています。なぜなら史実と呼ばれるものも完全に客観的であることは不可能であり、どうしても人間の主観や価値判断というものが入り込んでしまうからです。
[2020/3/3]

@rinokokuの発言
残念ながら恐れると怯えるは違うんだよなぁ… 聖書とかいう自分勝手で妄想を羅列しているものをあてにするのではなく、一般的な日本人こ常識に沿って論理的に答えてください。
史実に基づいて答えてください。脚色と妄想に塗れていて事実を何一つ書いていない聖書には根拠の価値は微塵もありません。
に対して

あなたは、聖書を「自分勝手で妄想を羅列しており、脚色と妄想に塗れていて事実を何一つ書いておらず、根拠の価値は微塵もない。」と言い切りました。
言い切るのであれば、それを示す具体的な根拠や物的証拠をお示し下さい。
[2020/3/3]

@rinokokuの発言
宗教っていうものは物事を解決することをしない堕落腐敗した人間が救いを一方的に求める他力本願の極みのようなもほですよね?そんなものが何も与えてくれるはずないですよ。金と時間を貪り取られてあるはずのない『救い』などという抽象的な言葉でお茶を濁されるだけ
に対して

福音は一方的な他力本願ではありませんよ。福音を信じて神の恵みに頼って生きるためには、神がではなく、自分が主体的に判断し、自分が他の生き方を捨ててその生き方を積極的に選択し、自分が責任を持って決定しなければならないからです。だから私は人間の自由意志と自己決定権が大切だと繰り返し言っているのです。
あなたが福音を信じて生きる人間を「物事を解決することをしない堕落腐敗した人間」と評価するのは、あなたのご自由であり、それで結構です。しかし、その評価についてあなたは必ず責任を問われることになります。
あなたは救いを「あるはずがなく、抽象的な言葉だ」と言います。しかし、他の宗教の救いは知りませんが、私の告げ知らせる福音の救いは非常に具体的で明らかです。つまりイエス・キリストの十字架の死と復活であり、永遠の命です。これが救いです。
それはイエス・キリストが次のように教えている通りです。
イエスは言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイによる福音書16章24-27節)
[2020/3/3]

@rinokokuの発言
事件が起こらなかったのは学校側の努力によるものであって、あなたの手柄であるかのように言わないでください。
に対して

その論理はおかしい。もし「事件が起こらなかったのは学校側の努力によるもの」なのであれば、事件を起こす主体は私ではなく学校側だということになる。福音宣教活動のためのチラシ配布活動は学校側が行っていたのか?
[2020/3/3]

@ry26036417の発言
別に木田さんが自分の手柄って言ってる訳ではないし、そもそも、チラシを受け取るのは、生徒の自己判断だって言ってるんだから、あなたには関係ないでしょ。
僕は木田さんを信じます。
に対して

私を通して福音を信じるのは君にとって善いことです!
イエス・キリストが次のように教えているからです。
「わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイによる福音書11章6節)
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネによる福音書20章27節)
[2020/3/3]

@rinokokuの発言
福音(派)はトランプ大統領とかいう自己中を支持し生み出し、人類全体の寿命を縮め、悪影響をもたらしただけ。 救いや楽しみではなく迷惑と不景気をもたらし、温暖化を加速させているすべての元凶である。
に対して

トランプ大統領が、もし本当に福音を信じているのであれば、福音を、つまりイエス・キリストを行動原理として生きるはずです。或いは少なくとも自分の生き方がイエス・キリストの生き方に似るように祈り求めるはずです。しかし私には、彼は「Make America Great Again」つまり米国の国益を行動原理として、自国の軍事力と自国の経済力に頼って、自力本願で、功利と打算に基づいて生きているように見えます。
いずれにせよ、イエス・キリストは次のように教えています。
イエスは教えられた。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイによる福音書7章21節)
[2020/3/3]

@rinokokuの発言
『手柄って言ってる』と手柄であるかのように言うを区別できないのに他人との口論に割り込まないでください。学校側などの忠告を無視して配布している時点でトラブルに巻き込む側なのに、事件が起きなかったことを誇りであるかのように言うことはあまりに自分勝手で傲慢な意見である。
に対して

あなたは「学校側などの忠告を無視して配布している」と言いますが、私は青山学院中等部側からチラシ配布についてこれまでに忠告を受けたことは一度もありませんよ。忠告どころか青山学院中等部側からは私に何のコンタクトもありません。
[2020/3/3]

@ry26036417の発言
木田さんはチラシ配布をする為におそらく、警察に道路使用許可を、取っているのだから、正当かつ合法的に行われているものなので、事件を起こすはずがない。
に対して

はい、もちろんです。今回の青山学院中等部でのチラシ配布も事前に渋谷警察署から道路使用許可を受けています。中等部門の警備員さんには2月17日と2月18日に道路使用許可証を見せましたよ。
[2020/3/3]

聖木曜日を覚えて

永遠にいます全能の父よ、主イエス・キリストは今夜、弟子たちと共に食卓に着き、パンとぶどう酒のサクラメントを定め、罪人の手に引き渡されました。主は、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通されました。この尊いサクラメントのうちに、み子イエス・キリストの受難の記念を残されたことを、感謝します。どうかキリストの体と血である、この聖なるサクラメントをおそれ敬い、贖いの実を自らの内に悟り、生活の中に現わすことができますように、父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられるみ子イエス・キリストによって。アーメン
[2020/4/9]

聖金曜日を覚えて

全能の神よ、主イエス・キリストは今日、十字架の上で息を引き取られました。どうかあなたを信じる人々、あなたを信じてあなたの家族となった私たちを、慈しみの内に見守って下さい。主イエス・キリストは、この家族を救うために甘んじて裏切られ、罪人の手に引き渡され、十字架の死を遂げられました。父と聖霊と共に一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストに栄光がありますように。また、あなたは造られた全ての人を愛し、罪人が死ぬことを望まれず、主に立ち帰って生きることを喜ばれます。どうかあなたを信じない人々、十字架につけられたキリストへの信仰を拒む人々をみ心に留め、その気づかないでいることを悟らせ、み言葉を軽んじる心とかたくなな心とを除き、主イエス・キリストに従わせて下さい。聖霊の交わりの中で、あなたと共に世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン
[2020/4/10]

聖土曜日を覚えて

天の父よ、主イエス・キリストは今日、死に、葬られ、陰府にくだり、復活の時まで墓の中に納められました。あなたの家族である私たちは恵みによって、尊いみ子イエス・キリストの死にあずかる洗礼を授けられました。どうか常に、十字架への道を拒もうとする悪欲、十字架への道を迂回して逃げようとする悪欲を殺して、み子と共に葬られ、死の門と墓を通って、復活の喜びに至ることができますように。主が弟子たちに、十字架への道を拒む思いに対して「サタン、引き下がれ。」と言われた言葉を、常に心に深く刻むことができますように。万民のために死に、葬られ、よみがえられたみ子イエス・キリストのいさおによって。アーメン
[2020/4/11]

イースターおめでとうございます!

全ての命と力の源である神よ、主イエス・キリストは今日、実に復活されました。復活日の今日、御子、主イエス・キリストの尊いよみがえりのゆえに、主をほめたたえます。御子はまことの過越しの子羊として、私たちのために供えられ、世の罪を除き、その死によって死を滅ぼし、そのよみがえりによって永遠の命を与えて下さいました。また、あなたは御子の力ある復活により、罪と死の古い力に打ち勝ち、御子にあって万物を新しくして下さいました。どうか私たちが罪に死に、イエス・キリストにあってあなたに生き、栄光のうちに御子と共に支配することができるようにして下さい。父と聖霊と共に、賛美と誉れ、栄光と力が、今もまた永遠に御子にありますように。アーメン
[2020/4/12]

@rinokokuの発言
青山ではないが少なくとも筑波大附属と早稻田では教員に忠告を受け、青山でもあなたが原因で門が使えなくなる事態となっているようだ。 このことについてツイートを見るとあなたはが。本当に責任すら感じなていないなら福音はその程度ということになる。

反省や責任を感じる余地があるのは、正当かつ合法的なチラシ配布行為ではなく、正当かつ合法的な行為に対して全く合理性のない不当な忠告を出して妨害を企てるという行為や、正当かつ合法的な行為を妨害する目的で不当に校門を封鎖して生徒達に不要な不便・負担を強いるという行為である。
[2020/4/25]

@rinokokuの発言
道路使用許可というのは事件を絶対に起こさないという証拠ではなく、ただの許可ですよ。そこで事件を起こすか起こさないかはその人の行動次第であって、抑止力は少しあるかもしれないが、許可の有無に関係はありませんよ
に対して

あなたは自分が発言した内容に責任を持っていますか?
「事件が起こらなかったのは学校側の努力によるものであって、あなたの手柄であるかのように言わないでください。」とは、あなたの発言ですよ?この発言の後にどうしてあなたは「事件を起こすか起こさないかはその人の行動次第である」とか「学校側は事件を起こす主体と関わることを抑制しているだけであって事件の主体になり得ない」と平気で正反対の内容を発言できるのですか?あなたは発言した途端に自分の発言内容をキレイサッパリ忘れていく人間なのですか?
自分の発言した内容に全く責任を持たず、その場その場の都合や状況に応じて平気でコロコロと発言する内容を変える人間は不潔で卑しい。
[2020/4/25]

@rinokokuの発言
何がおかしいんですか? 登校する門を変えてトラブルを避けている学校もあったという話じゃないですか。 学校側は事件を起こす主体と関わることを抑制しているだけであって事件の主体になりえませんよ? 逆にその話でどう解釈したら学校が事件を引き起こすって理解できるんですかね?
に対して

あなたは自分が発言した内容に責任を持っていますか?
「事件が起こらなかったのは学校側の努力によるものであって、あなたの手柄であるかのように言わないでください。」とは、あなたの発言ですよ?この発言の後にどうしてあなたは「学校側は事件を起こす主体と関わることを抑制しているだけであって事件の主体になり得ない」とか「事件を起こすか起こさないかはその人の行動次第である」と平気で正反対の内容を発言できるのですか?あなたは発言した途端に自分の発言内容をキレイサッパリ忘れていく人間なのですか?
自分の発言した内容に全く責任を持たず、その場その場の都合や状況に応じて平気でコロコロと発言する内容を変える人間は、自分が嘘つきであるという事を自ら証明しているようなもので、その存在自体が空虚だ。
[2020/4/25]

@rinokokuの発言
神を信じていない人も主体的に判断し、自分の生き方を貫き、責任を持って決定しています。 だから神の恵みなどという抽象的なものの存在意義はなくないですか? あと金と時間を貪り取られるということに反論はないということですね
に対して

「金と時間を貪り取られるということ」についてですが、あなたは「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」(マルコによる福音書8章18節)
私がこれまでに、あなたを含めて青山学院中等部生の誰かから一人でも金と時間を貪り取った事実があるのですか?
「神を信じていない人も主体的に判断し、自分の生き方を貫き、責任を持って決定しています。」についてですが、まさしくあなたのおっしゃる通りです。だから神の恵みの存在意義が大いにあるのです。なぜなら先に引用した「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイによる福音書16章27節)というイエスの言葉通り、人間は全て神の裁判を受け、そこで神の恵みにあずかる者とされるかそれとも神の怒りを受ける者とされるかのどちらかに定められるからです。
「神を信じていない人も主体的に判断し、自分の生き方を貫き、責任を持って決定している」からこそ、神の裁判でその責任を問われることになるのです。もしかしてあなたは「神の怒りは自分に及ぶことはないだろう」というような甘い考えでも持っているのですか?あなたがもし神の恵みを「抽象的なもの」と理解しているのであれば、それはとてつもなく能天気な鈍感に由来する甚だしい思い違いですよ。なぜならあなたが神の恵みを「抽象的なもの」と理解する時、あなたは神の怒りというものを全然見ていないからです。あなたは神の恵みと神の怒りとは異なる別のものだと思っているのかも知れませんが、はっきり言っておきます。両者は決して別々のものではありません。神の恵みと神の怒りは実は神の裁判という同じ一つのことなのです。ただ人間の目から見れば同じ一つの神の裁判が別々に見えるというだけです。神の裁判については聖書の非常に多くの箇所で証言があります。
神を信じる人だけではなく神を信じない人も含めて、全ての人間に分け隔てなく神の裁判があることについて、イエスご自身は次のように述べています。
「イエスは言われた。『驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。』」(ヨハネによる福音書5章28-29節)
また聖書の他の箇所では次のように記されています。
「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ人への手紙9章27節)
「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。『主は言われる。<わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる>と。』それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」(ローマの信徒への手紙14章10-12節)
「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」(コリントの信徒への手紙Ⅱ5章10節)
また人間の裁判では決して裁かれることのない、普段の生活では秘密にしている隠れた人間の思いや行いも全て、神の裁判では明るみに出されるということについても次のように記されています。
「イエスは命じられた。『人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。』」(マタイによる福音書10章26節)
「イエスは言われた。『隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。』」(マルコによる福音書4章22節)
「イエスは言われた。『隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。』」(ルカによる福音書8章17節)
「イエスは話し始められた『覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。』」(ルカによる福音書12章2-3節)
「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ4章5節)
そして特に、神を認めない者に対してパウロは次のように述べています。
「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」(ローマの信徒への手紙2章3-16節)
神の裁判ではイエスを信じるということが救いに直結する神の恵みで大きな存在意義があり、逆に神を認めずイエスを拒んで受け入れないということが神の怒りを招いて裁かれる根拠となるということ、また裁きの基準はイエスの語った言葉であるということについて、聖書は次のように記しています。
「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネによる福音書3章18節)
「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネによる福音書3章36節)
「イエスは叫んで、こう言われた。『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。』」(ヨハネによる福音書12章44-48節)
「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。」(テサロニケの信徒への手紙Ⅱ1章8-9節)
また神の裁判では人間が発した些細な言葉についても全て裁かれると、イエスご自身が次のように言っています。
「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって正しい者とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイによる福音書12章36-37節)
だからもちろん、あなたがここでツイートしている些細な言葉についても全て神に記録されており、あなたは神の裁判で責任を問われることになります。
だから「神の恵みは抽象的で存在意義はない」というあなたの見解は断じて間違っています。そうではなく神の恵みはあまりにも具体的過ぎ、あまりにも大き過ぎるので、人間がその存在意義の全貌を決して測り知ることができないのです。なぜなら「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」(ローマの信徒への手紙5章16節)
だからイエス・キリストは全ての人に呼びかけているのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章15節)と。
従って私は、あなたも含めて全ての人が私のように、古い行動原理を悔い改めて、神の福音を信じて、罪を赦されて正しい者とされ、神の怒りではなく神の恵みを受けて救われるように、心からお祈りしているのです。
[2020/4/25]

@rinokokuの発言
じゃあなんでトランプ大統領の重要な支持基盤に福音派がいるんですかね? あなたの論理だと福音派は支持しないはずですよね?
に対して

先ず前提として、私の聖書解釈・福音理解と米国の福音派の人々の聖書解釈・福音理解は必ずしも同じではないこと━私の聖書解釈・福音理解については後続ツイートで詳しく論じます━、そして米国の福音派と十把一絡げに言っても定義は困難で様々な教派や考え方の人が含まれていること、トランプ大統領を支持するのか支持しないのかはあくまでも米国有権者の自由であることを挙げておきます。
その上で、米国の福音派の人々全てがトランプ大統領を支持している訳ではないと思います。彼等の中には当然、トランプ大統領を支持する人もいれば支持しない人もいるはずです。米国の福音派のトランプ大統領支持者がなぜ彼を支持するのかという問いについては、私は米国人ではないので正確には分かりません。
通説としてよく言われているのが①人口妊娠中絶に反対、②同性婚に反対、③イスラエル国の支持と在イスラエル米国大使館をエルサレムに移転、④宗教団体の政治参加についての規制の撤廃、これらを政策に反映して実現してくれるからだということです。
しかし2018年にホイートン大学のビリー・グラハム・センター研究所が行った調査では、米国の福音派の人々にとって2016年の大統領選挙で一番重要だったのは、上位から①経済を改善させる能力17%、②医療保障制度についての立場11%、③移民問題について10%、④国家安全保障の維持9%、⑤信教の自由8%、⑥最高裁判所について7%、⑦人柄7%、⑧中絶問題5%で、上記の通説とは異なる実態が読み取れるということです。
私自身の聖書解釈・福音理解によれば、トランプ大統領を支持する理由が通説であったとしてもビリー・グラハム・センター研究所の調査結果であったとしても、本当に福音を信じる者は、トランプ大統領であろうと他の誰かであろうと人間を支持するのではなく、常にイエス・キリストを支持しなければならないと考えています。なぜなら聖書に次のように記されているからです。
「人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」(イザヤ書2章22節)
「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。」(詩編146編3節)
「主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない。
わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は/わたしのほかにはない。
地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」(イザヤ書45章18.21-22節)
「人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。」(詩編118編 8-9節)
「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は。
彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく/人の住めない不毛の地/炎暑の荒れ野を住まいとする。
祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。
彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを見ることなく/その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく/実を結ぶことをやめない。」(エレミヤ書17章8節)
そしてイエス・キリスト自身は私達の人間社会に常に存在する為政者や政治家になることを敢えて拒否し、彼等のような振る舞いや生き方を否定しました。イエスが五千人に食べ物を与えた奇跡の後のことですが聖書に次のように記されています。
「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(ヨハネによる福音書6章15節)
またイエスがエルサレムでこれから確実に起こる十字架の死という自分の運命を引き受ける覚悟をした時、次のように言ったと聖書に記されています。
「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。」(ヨハネによる福音書12章31節)
これは、人間社会の為政者や政治家の本質に属する事柄、つまり法律や権力などの社会システムを整備して、それに人間を従わせるという方法論そのものを、人間は、人間の管理・統制あるいは人間が作り出した物の管理・統制のもとに置かれるべきだという視点そのものを彼は完全に否定したということです。これについてパウロは、イエスの十字架の死と復活を神の知恵、人間社会の為政者や政治家の方法論を世の知恵として次のように記しています。
「わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ2章6-8節)
またイエスも人間社会の為政者であるヘロデを「狐」と形容して世の知恵を否定し、強い決意表明したことが次のように聖書に記されています。
「ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。』
イエスは言われた。『行って、あの狐に、<今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える>とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、<主の名によって来られる方に、祝福があるように>と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。』」(ルカによる福音書13章31-35節)
実際、聖書は米国の福音派の人々が主張するように人工妊娠中絶や同性婚を決して認めてはいませんが、だからと言ってイエスは法整備や権力という物理的手段に訴えて人間に強制力を行使することは一度たりともしませんでした。ただ彼は人間に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章15節)、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコによる福音書1章 17節)とだけ呼びかけ、物理的な強制力によってではなく、人間の自発的な自由意志と自己決定権だけによって、虚偽の正義ではなく真実の正義、つまり神の国を実現する道を選んだのです。
従って人間を支持するのではなくイエス・キリストを支持するということは、具体的には彼のように人間社会の為政者や政治家の方法論を否定し、彼に従って生きる、彼と運命を共にするということです。だから私はこのように福音宣教活動を行っているのです。
従ってトランプ大統領を支持するということと福音を信じるということは本質的に全く関係がないことです。ビリー・グラハム・センター研究所の調査結果からも分かるように、その実態は福音信仰を実現するためではなく、日本の選挙も同じですが、自分達の日常生活に関して水準向上とか利益拡大とか安心安全の確保とかを実現するためです。そして私は米国の福音派の人々が必ずしも私と同じ聖書解釈の立場ではないことを知っています。私としては彼等も少しは私の聖書解釈を参考にして欲しいとは思いますが、トランプ大統領を支持するのか支持しないのかはあくまでも彼等の自由です。私は彼等を裁きません。なぜなら聖書に次のように記されているからです。
「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。
わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。『主は言われる。<わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる>と。』それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」(ローマの信徒への手紙14章 4.7-12節)
だから彼等は自分達の選択と決定について必ず責任を負うことになる、神の裁きを必ず受けることになる、彼等だけでなく私も、そしてあなたも。ただそれだけのことです。私はこれからも今まで通り福音宣教活動を行うだけです。それは、キリスト・イエスの奴隷である私は彼と同じように「今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」(ルカによる福音書13章 33節)からです。
さて、あなたはトランプ大統領を支持し生み出しているのはあたかも米国の福音派の人々だけに責任があるように言っていますが、確かに直接的な責任は米国の支持者達にあるとしても、間接的な責任は私達日本人にも大いにあると私は思います。なぜなら、これまでに日本の首相や政権代表者の誰かがトランプ大統領に対して面と向かって彼の政策について批判的な発言をしたことが一度でもありますか?いつも賛成や理解を示しているだけなのが現状ではないでしょうか?しかも世界中のどこの国の首脳よりも素早く真っ先に。その素早さにかけては世界中のどの国にも負けた事がありませんよね?だからトランプ大統領を支持し生み出している間接的責任は、現在の日本の政権を支持している日本人一人一人にもあるのです。事実、日本は安全保障面において米国の核の傘の下に守られており、勿論それは真実の平和ではなくただ力の均衡によって保たれているだけで水面下の実態は常に戦争状態である表面上の虚偽の平和ですが、その意味でトランプ大統領を大いに利用している側面がありますよね?あなたは今、選挙権はないのかも知れませんが、あと数年経って18歳にもなれば選挙権は発生するのだから、米国大統領の政策やそれによって流される血について、否応なく間接的責任を負わされることになるのです。あなたのように「トランプ大統領を支持し生み出しているのは米国の福音派の人々の責任だ」と言って、自分の責任については一切触れず、ただ単に他者を批判したり他人のせいにするのは非常に簡単です。あなたが米国の福音派の人々を批判するのはよく分かりました。それでは、既にグローバル化したこの世界の一部である日本という国に生きる者として、あなた自身には全く責任がないとでも言うのですか?あなた自身は具体的にどのような生き方をするつもりなのですか?具体的にどのように行動するつもりなのですか?自分の責任については何も語らずに他者の批判を繰り返してばかりいる者こそ「物事を解決することをしない堕落腐敗した人間」なのではないでしょうか?私はあなたとは異なり、他者の批判よりも自分の言動や生き方に徹底的に責任を持つ方がはるかに重要だと思います。私自身については既に述べ、行動している通りです。
[2020/4/25]

@rinokokuの発言
じゃあなんでトランプ大統領の重要な支持基盤に福音派がいるんですかね? あなたの論理だと福音派は支持しないはずですよね?
に対して

福音とトランプ大統領についてエピソードを一つ。去年来日して記憶に新しい、ローマ主教であるフランシスコ教皇は2016年2月17日、当時大統領当選前のトランプ氏がしきりに壁の建設を訴え続けている時に、米墨国境のメキシコ側の町シウダー・フアレスで敢えて大規模なミサを行った後、次のように言いました。
「橋を築くことでなく、壁を作ろうとそれだけを考えている人は、それがどこのことだろうとキリスト教徒ではありません。それは福音にはない。投票すべきかどうかどう助言するかという質問には関わらないことにします。ただし、この人物がそのようなことを言ったのなら、その人はキリスト教徒ではない、私はそう言うだけにとどめます。」
これに対してトランプ氏は次のように応じました。
「宗教指導者が人の信仰を疑問視するなど恥ずべきことだ。私は自分がキリスト教徒であることを誇りに思う」「指導者、特に宗教指導者が、他人の宗教や信仰に疑義を述べる権利はない」「誰が気にするものか。われわれは不法移民、つまり大量犯罪を阻止しなくてはならない」「彼(教皇)は犯罪も麻薬密売も、経済的マイナス影響も見ていないのだ」「もしバチカンがISISに攻撃されるようなことがあったら、周知のようにISISにはバチカンが究極の戦利品だ。教皇はドナルド・トランプが大統領だったなら……と嘆き祈るに決まっている。約束する。なぜなら(トランプ政権下では)このような攻撃は起こり得ないからだ」
この2人の応酬から読み取れるのは壁の建設について、フランシスコ教皇は福音を基準に発言しているのに対して、トランプ大統領は福音ではなく、日常生活に関する安心安全の確保とか利益の拡大とか軍事力の均衡によってもたらされる平和というものを基準に発言しているということです。トランプ大統領がフランシスコ教皇の発言に対して「私はキリスト教徒である」と十分な説得力を持って言うためには、彼は壁の建設について福音が支持しているという聖書的根拠を示す必要があります。しかし実際フランシスコ教皇の言う通り壁の建設について福音が支持する聖書的根拠は全くありませんし、彼はそれができないから「宗教指導者が人の信仰を疑問視するのは恥ずべきこと、宗教指導者が他人の宗教や信仰に疑義を述べる権利はない。」と言っているのです。
私は、たとえ相手が権力者で自分の身に危険が生じる可能性があるとしても神の言葉を曲げずに公言せねばならないという預言者の使命を果たしたフランシスコ教皇を尊敬します。
しかしあなたは、あなた自身が発言したことなので確認しますが、このようにトランプ大統領に対して批判的な発言をしたフランシスコ教皇を、「物事を解決することをしない堕落腐敗した人間」であり、「救いを一方的に求める他力本願の極みのような」人間であり、「金と時間を貪り取る」「あるはずのない『救い』などという抽象的な言葉でお茶を濁す」人間であると見做しているということですよね?
[2020/4/25]

@rinokokuの発言
逆に言うと聖書は客観的であるということですか?
に対して

聖書は客観的でも主観的でもなく霊的な書物です。
なぜならパウロは次のように言っているからです。
「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。」(ローマの信徒への手紙7章14節)
この「律法」という言葉は元来、旧約聖書冒頭にある基幹の五つの書物(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)、つまりモーセ五書のことを指しますが、転じて旧約聖書全体のことも意味します。「霊的」という言葉は原文では「ΠΝΕΥΜΑΤΙΚΟΣプネヴマティコス」というギリシア語で、分かり易く言えば、「神に属する、目に見えない事柄に関する(もの・こと)」という意味です。これについては自分のブログ「神学の森6」「福音の弁明と立証110,125-138」で詳しく書きましたので是非ご一読下さい。
聖書が霊的であるということはつまり、客観的とか主観的という枠組みから超えることができない他の書物とは次元が全く違うということです。客観的あるいは主観的というのは人間の意志に基づいていますが、霊的というのは神の意志に基づいているということです。確かに聖書も他の書物と同じように表面上は客観的あるいは主観的であるように見えます。しかし他の書物との違いは、他の書物はその源泉を人間の意志にまでしか遡れないのに対して聖書はその源泉を神の意志にまで遡るという点です。神の意志が人間の意志を支配して書き、聖霊が人間の意志を通して書いたものが聖書であるということです。もちろん聖書も他の書物と同じように人間の手によって書かれたのは事実ですが、神がその書き手である人間を道具として使って書いたということです。これについては「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、」(テモテへの手紙Ⅱ3章16節)「預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったもの」(ペトロの手紙Ⅱ1章21節) と書いてある通りです。
この、聖書が霊的であるということについて、神があなたに理解する力を与えて下さるかどうかは分かりませんが、私は神の助けによって私の力の及ぶ限り説明を試みたいと思います。
ヒッポ主教である聖アウグスティヌス(354-430年)はその著書『キリスト教の教えDE DOCTRINA CHRISTIANA』で、聖書を解釈する方法について詳しく論じていますが、その中でとても大切な根本原則とでも言うべき下記の発言をしています。
「すべての教えは、ものについてであるか、しるしについてである。Omnis doctrina vel rerum est vel signorum」(アウグスティヌス『キリスト教の教え』1巻2章)
彼はここで「もの」と「しるし」という言葉を使っています。ラテン語原文では「RES(rerumは複数属格形)」と「SIGNUM(signorumは複数属格形)」という言葉ですが、これらは聖書を解釈する上で非常に重要な概念です。つまり聖書の中のある言葉というのは、ある即物的な「もの」を示すだけでなく、その即物的な「もの」が「しるし」となって、ある霊的なものや事柄を指し示すということです。これについて私は自分のブログ「福音の弁明と立証121」でも書きました。 分かり易いと思われるものから具体例を順に挙げて説明していきたいと思います。
例えばあなたは、イエス・キリストが「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネによる福音書8章12節)と言う時に、イエスが自分のことを人間ではなく、目に見える物質的な光だと言っているのだと解釈しますか?
そうではありませんよね。ここでの「光」という言葉は、「光」という即物的な「もの」が「しるし」となって何か別の事柄を指し示している、イエスは「光」という言葉を使って私達に何か教えに関することや神に属する霊的な事柄を指し示したいのだということが分かりますよね?
同じようにイエスが「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。」(ヨハネによる福音書10章7節)とか「わたしは門である。」(ヨハネによる福音書10章9節)とか「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハネによる福音書10章14節)と言う時、あなたはイエスが自分のことを実際の羊の門であって実物の門であり、現実生活で本当の羊を飼っていると言っているのだと解釈しますか?
そうではありませんよね。ここでの「羊の門」や「門」や「羊飼い」という言葉も同じように即物的な「もの」が「しるし」となって何か別の事柄を指しているのだということが分かりますよね?
このように聖書の中の言葉は、ある即物的な「もの」を示すだけでなく、その即物的な「もの」が「しるし」となって、ある霊的なものや事柄を指し示すのです。
しかしこの「もの」と「しるし」が理解できず、聖書の中の言葉をある即物的な「もの」を示すだけとしか捉えられない場合、その人は聖書を解釈することができず、つまずくのです。実際つまずいた人の例が次のように聖書に記されています。
「イエスは言われた。『わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。』それで、ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。」(ヨハネによる福音書6章51-52節)
この記述から分かるように、ユダヤ人達はイエスが語る「パン」や「肉」という言葉を、即物的な「もの」としか捉えることができず、「しるし」として理解することがなかったため、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始め、つまずいたのです。
更にはイエスの弟子達ですら、つまずいた例が次のように聖書に記されています。
「イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。』これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』」(ヨハネによる福音書6章53-60節)
この記述から分かるように、イエスの弟子達の多くはイエスが語る「わたしの肉」や「わたしの血」や「天から降って来たパン」という言葉を、即物的な「もの」としか捉えることができず、「しるし」として理解することがなかったため、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と、つまずいたのです。
聖書は続けて証言します。
「イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。『あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。』」(ヨハネによる福音書6章61-63節)
この記述から分かるように、イエスの言葉は、「パン」や「肉」や「血」という即物的な「もの」が、「しるし」となって霊的なものや事柄を指し示すのです。なぜならイエス自身「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と言っていることから、自分が話した言葉は「霊」に属することである、つまり即物的な「もの」ではなく永遠の命に関する霊的な事柄を指し示す「しるし」であると言っているのです。そして「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。」と言っていることから、永遠の命に関する事柄を追跡できるのは、「しるし」を理解する霊的な知覚によってのみであり、即物的な「もの」を捉える肉体の五感、つまり肉的な知覚によっては決して追跡することができないと言っているのです。この「パン」や「肉」や「血」というイエスの言葉が指し示している霊的なものや事柄については、既に自分のブログ「福音の弁明と立証117-119,136」に私は書きました。
次は復活したイエスが、自分が逮捕され十字架につけられる時に自分のことを三度知らないと言って見捨てて逃げた弟子のペトロに言った言葉です。
「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」(ヨハネによる福音書21章17節)
ここでイエスがペトロに「わたしの羊を飼いなさい。」と言う時、あなたはイエスがペトロにこれまでの漁師の生活をやめて実際に羊を飼って牧羊生活を始めなさいと言っているのだと解釈しますか?そうではありませんよね。ペトロはこの後、実際に羊を飼った訳ではありません。ここでの「わたしの羊」という言葉は、即物的な「もの」つまり羊という生き物が「しるし」となってイエスを信じる人を指しているのだということがすぐに分かりますよね?
次もイエスが弟子たちに言った言葉です。
「イエスは彼ら(=弟子たち)に、『ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい』と言われた。」(マタイによる福音書16章6節)
あなたは、ここでイエスが「パン種」と言った時に、実際のパン作りに必要な材料であるイースト菌のパン種のことで、イエスは食べ物のパンのことについて言っているのだと解釈しますか?実際に弟子たちはイエスの「パン種」という言葉を食べ物のパンのことだと解釈しました。聖書は次のように続けます。
「弟子たちは、『これは、パンを持って来なかったからだ』と論じ合っていた。」(マタイによる福音書16章7節)
ここから、弟子達はイエスの「パン種」という言葉を、食べ物のパンだと解釈している、つまり即物的な「もの」としてしか捉えることができない、それが「しるし」となっていることに気がつかない、その「しるし」が指し示している霊的なものや事柄を知覚できないことが分かります。それではイエスの「パン種」という言葉が「しるし」となって指し示している霊的なものや事柄は何か?聖書自らが答えを示しています。聖書は次のように続けます。
「イエスはそれに気づいて言われた。『信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。』そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。」(マタイによる福音書16章8-12節)
ここからイエスの「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種」という即物的な「もの」が「しるし」となって「ファリサイ派とサドカイ派の人々の教え」を指し示しているのだということが分かります。
次はパウロの言葉です。先ず旧約聖書のモーセ五書、申命記に次のような記述があります。
「脱穀している牛に口籠を掛けてはならない。」(申命記25章4節)
この言葉の解釈についてパウロは、福音宣教の仕事に従事している者はその働きを続けるために福音を信じる者から物質面や生活面の必要について援助を受ける権利があるという文脈で、次のように言っています。
「モーセの律法に、『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ9章9-11節)
ここからパウロは「牛」という言葉を、即物的な「もの」つまり牛という生き物を指すのではなく、この脱穀作業に従事する牛という即物的な「もの」が「しるし」となって「わたしたち」つまりパウロをはじめ福音宣教の仕事に従事する人々であると解釈していることが分かります。
さて、このように聖書を解釈する上で大切な概念である「もの」と「しるし」についてですが、更に踏み込んで、もう1つ大切な概念があります。それは「予型」という概念です。
「予型」とは、結論を言えば一種の「しるし」です。「予型」は、聖書に書かれたある出来事が、その出来事そのものを示すだけではなく、その出来事が型となって、ある霊的な出来事を指し示すというものです。これについて私は自分のブログ「子供は親の所有物であるという思想に対する駁正」でも書いています。
この「予型」についてパウロは次のように記しています。
「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める予型として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ10章1-6節)
ここでパウロが言及しているのは、出エジプト記13-17章に書かれた出来事、すなわち神に導かれて奴隷状態のエジプトから脱出し、神が約束した土地を目指して荒れ野を旅をするモーセとイスラエルの民に起こった出来事です。パウロは「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」と言っていますが、この出来事ついて旧約聖書は以下のように記しています。
「主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、『我々に飲み水を与えよ』と言うと、モーセは言った。『なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。』しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。』モーセは主に、『わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています』と叫ぶと、主はモーセに言われた。『イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。』モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。」(出エジプト記17章1-6節)
このように、出エジプト記に書かれている「岩」は「ホレブの岩」であり、あくまでも即物的な「もの」としての「岩」です。しかしパウロは「この岩こそキリストだったのです。」と言っています。なぜこの「岩」がイエス・キリストなのか?それは、実はこの「岩」は即物的な「もの」ではなく霊的なものや事柄を指し示す「しるし」であると、つまりイエス・キリストを指し示す「しるし」であるからだとパウロ言っているのです。だからパウロは単に「岩ΠΕΤΡΑ」とは言わないで「霊的な岩ΠΝΕΥΜΑΤΙΚΗ ΠΕΤΡΑ」と言っているのです。注意深く見るとイスラエルの民が飲んだ飲み物についてもパウロは単に「水」とは言わないで「霊的な飲み物ΠΝΕΥΜΑΤΙΚΟΝ ΠΟΜΑ」と言っています。そしてイエスも実際に次のように言ったと聖書に記されています。
「イエスは言われた。『この水(=井戸の水)を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」(ヨハネによる福音書4章13-14節)
「イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」(ヨハネによる福音書7章37-39節)
この言葉から分かるようにイエスは、信じる人に、即物的な「もの」である物質的な水を与えるのではなく、霊的な飲み物すなわち永遠の命に至る水を与える、つまり聖霊を与える霊的な岩なのです。
そしてパウロは、イスラエルの民が岩から水を飲んだという出来事そのものが型となって、イエスを信じる者がキリストから霊的な飲み物すなわち永遠の命に至る水を飲み聖霊を受けるという出来事を指し示すと言っているのです。つまり聖書に書かれた具体的なある出来事は、その出来事そのものを示すだけではなく、その出来事が型となって、ある霊的な出来事を指し示しているのです。ここでの霊的な出来事というのは言うまでもなく、イエス・キリストの出来事です。これが即ち「予型」です。
この「予型」についてパウロは別の箇所でも次のように言っています。
「実にアダムは、来たるべき方の予型です。」(ローマの信徒への手紙5章14節)
アダムは創世記2-5章に登場する最初の人間で有名ですが、パウロはこのアダムの出来事が、その出来事そのものを示すだけではなく、その出来事が型となって、ある霊的な出来事を、すなわち「来たるべき方」を指し示していると言うのです。彼は以下のように詳しく述べています。
「一人の人(=アダム)によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来たるべき方の予型です。しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと正義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が正しいとされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも正義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ローマの信徒への手紙5章12-21節)
「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダム(=キリスト)は命を与える霊となったのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15章20-22,45,47-49節)
この記述から分かるように「来たるべき方」というのは勿論イエス・キリストのことです。つまり「実にアダムは、来るたべき方の予型です。」とパウロが言っているのは、アダムが神に背いて善悪の知識の木から食べ、罪を犯し、死に定められ、エデンの園から追放されたという出来事は、その出来事そのものを示すだけではなく、その出来事が型となって、イエス・キリストが神に従って十字架という命の木から食べ、恵みと正義を示し、復活に定められ、永遠の命に至る道を開いて神の国の門が開かれたという出来事を指し示しているということなのです。
パウロが「わたしたちを戒める予型として起こったのです。ΤΑΥΤΑ ΔΕ ΤΥΠΟΙ ΗΜΩΝ ΕΓΕΝΗΘΗΣΑΝ」「実にアダムは、来たるべき方の予型です。ΑΔΑΜ ΟΣ ΕΣΤΙΝ ΤΥΠΟΣ ΤΟΥ ΜΕΛΛΟΝΤΟΣ」と書いた時、彼が実際に使った「予型」という言葉はギリシア語原文では「ΤΥΠΟΣテュポス(ΤΥΠΟΙは複数主格形)」という言葉です。同じ個所をヴルガタと呼ばれるラテン語聖書では「わたしたちを戒める予型として起こったのです。Haec autem in figura facta sunt nostri」「実にアダムは、来たるべき方の予型です。Adae qui est forma futuri」と訳されており、「予型」を「FIGURA」や「FORMA」という言葉に訳していることが分かります。
アウグスティヌスが「予型」について書いた時、名詞は「FIGURA」の他に「PRAE-FIGURATIO(praeは時間的にも空間的にも“前に”の意)」や「TYPUS(ΤΥΠΟΣのラテン語音写)」、動詞は「FIGURO」、「PRAE-FIGURO」などのラテン語を使い、分詞・形容詞・副詞については動詞から派生させています。彼も『キリスト教の教え』の中で聖書解釈における「予型」の重要性について次のように触れています。
「だから旧約聖書に収められている全て、或いは殆どの行動は、文字通りにだけでなく、予型的にも受け取られなければならない。Ergo, quanquam omnia vel pene omnia quae in Veteris Testamenti libris gesta continentur, non solum proprie, sed etiam figurate accipenda sint:」(アウグスティヌス『キリスト教の教え』3巻22章)
「予型は理解にまで至らねばならない。Figuram ad intelligentiam referat,」(アウグスティヌス『キリスト教の教え』3巻22章)
そして彼はその著書『神の国DE CIVITATE DEI』の中で以下に挙げるように、旧約聖書における多くの「予型」を解き明かしています。
「パウロが使徒の権威に立って聖書を解釈するこの形式(=ガラテヤの信徒への手紙4章21節-5章1節でパウロが示した創世記21章1-10節の解釈形式)は、私達が新旧二つの契約の書をどのように解釈すべきかを明らかにしている。すなわち、地上の国のある部分(=地上のエルサレム)は天上の国(=天上のエルサレム・神の国)の象徴とされ、それ自身(=地上のエルサレム)をではなく、もう一つの国(=天上のエルサレム)を表示し、それゆえその国(=天上のエルサレム)に仕えているのである。というのはこの地上の国(=地上のエルサレム)はそれ自身をではなく、もう一つの国(=天上のエルサレム)を表示するために建てられたからである。しかもこの国(=地上のエルサレム)自身、予型するものでありながらipsa praefigurans、別の先行する象徴によって予型されているのであるpraefigurata est。」(アウグスティヌス『神の国』15巻2章)
「ユダヤ人達が殺した、人間の群れの牧者であるキリストを、アベルは羊の群れの牧者として予型した(創世記4章1-16節)。Iudaeos, a quibus Christus occisus est pastor ovium hominum, quem pastor ovium pecorum praefigurabat Abel,」(アウグスティヌス『神の国』15巻7章)
「彼(=カイン)に続いたアベルはこの兄に殺されたが(創世記4章1-16節)、この世に寄留する神の国の一つの予型であった。Hunc secutus Abel, quem maior frater occidit, praefigurationem quandam peregrinantis civitatis Dei,」(アウグスティヌス『神の国』15巻15章)
「ところで、このエノクの帰天(創世記5章24節)は、私達の神殿奉献(=神の国の奉献)の遅延を予型しているのである。Sed huius Enoch translatio nostrae dedicationis est praefigurata dilatio.」(アウグスティヌス『神の国』15巻19章)
「これに対しセトの子(創世記4章26節)、つまり『復活』の子は主なる神の名を呼ぶことを望むが良い。
確かに彼は次のように言う人々の社会(=神の国)を予型している。Eam quippe societatem hominum praefigurat quae dicit:
『だが私は主の家のオリーブの木のように、主の憐れみに望みを置いた。』(詩編51編10節)と。」(アウグスティヌス『神の国』15巻21章)
「いずれにせよ、きじ鳩と家鳩が加えられたこと(創世記15章9節)には霊的なものが予型されているということを、私は全く疑わない。Nullo modo tamen dubitaberim spiritales in ea praefiguratos additamento turturis et columbae.」(アウグスティヌス『神の国』16巻24章)
「使徒によれば、この二人の女(=ハガルとサラ[創世記21章1-10節][ガラテヤの信徒への手紙4章21節-5章1節])はあの旧新二つの契約を表している。
その際サラは上なるエルサレム、すなわち神の国を予型している。Ubi Sarra illa supernae Hierusalem, hoc est civitatis Dei, figuram gerit.」(アウグスティヌス『神の国』16巻32章)
「この民(=イスラエルの民)はキリストの予型typus Christiであり、キリストが受難という犠牲を通してこの世から父のもとへと過ぎて行く━実際、「過越し」はヘブライ語で過ぎて行くことを意味する━ことを前もって示している。またその上、新しい契約が啓示された時には、私達の過越しの祭りとしてキリストが犠牲に献げられてから五十日目に、天から聖霊が降って来ることまで予告しているのである。この聖霊は福音書で『神の指』(ルカによる福音書11章20節) と言われているが、
それは最初の予型としての出来事の記憶を私達に呼び起こさせるためである。Ut recordationem nostram in primi praefigurati facti memoriam revocaret,
というのは、あの律法の石の板もまた神の指(出エジプト記31章18節)で書かれたと言われているからである。」(アウグスティヌス『神の国』16巻43章)
「しかし全ての国民と全世界に関する約束(=古い契約ではなく新しい契約)の方はまだであった。キリストの肉における来臨と、古い律法の遵守ではなく福音の信仰が、やがてそれを成就することになっていた。このことを予型するのはCuius rei praefiguratio facta est、民を約束の地に導き入れた者は、かつてシナイ山でこの民のために律法を受け取ったモーセではなく、神の命令で名を変えてヨシュア(=ギリシア語音写ではイエス)と呼ばれた者であったということである。」(アウグスティヌス『神の国』16巻43章)
「こうして、進展する神の国は、王達の時代、すなわちサウルが退けられてダビデがはじめて王位を獲得し(サムエル記上15章1節-16章13節)、それ以後彼の子孫が長い間王位を継承しながら地上のエルサレムを支配するようになった時代にまで至った。これは予型でありdedit figuram━それを黙って見過ごしてはならない━、過去の出来事によって未来の諸々の出来事の変更について表示し、前もって告げているのである。すなわち、それは二つの契約、古い契約と新しい契約とに関わる変更のことであり、祭司エリが退けられて、サムエルが代わって神への奉仕に携わり、祭司と士師の職能を同時に果たしたこと(サムエル記上2章27節-7章17節)、また、サウルが見棄てられてダビデが王位についたこと(サムエル記上15章1節-16章13節)は、私の言ったことを予型しているfiguraveruntからである。」(アウグスティヌス『神の国』17巻4章)
「確かに、ソロモンは神殿を建て(列王記上6-8章)、その名の通りに平和を得ていたし━ソロモンというのは、ラテン語に訳すと、平和ならしめる者の意━、その治世の初めには非常に称えられていたという点で、来たるべきものの像が彼においてもある程度あらわれたと言える。しかし、彼はその存在によって来たるべきものの影として主キリストを前もって知らせただけであって、彼自身がそれを明らかに示した訳ではない。聖書は歴史的出来事によっても預言しながら、いわば来たるべきものの予型figuramを彼において粗描したに過ぎないのに、ある種のことは彼によって前もって告げられたかのように記されている。実際、彼の治世のことを記録した聖なる歴史の書の他に、詩編72編が標題に彼の名を記している。この詩編の中では、彼には全くあてはまらないが、主キリストには極めてはっきりとあてはまるようなことが語られている。従って、ソロモンにおいてある種の予型figuraが描かれ、キリストにおいて真理そのものがあらわれたことは極めて明瞭である。」(アウグスティヌス『神の国』17巻8章)
そして他ならぬイエス・キリスト自身も「予型」について語り、聖書に書かれた具体的なある出来事は、その出来事そのものを示すだけではなく、その出来事が型となって、ある霊的な出来事、つまり自分の出来事を指し示していると次のように証言しています。
「イエスは言われた。『そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。』」(ヨハネによる福音書3章14-15節)
ここでイエスが「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」と言及しているのは、民数記に書かれた以下の出来事です。
「彼ら(=エジプトを脱出したモーセとイスラエルの民)はホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」(民数記21章4-9節)
ここから分かるように、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」と言われているのは、青銅の蛇がモーセによって上げられたという出来事が、その出来事そのものを示すだけでなく、その出来事が型となって、イエス・キリストも十字架につけられて死んだ後、父なる神によって復活させられて天に上げられるという出来事を指し示し、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と言われているのは、モーセと主を非難するという罪を犯し、炎の蛇にかまれたイスラエルの民が、モーセに上げられた青銅の蛇を仰ぐと命を得たという出来事が、その出来事そのものを示すだけでなく、その出来事が型となって、神に背いて罪を犯し、死んだ状態にいる人間が、父なる神によって復活させられて天に上げられたイエス・キリストを信じて仰ぎ見ると、永遠の命を得るという出来事を指し示しているということなのです。つまりイエスは、民数記に記さている、モーセが荒れ野で蛇を上げた出来事は、自分自身の出来事の「予型」であると言っているのです。
またイエスは別の箇所でも「予型」について次のように証言しています。
「イエスは話し始められた。『今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。』」(ルカによる福音書11章29-30節)
ここから分かるようにイエスは自分のしるしとヨナのしるしは同じであると言っています。それは勿論ヨナが自分の「予型」であるということです。つまり、ヨナが大荒れの海に放り込まれ、巨大な魚に呑み込まれて三日三晩その腹の中にいた後、陸地に吐き出されるという出来事(ヨナ書1-2章)は、その出来事そのものを示すだけでなく、その出来事が型となって、イエスが十字架につけられて死に、墓に葬られて安置された後、三日目に復活するという出来事を指し示し、ヨナが神の命令通り自分の国ではなく外国の大都市二ネベに行って「あと四十日すれば、二ネベの都は滅びる」と宣教すると、二ネベの人々は神を信じて悪の道を離れたという出来事(ヨナ書3章)は、その出来事そのものを示すだけでなく、その出来事が型となって、イエスが神の命令通り「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章15節)と宣教すると、福音はユダヤ人の国を越えて外国にまで伝わり、多くの外国の人々が悔い改めて福音を信じるようになるという出来事を指し示すということです。
そして「しるし」というのは、ある即物的な「もの」を示すだけでなく、その即物的な「もの」が「しるし」となって、ある霊的なものや事柄を指し示すということなのだから、「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなった」というのは、ヨナが二ネベの人々に対して、ヨナという人間でしかない人間なのではなく、ヨナという人間が「しるし」となって、ある霊的なものや事柄を指し示しているということです。ヨナが「しるし」となって二ネベの人々に対して指し示している霊的なものや事柄は、ヨナ書の最後に書いてあります。ヨナは自分に日陰を作って快適さを提供してくれたとうごまの木が枯れてしまったことに対して大いに不満を抱きましたが、そのヨナに対して神が言った言葉です。
「神はヨナに言われた。『お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。』彼は言った。『もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。』すると、主はこう言われた。『お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。』」(ヨナ書4章9-11節)
ここから分かるようにヨナが「しるし」となって二ネベの人々に対して指し示している霊的なものや事柄というのは、外国の大都市二ネベにいる多くの人々と無数の家畜を救いたいという神の意志です。だから「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」と言われているのは、イエスもヨナと同じように 、イエスという人間が「しるし」となって今の時代の者たちに対して神の意志を指し示しているということです。その神の意志についてはイエス自身が次のように語っている通りです。
「イエスは言われた。『わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の意志を行うためである。わたしをお遣わしになった方の意志とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の意志は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。』」(ヨハネによる福音書6章38-40節)
話しを「予型」の具体例として一番最初に挙げた、イスラエルの民が岩から水を飲んだ出来事に関するパウロの記述に戻します。パウロは続けて言います。
「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める予型として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。」
ここから分かるように、パウロは型となる出来事をイスラエルの民が岩から水を飲んだという出来事に限定していません。その後イスラエルの民の大部分が神の御心に適わず荒れ野で滅ぼされてしまった出来事も「予型」であり、「わたしたちを戒める予型」であると言っています。そしてイスラエルの民が実際に荒れ野で滅ぼされてしまった出来事を次のように列挙していきます。
「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ10章7節)
ここでパウロが言及しているのは、出エジプト記32章に書かれた出来事です。イスラエルの民の内、偶像を礼拝した者がおよそ三千人倒れたと記されています。
「彼らの中のある者がしたように、売春をしないようにしよう。売春をした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ10章8節)
ここでパウロが言及しているのは、 民数記25章に書かれた出来事です。
「また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ10章9節)
ここでパウロが言及しているのは、民数記21章4-6節に書かれた出来事です。先述の、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」とイエスが言及した箇所です。
「彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ10章10節)
ここでパウロが言及しているのは、民数記14章と16章に書かれた出来事です。そして再び彼は「予型」について述べます。
「これらのことは予型として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ10章11-12節)
ここから分かるようにパウロは、列挙した、聖書に書かれた出来事が「予型」であると、即ちイスラエルの民が岩から水を飲んだ後、その大部分が神の御心に適わず荒れ野で滅ぼされてしまった出来事も、その出来事が型となって、ある霊的な出来事を指し示していると言っているのです。この「予型」について彼は、「それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するため」であり、「彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために」「わたしたちを戒める」ものであると言っていることから、ここでの霊的な出来事というのは、イエス・キリストを信じる人に起こるであろう出来事です。彼は、イエス・キリストを信じる人も悪をむさぼるのであれば、モーセとイスラエルの民に起こったのと同じような出来事が起こると言っているのです。彼のこの聖書解釈は、彼自身が語る次の原則に適合します。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。」(ローマの信徒への手紙15章4節)
つまり、神に導かれて奴隷状態のエジプトから脱出し、神が約束した土地を目指して荒れ野の旅をするモーセとイスラエルの民に起こった出来事は、その出来事そのものを示すだけではなく、その出来事が型となって、神に導かれて罪の奴隷状態から解放され、イエス・キリストが約束した神の国を目指して地上で寄留の旅をする福音を信じる者達に起こる出来事を指し示す「予型」なのです。
ここから分かるようにパウロは「予型」を、イエス・キリストの出来事を指し示すだけではなく、イエス・キリストを信じる人に起こるであろう出来事も指し示すと言っています。鋭い人は先述したアウグスティヌスが語る「予型」の内にもこの種の「予型」が既に含まれていることに気づいたはずです。しかしイエス・キリストの出来事とイエス・キリストを信じる人に起こるであろう出来事とは一見別々のように見えますが、実は同じイエス・キリストの出来事です。なぜなら聖書はイエス・キリストを信じる人、つまり教会を「キリストの体」(エフェソの信徒への手紙1章23節)と言っているからです。確かにイエス・キリストの十字架の死と復活、昇天と聖霊降臨という出来事は決定的であり、既に成就したイエス・キリストの出来事です。しかしイエス・キリストを信じる人に起こるであろう出来事は、今この時に成就しつつある現在進行中のイエス・キリストの出来事なのです。だから聖書が示す「予型」というのは既に終わった過去のものではなく、今もなお生きており、常に現在的であり、従って今を生きる私達人間に常に向けられているのです。
語り尽くすことはできませんが、以上が、聖書が霊的である事、つまり聖書が常にイエス・キリストの出来事を指し示している事、聖書が客観的とか主観的とかいう人間の意志に基づいて書かれたのではないという事、聖書が神の意志に基づいて書かれているという事についての私達の論証です。精読されれば私の聖書解釈・福音理解についての一端がご理解頂けると思います。
しかし聖書を読む人達の中には書かれていることを文字通りにしか受け取れず、この「もの」と「しるし」や「予型」が理解できずに、聖書が霊的であり、イエス・キリストの出来事を指し示しているという、私の聖書解釈・福音理解を否定する人達も確かにいます。しかし、そのような人達に対して聖書は次のように証言しています。
「イエスは言われた。『あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。』」(ヨハネによる福音書5章46節)
「イエスは言われた。『聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。』」(ヨハネによる福音書5章39-40節)
「イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」(ルカによる福音書24章25-27節)
従って、聖書が霊的ではないとか、聖書はイエス・キリストの出来事を指し示しているのではないと言う人達は、イエスが示した上述の聖書解釈の原則を無視しており、自分勝手に聖書を解釈しているのであって、間違っているということです。なぜなら「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない」(ペトロの手紙Ⅱ1章20節)と述べられているからです。
アウグスティヌスも、「もの」と「しるし」や「予型」による聖書解釈・福音理解を否定する人達について次のように言っています。
「転義的な語の両義性については、並々でない注意と忍耐を要する。すなわち予型的表現figuratam locutionemを文字通りに取ることを、先ず第一に避けねばならない。使徒が『文字は殺すが霊は生かす』(コリントの信徒への手紙Ⅱ3章6節)と述べているのはこのことを指しているのである。確かに予型的に言われていることfigurate dictumをあたかも文字通りに言われたかのように受け取る時には、肉的に理解している。人間が動物よりも卓れているのは理解の能力による。しかし理解の能力が文字通りの意味に囚われて肉に服従するとしたら、その時ほど魂の死と呼ぶにふさわしいことはない。実際、文字に囚われる人は、転義的な語をあたかも文字通りの意味に取って、文字通りの語が指し示していることをそれ以外の意味に関連づけない。だから例えば安息日という語を聞いても、絶えず周期をもって繰り返す七日の一日としか解し得ない。また犠牲という語を聞いても、動物の通常の犠牲や大地の収穫物の範囲を思索によって超えることがない。結局のところ、『しるし』を『もの』と取り違えsigna pro rebus accipere、とこしえの光を飲むために霊の目を形のある被造物以上に上げることができないのは、精神のみじめな奴隷の姿なのである。」(アウグスティヌス『キリスト教の教え』3巻5章)
私は、聖書が霊的である事を理解する力を、神があなたにお与え下さるように心よりお祈り致します。
[2020/4/25]

@rinokokuの発言
ノアの方舟とかがいい例なんじゃないですか?ノアと動物以外は全て滅んだと言っていますが、それほどの大洪水を起こすほどの水(水蒸気)はどこからやって来たんですか?また、それほどの大洪水があったとされる地学的根拠もありませんよ?もし妄想でないならば科学的根拠を出してください。
に対して

ノアの洪水は、確かにあなたの言うように現時点では、地学的根拠や科学的根拠によってそれが起こったことを確認することはできません。しかし同時に現時点では、地学的根拠や科学的根拠によってそれが起こらなかったことも確認できないのです。現にあなたもノアの洪水が無かったことを確証する具体的な根拠や物的証拠を私に示すことができませんでした。
分かっていらっしゃるとは思いますが、人間が現時点で発見し保有している地学的根拠や科学的根拠というものは全体があるとすればそのごく一部に過ぎず、それによって人類の歴史に起こったことを完全に知り尽くすには全く不十分です。例えばあなたが「それほどの大洪水を起こすほどの水(水蒸気)はどこからやって来たんですか?」と言ったことですが、洪水の発生源について聖書には「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。雨が四十日四十夜降り続いた」(創世記7章11-12節)と書かれています。あなたは洪水の発生源を上から降る雨だけだと思っているようですが、聖書をよく読むと「深淵の源がことごとく裂け」と記されています。ここから、下からも洪水の発生源があることが示唆されています。
私は詳しくは分かりませんが最近、リングウッダイトという石が発見されたことにより地球内部のマントルには大量の水が存在する可能性があるという研究や、全世界の海水は毎年23億トン位海底に浸み込んでマントルに吸収されているという研究があるらしいですよ。しかし現時点で人間が直接、地球内部のマントルを調査するのは困難なので地学的根拠や科学的根拠は得られず不明です。
いずれにせよ人間が現時点で持っている地学的根拠や科学的根拠だけで地球上の出来事を全て判断し得る想定し得ると考えるのは危険です。いや、むしろ誤りだと言っていい。東日本大震災の大津波や原発事故を経験した私達日本人は学んだはずではないですか?現時点で持っている地学的根拠や科学的根拠による想定はいつか必ず覆されるのだということを。
くどいようですが、ノアの洪水が起こったと確認できるのは聖書的根拠のみです。未知を伴う地学的根拠や科学的根拠ではありません。神の人間に対するメッセージは、聖書に書かれていることが全てです。文字による神の啓示は聖書で既に完結したのです。神の人間に対するメッセージについて聖書以外に何か新たなものが付け加わることは決してありません。従って人間が神からのメッセージを受け取るためには究極的な意味で聖書的根拠のみが必要で、地学的根拠も科学的根拠も究極的な意味で全く必要ありません。「書かれているもの以上に出ない」(コリントの信徒への手紙Ⅰ4章6節)からです。繰り返して言いますが、聖書は霊的な書物です。そもそも地学的な理解、科学的な理解というものは、たとえそれがどんなに高度なものであったとしても、結局それは人間の肉体の五感による理解、つまり肉的な理解でありそれを超えるものではなく、神が私達に求めている霊的な理解には決して到達できません。なぜなら肉的な理解と霊的な理解とではそもそも理解の次元が明らかに全く異なるからです。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネによる福音書6章63節)というイエスの言葉を思い出して下さい。聖書に書かれた出来事は霊であり、命なのです。ノアの出来事も、霊であり命であり、「すべてわたしたちを教え導くためのもの」(ローマの信徒への手紙15章4節)であり、「それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するため」(コリントの信徒への手紙Ⅰ10章11節)なのです。
私は先に、聖書が霊的であるという事を論証しましたが、ノアの出来事も例外ではありません。ノアの出来事も当然「予型」であり、その出来事そのものを示すだけではなく、その出来事が型となって、ある霊的な出来事を指し示しているのです。聖書に次のように書いてあります。
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従いませんでしたが、この箱舟に乗り込んだ少数の者だけが、これは八人の命ですが、水の中を通って救われました。この水と予型的に対応する洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。」(ペトロの手紙Ⅰ3章18-21節)
この箇所はノアの出来事に触れている新約聖書の記述ですが、著者は、イエス・キリストの宣教の出来事を、過去のノアの出来事にあてはめていることが窺えます。キリストの霊における宣教を記している、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従いませんでしたが、この箱舟に乗り込んだ少数の者だけが、これは八人の命ですが、水の中を通って救われました。」の部分は、日本語では翻訳上、文章を分けていますが、ギリシア語原文では切れ目なく続く一つの文章となっています。ここで原文において登場する動詞は①「行ってΠΟΡΕΥΘΕΙΣ(ΠΟΡΕΥΟΜΑΙの不定過去分詞・受動態・男性単数主格形)」②「宣教されましたΕΚΗΡΥΞΕΝ(ΚΗΡΥΣΣΩの直説法・不定過去時制・能動態・3人称単数形)」③「造られていたΚΑΤΑΣΚΕΥΑΖΟΜΕΝΗΣ(ΚΑΤΑΣΚΕΥΑΖΩの現在分詞・受動態・女性単数属格形)」④「待っておられたΑΠΕΞΕΔΕΧΕΤΟ(ΑΠΕΚΔΕΧΟΜΑΙの直説法・未完了過去時制・中動態・3人称単数形)」⑤「従いませんでしたΑΠΕΙΘΗΣΑΣΙΝ(ΑΠΕΙΘΕΩの不定過去分詞・能動態・中性複数与格形)」⑥「~ですΕΣΤΙΝ(ΕΙΜΙの直説法・現在時制・能動態・3人称単数形)」⑦「救われましたΔΙΕΣΩΘΗΣΑΝ(ΔΙΑΣΩΙΖΩの直説法・不定過去時制・受動態・3人称複数形)」の七つです。これらの内、文章の中で主動詞として用いられているのは②「宣教されました」④「待っておられた」⑥「~です」⑦「救われました」の四つだけで、他は分詞だということが分かります。これらの四つの主動詞の時制に着目すると②④⑦は全て過去時制なのに、⑥だけが現在時制で書かれています。この文自体はノアの時代におけるキリストの霊の宣教について、つまり過去の出来事について語られているはずなのに、一つの動詞だけが現在時制で語られるのは不思議です。「これは八人の命ですΤΟΥΤ ΕΣΤΙΝ ΟΚΤΩ ΨΥΧΑΙ」という⑥の文は、現在時制で書かれ、特異な挿入句のように見えますが、「八人の命」は文脈から当然「箱舟に乗り込んだ少数の者」を指しています。創世記には箱舟に乗って洪水から救われたのはノアとノアの妻、そしてノアの息子達セム、ハム、ヤフェトと彼等の妻達、つまり八人であると記されています(創世記7章13,18節)。しかし著者はこれに続く最後の文で「この水と予型的に対応する洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのですΣΩΙΖΕΙ(ΣΩΙΖΩの直説法・現在時制・能動態・3人称単数形)。」と、これも現在時制で記しています。だから著者がなぜ「これは八人の命です」と過去時制ではなく現在時制で言っているのかというと、過去のノアの出来事で洪水から救われた八人というのは、実は過去の事ではなく現在の事で、「八人の命」というのは実に洗礼を受ける「あなたたち」の事なのだと言っているからなのです。
また最後の文で「予型的に対応する」と書かれていますが、ギリシア語原文では「ΑΝΤΙΤΥΠΟΝ」という形容詞であり、「ΑΝΤΙ~に対面する」と「ΤΥΠΟΣ予型」の合成語です。だから著者は「この水(=洪水の水)と予型的に対応する洗礼」と書いているように、ノアの洪水の水は洗礼の水を「予型」しており、両者は対応関係にある、つまりノアの出来事は、その出来事そのものを示すだけではなく、その出来事が型となって、福音を信じる者達が受ける洗礼の出来事を指し示していると言っているのです。
このように、ノアの出来事が洗礼の「予型」であることについては、ミラノ主教である聖アンブロシウス(339-397年)も、その著書『神秘についてDE MYSTERIIS』で次のように語っています。
「また、他の証拠もある。全ての人は、その不正のために腐敗堕落していた。神は言われた、『わたしの霊はその中にいつまでもとどまらない。人は肉であるから』(創世記6章3節)。この言葉によって神は、肉の不潔と重い罪の汚れが霊的恩恵を退ける、ということを示された。そして神は、授けた賜物を修復しようとして、洪水を起こされ、正しい人ノアに、箱舟の中に入るよう命じられた(創世記7章1節)。洪水が退いた時、まず烏を放ったが、帰って来なかった(創世記8章7節[七十人訳による])。次に鳩を放った。鳩はオリーブの枝をくわえて帰ったと書いてある(創世記8章11節)。
あなたは水を見ている。木を見ている。鳩をよく見ている。それでもまだ、これが、神秘についての話だということを疑っているのか?Vides aquam, vides lignum, columbam adspicis et dubitas de mysterio?
水は、あらゆる肉の罪が洗い落とされるために肉体が沈められるところである。そこにはあらゆる罪悪が葬られる。木は、主イエスが私達のために苦難を受けられた時、釘付けにされたところである。鳩はあなた達が新約聖書の中で読んだように、聖霊が降った時に取られた姿である(マタイによる福音書3章16節)(マルコによる福音書1章10節)(ルカによる福音書3章22節)(ヨハネによる福音書1章32節)。その聖霊は、あなたに魂の平和と心の静けさを吹き込む。烏は罪の予型でCoruus est figura peccati、出て行ったきり、戻っては来ない。あなたがもし正義を保つなら、罪は、あなたから出て行ったきり、もう戻っては来ない。」(アンブロシウス『神秘について』10-11章)
「彼(=イエス)についてヨハネは、『わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た』(ヨハネによる福音書1章32節)と証言した。さてここで、霊は、なぜ鳩のように降られたのだろうか。それはあなたがこの鳩を、正しい人ノアが箱舟から放ったあの鳩の姿であるということを知って悟り、
サクラメントの予型を認めるためであった。Ut typum agnosceres sacramenti」(アンブロシウス『神秘について』24章)
また同じように彼は『サクラメントについてDE SACRAMENTIS』の中でも次のように語っています。
「洪水の中にもすでに、洗礼の予型があった。In diluvio quoque fuit iam tunc figura baptismatis」(アンブロシウス『サクラメントについて』1巻23章)
「私は昨日、洪水もまた洗礼の予型であったということについて論証を始めた。In diluvio quoque figuram baptismatis praecessisse hesterno coepimus disputare.
洪水とは正義の苗床となるために正しい人を保護し、罪を滅ぼす手段であった。主は、人々の罪が増すのを見て、一人の正しい人だけを、その子孫と共に保護され、水が増して、山の頂上を越えるように命じられた。こうして、その洪水で、肉の全ての堕落が滅び、模範として正しい人の一族が残った。こうみると、洪水は、洗礼と同じようなものである。この洗礼において、全ての罪が洗い去られ、正しい人の心と恵みだけがよみがえらされる。」(アンブロシウス『サクラメントについて』2巻1章)
ところで「ノアの洪水の出来事は事実ではなく妄想である」という考えを持つあなたのような頑迷な人ですが、実は決して珍しくはなく、あなた以外にも昔から今日に至るまで大勢います。1600年ほど前のアウグスティヌスの時代にもやはりいました。彼はその人達に対してノアの出来事が洗礼の「予型」である事を論証しつつ、次のように反駁しています。
「ところで、ノアは正しい人であり、また真理を語る聖書が彼について述べるところでは、その時代における完全な人であった━確かに神の国の市民があの不死性、すなわちそれによって天使に等しくなる不死性を得て完全なものとされるような意味では勿論ないが、この寄留の世において可能な仕方で完全なのである━。神はこのノアに箱舟を造り、その中に彼の家の者達、つまり妻と息子達とその妻達、さらにまたノアに与えられた神の命令によってやってきた動物達と共に乗り込み、洪水による滅亡から逃れるよう命じられた。
これは明白に、この世に寄留する神の国、すなわち教会が、『神と人との仲介者である人間キリスト・イエス』(テモテへの手紙Ⅰ2章5節)がかけられた木によって救われる、ということの予型である。Procul dubio figura est peregrinantis in hoc saeculo civitatis Dei, hoc est ecclesiae, quae fit salva per lignum, in quo pependit mediator Dei et hominum, homo Christus Iesus.
…(中略)…この箱舟の建造に関して言われている他の事柄もまた、教会の事柄の『しるし』である。
…(中略)…しかしながら、これらのことが書かれたのは無駄であるとか、何も比喩的には表示はせず、ただ実際に起こった事柄の真実性のみがここでは問われるべきであるとか、或いは反対に、これらは全て実際に起こった事柄ではなく、単なる言葉上の予型に過ぎないとか、或いはそれがどういうものであるにせよ、教会についての預言とは一切関係ない、などと考えるべきではない。実際、精神が倒錯していなければ、何千年もの間これほど敬虔に、またこれほど整って伝承され、熱意をもって保持された書物が、無駄に書かれたとか、或いはまた、そこでは単に起きた事柄のみに注目すべきであるなど、誰が主張するであろうか。
…(中略)…ところで、これ程に多数の、事実による『しるし』が、教会を予型すべきものではないなどとは、論争好きな者でなければ誰も考えない。Non autem ad praefigurandam ecclesiam pertinere tam multiplicia rerum signa gestarum, nisi fuerit contentiosus, nemo permittitur opinari.
…(中略)…こういう状況から、もしこれらの記事が理由もなく書かれたのでないと、全く頑迷な者が敢えて考えるとしても、それらは事実であっても何も表示しないとか、述べられていることは単に象徴であって事実ではないとか、また教会を表示することと無縁であるなどと言うことは恐らくできない。
いやむしろ、これらが記憶及び文書に託されたのは賢明であり、またそれらは事実であり、かつ何かを表示するものであり、その何かとはまさに教会の予型に属するものと信じるべきである。Sed magis credendum est et sapienter esse memoriae litterisque mandata, et gesta esse, et significare aliquid, et ipsum aliquid ad praefigurandam ecclesiam pertinere.」(アウグスティヌス『神の国』15巻26-27章)
そして他ならぬイエス・キリスト自身も、ノアの出来事は妄想ではなく事実であり、かつ自分の出来事の「予型」であると、次のように述べています。
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイによる福音書24章36-39,44節)
「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。」(ルカによる福音書17章22-27,30節)
この記述から分かるようにイエスは、ノアの出来事が、その出来事そのものを示すだけではなく、その出来事が型となって、自分が来る日の出来事、自分が現われる日の出来事を指し示すと言っています。イエスが来る日、イエスが現われる日というのはもちろんイエスが復活して天に上げられた後、再び地上に来る日、つまり来たるべき神の裁判のことです。なぜなら「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイによる福音書16章27節)と書いてあるからです。このイエスの再臨と神の裁判についてパウロは次のように詳しく書いています。
「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。」(テサロニケの信徒への手紙Ⅱ1章6-10節)
そしてノアの洪水は、不信仰な者達を罪に定めて滅ぼし、信仰のあるノア達八人を正義に定めて救う出来事であったと次のように聖書は記しています。
「神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、正義を宣教していたノアたち八人を保護なさったのです。」(ペトロの手紙Ⅱ2章5節)
「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく正義を受け継ぐ者となりました。」(ヘブライ人への手紙11章7節)
だから、神が洪水によって不信仰な者達を罪に定めて滅ぼし、信仰あるノア達八人を正義と定めて救ったという出来事は、その出来事そのものを示すだけではなく、その出来事が型となって、イエスが再び来る日、神の裁判によって不信仰な者達が罪に定められて永遠の破滅を受け、信仰ある者達が正義とされ救われて神を賛美するという出来事を指し示しているということなのです。つまりノアの出来事はイエス・キリストの出来事の「予型」なのです。
またイエスはノアの出来事について「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」と語っています。実際、洪水が起こる前、神が語りかけたのはノアだけで他の人達には語りかけず、神の声が聞こえたのはノアだけで他の人達は何も聞こえず、神の命令に従って箱舟を造ったのはノアだけで他の人達はそうせず、神の命令に従って箱舟に入ったのはノアと一族と動物達だけで他の人達はそうしませんでした(創世記6-7章)。イエスが言うように、洪水が起こるまでノア以外の人達は箱舟を造るノアを尻目に「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」つまり日常生活に没頭していた、彼等にとっては神の言葉を聞くことや神の命令に従うことよりも、自分達の現実の日常生活の方がはるかに重要だったのです。そしてイエスは、自分が再び来る日は人々の大多数が不信仰であるということについて「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカによる福音書18章8節)と言っていますし、信仰を持っている人達対しても次のように注意を喚起しています。
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカによる福音書21章34-36節)
従って、洪水によって滅ぼされた人達が、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりして何も気がつかなかったという出来事は、その出来事そのものを示すだけではなく、その出来事が型となって、イエスが再び来る日に神の裁判によって滅ぼされる人達が、日常生活に没頭していて鈍感であり、神の言葉や神の命令に気がつかずに不信仰であるという出来事を指し示しているのです。つまりノアの出来事はイエス・キリストの出来事の「予型」なのです。
このようにイエスが再び来る日というのは、福音を信じない人にとっては「神と小羊(=世の罪を取り除く神の子羊イエス・キリスト)の怒りの大いなる日が来た。だれがそれに耐えられるであろうか。」(ヨハネの黙示録6章17節)と書かれている「神と小羊の怒りの大いなる日」であり、福音を信じる人にとっては「『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられます。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ6章2節)と書かれている「恵みの時、救いの日」なのです。
しかしここで、あなたは言うかもしれない。「ノアの出来事は洗礼の『予型』であるはずではないのか?ノアの出来事を、一方でイエスの再臨と神の裁判の『予型』であると言い、他方で洗礼の『予型』であると言うのは矛盾するのではないか?」と。答えは否です。なぜならば洗礼も実は現在におけるイエスの再臨と神の裁判であり、同時に来たるべきイエスの再臨と神の裁判を先取りする「予型」であり、両者は同じだからです。福音を信じて洗礼を受けた人々について次のように書いてあります。
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェソの信徒への手紙1章13-14節)
つまり福音を信じて洗礼を受けるということは聖霊で証印を押されることであり、それは来たるべきイエスの再臨と神の裁判の際、救われて神の国に入ることの保証であるということです。だから洗礼は現在におけるイエスの再臨と神の裁判であり、同時に来たるべきイエスの再臨と神の裁判を先取りするものなのです。しかし確かに洗礼では、洗礼によって救われた人がいるだけで滅ぼされた人はいません。そこでは「恵みの時、救いの日」について語られるだけで「神と小羊の怒りの大いなる日」については語られません。もちろん洗礼では、アンブロシウスが言うように、洗礼を受けた人自身の中にイエス・キリストつまり新しい行動原理に支配された新しい人が復活して救われるのと同時に、洗礼を受けた人自身の中にいる罪の人間つまり古い行動原理に支配された古い人が死んで滅ぼされるので、洗礼を受けた人自身の中に滅ぼされた人はいます。しかし洗礼を受けていない人が滅ぼされることついては語られません。一体なぜか?現時点で神が洗礼を受けていない人を滅ぼさないでいるのは、神が、全ての人が悔い改めて、つまり回心して福音を信じるようになるのを忍耐して待っておられるからです。聖書に次のように書いてあります。
「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。」(ペトロの手紙Ⅱ3章9-10節)
また別の箇所では次のように書いてあります。
「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、/回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。あなたは存在するものすべてを愛し、/お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。」(知恵の書11章23-24節)
つまり現時点において直ちに不信仰者達が滅ぼされないのは、神が怒りを忍耐しているからであり、それ程までに神が人間を深く愛しているからなのです。
しかし私達人間にはそれがいつかは分かりませんが、遅かれ早かれイエスの再臨と神の裁判は必ず来ます。なぜなら神が洪水を起こされる直前の事ですが、箱舟の戸について聖書に次のように記されているからです。
「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。」(創世記7章15節)
つまり現在は、箱舟の戸は開いているが、神はすでにその戸に手をかけており、いつでも戸を閉めることができるように用意している状態、「神と小羊の怒りの大いなる日」による決定的な破滅について人間に猶予を与えている状態だということです。だからノアの出来事は、その出来事そのものを示すだけではなく、その出来事が型となって、洗礼の出来事を指し示し、同時にそれはイエスの再臨と神の裁判の出来事をも指し示しているのです。つまりノアの出来事は、洗礼の「予型」でありイエスの再臨と神の裁判の「予型」であり、それはすなわちイエス・キリストの出来事の「予型」なのです。
さてノアの出来事が正真正銘の事実であることの最大の根拠は、他ならぬイエス・キリスト自身が、ノアの出来事は事実であると証言していることです。彼は「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。」と証言しています。
従って、あなたは「ノアの洪水の出来事は事実ではなく妄想である」と言いましたが、自分の発言の意味を自分でよく分かっていますか?その発言はあなたが神と人間の前で自ら「イエス・キリストは嘘つきである」と公言しているということに他ならない。
「イエスは言われた。『言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって正しい者とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。』」(マタイによる福音書12章36-37節)
いずれにせよ私は、あなたが神の前に己の無知と高慢を悟り、神に逆らう自分の虚言を速やかに撤回してその罪を悔い改め、神の福音を信じて罪を赦されて正しい者とされ、神の怒りではなく神の恵みを受けて救わますように、心からお祈り致します。
[2020/4/25]

@rinokokuの発言
こういうことです。
に対して

なるほど、添付の教えて!gooの記事「おびえる・こわがる・おそれるの違いについて」が、あなたの言う「一般的な日本人の常識」なのですね。大変参考になりました。しかし、これらはあくまでも「おびえる・こわがる・おそれるの違いについて」回答者達の個人的な見解に過ぎないのではないでしょうか?私は彼等とは異なる見解を持っています。
「おびえる・こわがる・おそれるの違いについて」私の個人的な見解は以下の通りです。
結論から言うと、「怯える」も「怖がる」も、「恐れる」を前提にした言葉です。理由は以下の通りです。
先ず第一に、「恐れる」は様々な意味がありますが国語辞典の最初に記載された意味に「恐怖を感ずる。びくびくする。」(『現代国語例解辞典』小学館)とあるように、恐怖の感情が意味の中心である言葉だからです。しかし「びくびくする。」ともあるように、恐怖の感情が意味の中心ではあっても、恐怖の感情によって生じた反応や状態をもその意味に含有している言葉でもあるからです。
第二に、「怯える」というのは「恐れてびくびくする。」と辞書に書いてあるように、びくびくしている状態に表現の中心がありますが、その状態の前提となっているのは言うまでもなく「恐れる」つまり恐怖だからです。なぜなら、喜んでびくびくしたり、悲しんでびくびくしたり、怒ってびくびくしたりすることはないからです。だから「怯える」は恐怖の感情によって生じた反応や状態が意味の中心であり、「恐れる」という大きな言葉の領域の中にある小さな領域です。
第三に、「怖がる」というのも「怖いと思ってそれを態度に出す。」(『現代国語例解辞典』小学館)と辞書に書いてあるように、怖いと思う態度に表現の中心がありますが、その態度の前提となっているのは言うまでもなく怖いと思う感情、つまり恐怖だからです。だから「怖がる」も「怯える」と同様、恐怖の感情によって生じた反応や態度が意味の中心であり、「恐れる」という大きな言葉の領域の中にある小さな領域です。
従って添付の教えて!gooの回答者D-Gabachoさんが「(おそれるは)おびえる・こわがるのような恐怖反応そのものを表すことばではない」と言っているのは正確ではないと思います。「おそれるも恐怖反応を表す言葉であるが、おびえる・こわがるは、おそれるよりも個別具体的な恐怖反応を表すことができる」と言った方が適切だと思います。
また従って、「恐れると怯えるは違う」とあなたが言ったことも正確ではありません。正しくは「怯えると恐れるは違う言葉ではあるが、怯えるの意味内容は恐れるの意味内容に含有され、恐れるの意味内容は怯えるの意味内容を含有する。」と言うべきです。数学的に表現するのであれば、怯えるは恐れるの部分集合であり、怯えるは恐れるに含まれる、或いは恐れるは怯えるを含む。つまり、怯える⊂恐れる、恐れる⊃怯える、ということです。
次に添付の教えて!gooの回答者D-Gabachoさんは、個人的な感情論として、「たとえば、『神をおそれる』だと、単なる恐怖ではなく、崇め敬う気持ちのほうが強くなる」と言っていますが、「神をおそれる」というのは、もちろん崇め敬う気持ちもありますが、それ以上に基本的には恐怖の感情です。恐怖の感情よりも崇め敬う気持ちの方が強いというのは正しくありません。人間には様々な恐怖の対象がありますが、その中で最大の恐怖であり、究極の恐怖であるのが、神への恐怖だということを聖書は教えています。
先に私が引用した「主を恐れることは知恵の初め。」(箴言1章7節)(詩編111編10節)は聖書の言葉であり、言うまでもなく原文は日本語ではありません。ギリシア語旧約聖書「七十人訳SEPTUAGINTA」の原文は以下のようになっています。
「ΑΡΧΗ ΣΟΦΙΑΣアルヒ ソフィアス(=知恵の始めは) ΦΟΒΟΣ ΘΕΟΥフォボス テウ(=神への恐怖。)」(箴言1章7節)
「ΑΡΧΗ ΣΟΦΙΑΣアルヒ ソフィアス(=知恵の始めは) ΦΟΒΟΣ ΚΥΡΙΟΥフォボス キュリウ(=主への恐怖。)」(詩編111編10節)
ここから分かるように日本語で「恐れること」と訳されている元の言葉はギリシア語のΦΟΒΟΣフォボスという言葉です。ΦΟΒΟΣは恐怖一般を意味するギリシア語名詞で、恐怖の他にも畏怖や畏敬や危惧の意味も含み、聖書中で恐怖が表現される時に最も頻繁に使われる言葉です。恐怖を表現する際、他に使われる言葉として、脅威に対する恐怖を意味するΠΤΟΗΣΙΣ、臆病を意味するΔΕΙΛΙΑ、恐怖から少し意味がずれますが、慎重におそれかしこむ畏敬を意味するΕΥΛΑΒΕΙΑがあります。
聖書中で、ΦΟΒΟΣは同系の動詞ΦΟΒΕΟΜΑΙと形容詞ΦΟΒΕΡΟΣも含めて802回(旧約657新約145)の用例、
ΠΤΟΗΣΙΣは同系の形容詞の用例はなく同系の動詞ΠΤΟΕΩも含めて39回(旧約36新約3)の用例、
ΔΕΙΛΙΑは同系の動詞ΔΕΙΛΙΑΩと形容詞ΔΕΙΛΟΣも含めて43回(旧約38新約5)の用例、
ΕΥΛΑΒΕΙΑは同系の動詞ΕΥΛΑΒΕΟΜΑΙと形容詞ΕΥΛΑΒΗΣも含めて54回(旧約47新約7)の用例があります(E. Hatch, and H. A. Redpath,‘Concordance to the Septuagint’,Second Edition, Michigan, Baker Books, 1998.
‘Konkordanz zum Novum Testamentum Graece’,Dritte Auflage, Berlin-New York, Walter de Gruyter, 1987.)。
以上のデータを見れば分かるように、聖書中で恐怖が表現される時はΦΟΒΟΣ系が他のどの言葉よりも圧倒的に多く使われています。
そして以下に挙げるように、ΦΟΒΟΣの動詞ΦΟΒΕΟΜΑΙは「恐れる」だけでなく「怯える」と日本語に訳されている箇所もあります。
「あなたの命は危険にさらされ、夜も昼もおびえてΦΟΒΗΘΗΣΗΙ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの直説法・未来時制・受動態・2人称単数形)、明日の命も信じられなくなる。」(申命記28章66節)
「サウルはたちまち地面に倒れ伏してしまった。サムエルの言葉におびえたΕΦΟΒΗΘΗ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの直説法・不定過去時制・受動態・3人称単数形)からである。また彼はこの日、何も食べていなかったため、力が尽きていたのである。」(サムエル記上28章20節)
「ユダヤに住むイスラエル人は、アッシリア人の王ネブカドネツァルの軍総司令官ホロフェルネスが諸国の民に対して行ったすべてのこと、殊に彼らの神聖な場所すべてを荒らし破壊し尽くしたその手口を聞き、彼の来襲を前にしてひどくおびえたΕΦΟΒΗΘΗΣΑΝ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの直説法・不定過去時制・受動態・3人称複数形)。そしてエルサレムと神なる主の神殿のために非常に心配した。」(ユディト記4章1-2節)
「しかしユダの軍は、敵が大軍であることを知り、すっかりおびえΕΦΟΒΗΘΗΣΑΝ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの直説法・不定過去時制・受動態・3人称複数形)、多くの者が陣を離れ、残った者はわずか八百人であった。」(マカバイ記Ⅰ9章6節)
また以下に挙げるように、ΦΟΒΟΣの動詞ΦΟΒΕΟΜΑΙは「怖がる」や「怖い」と日本語に訳されている箇所もあります。
「ホロフェルネスはユディトに言った。『女よ、心配するな。怖がらなくともよいΦΟΒΗΘΗΙΣ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの接続法・不定過去時制・受動態・2人称単数形)。全世界の王ネブカドネツァルに仕える道を選んだ者に、わたしは危害を加えたことはない。』」(ユディト記11章1節)
「祭司長や民の長老たちは論じ合った。『<人からのものだ>と言えば、群衆が怖いΦΟΒΟΥΜΕΘΑ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの直説法・現在時制・受動態・1人称複数形)。皆がヨハネを預言者と思っているから。』」(マタイによる福音書21章26節)
「イエスは弟子たちに言われた。『この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。』弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてΕΦΟΒΟΥΝΤΟ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの直説法・未完了過去時制・受動態・3人称複数形)その言葉について尋ねられなかった。」(ルカによる福音書9章44-45節)
従って聖書においては「恐れる」も「怯える」も「怖がる」も同じ言葉です。
そしてΦΟΒΟΣ系と、ΠΤΟΗΣΙΣ系及びΔΕΙΛΙΑ系との間にある決定的な差異は、様々な恐怖の対象がある中でただ一つ、神を恐怖の対象とする場合があるかないかということです。なぜならΦΟΒΟΣ系が全用例802回の内、恐怖の対象に直接「神ΘΕΟΣ」、「主ΚΥΡΙΟΣ」、「神の顔ΠΡΟΣΩΠΟΝ ΘΕΟΥ」、「神の名ΟΝΟΜΑ ΘΕΟΥ」、「主の名ΟΝΟΜΑ ΚΥΡΙΟΥ」を目的語として取る例は、240(旧約216新約24)回であるのに対して、ΠΤΟΗΣΙΣ系やΔΕΙΛΙΑ系は神を直接目的語として取る例は全用例82回の内、0回だからです。ΕΥΛΑΒΕΙΑ系は意味が少し違うこともありますが、神を直接目的語として取る例が全用例54回の内、2回あります。このことから聖書は、神に対する恐怖については、意図的にΦΟΒΟΣ系を使っていることが明らかです。
私は先に、「神をおそれる」というのは、崇め敬う気持ち以上に恐怖の感情であり、人間にとって最大の恐怖の感情であるのが正しいと言いましたが、それはイエスが次のように言っているからです。
「イエスは話し始められた。『友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならないΦΟΒΗΘΗΤΕ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの接続法・不定過去時制・受動態・2人称複数形)。誰を恐れるべきかΦΟΒΗΘΗΤΕ(同上)、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさいΦΟΒΗΘΗΤΕ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの命令法・不定過去時制・受動態・2人称複数形)。』」(ルカによる福音書12章4-5節)
「イエスは命じられた。『人々を恐れてはならないΦΟΒΗΘΗΤΕ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの接続法・不定過去時制・受動態・2人称複数形)。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるなΦΟΒΕΙΣΘΕ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの命令法・現在時制・受動態・2人称複数形)。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさいΦΟΒΕΙΣΘΕ(同上)。』」(マタイによる福音書10章26-28節)
この記述から分かるのは、真に人間が恐怖すべきは人間ではなく神だということです。しかし大多数の人間は、添付の教えて!gooの回答者D-Gabachoさんが言うように、神をおそれると言う時、「単なる恐怖ではなく、崇め敬う気持ちのほうが強く」なります。なぜなら神の存在は目に見えず、肉的に知覚し得ないので、神に対して恐怖の実感が湧かないからです。大多数の人間は、目に見え、肉的に知覚し得る事柄や人間に対してはすぐに恐怖の実感が湧きます。そうではなくイエスが言っているのは目に見えない神に対してこそ恐怖の実感を持たなくてはならないのだということです。それは、イエスの「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるな」という言葉が、現在の日本の状況に照らして分かり易く翻訳するなら、「あなたたちを小菅の踏み板の下に送って肉体を殺すことしかできない連中を恐れるな」となることからよく分かると思います。神の怖さというものは実はその連中の怖さとは比べ物にならないほど絶大な実感を伴う恐怖だということです。小菅の踏み板の下に送られて肉体を殺されることは誰にとっても確かに実感を伴う大きな恐怖です。しかしイエスは他人に教えるだけでなく自分の教えたことを実行し、父なる神の命令に従い、十字架という公開死刑の死に至るまで、人間をつまり自分を十字架に引き渡していく連中を決して恐れませんでした。
神をおそれることが実感を伴う恐怖であるということはパウロも言っています。パウロの言葉に「主に対する恐怖ΤΟΝ ΦΟΒΟΝ(ΦΟΒΟΣの単数対格形) ΤΟΥ ΚΥΡΙΟΥを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ5章11節)というものがありますが、ここで彼が言っている「恐怖ΦΟΒΟΣ」というのは崇め敬う気持ちなどではなく確実に実感を伴う恐怖です。なぜならこの発言の前の部分と合わせて読めば文脈により明らかだからです。前の部分と合わせると以下のようになります。
「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。主に対する恐怖を知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ5章9-11節)
ここから分かるように、パウロの言う「恐怖」とは来たるべき神の裁判によって生じる恐怖であり、実感を伴う恐怖であることが明白です。彼は、神への恐怖が実感を伴う恐怖であることを「知っている」からこそ、「人々の説得に努め」ている、つまり福音を宣教しているのです。そしてなぜ福音を宣教するかと言うと、当然パウロ達以外の大多数の人は、神に対して恐怖を実感していないからだということも分かります。
それでは実感を伴う神への恐怖とは具体的に何なのか?その答えは先に示したイエスの言葉の続きにあります。
すなわちルカによる福音書では以下の通り記されています。
「イエスは話し始められた。『友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。誰を恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。』」(ルカによる福音書12章4-9節)
マタイによる福音書では以下の通り記されています。
「イエスは命じられた。『人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。』」(マタイによる福音書10章26-33節)
この記述から、神への恐怖というものが具体的には、人々の前で「私はイエスとは関係ない」或いは「私はイエスを知らない」と言うことによって自分もイエスから「わたしもあなたとは関係ない」或いは「わたしもあなたを知らない」と言われてしまうこと、すなわち神から拒否されてしまうことであるのが分かります。しかもそれはイエスが再び来る日のこと、つまり神の裁判での場面であり、だから人間にとって究極的な断罪であるということも分かります。なぜならイエスは次のように語っているからです。
「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコによる福音書8章38節)
「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(ルカによる福音書9章26節)
「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイによる福音書16章27節)
従って人々の前でイエス・キリストを公言しないことは、人間にとって神の裁判での永遠の死に値する罪なのです。
聖書の他の箇所でも次のように書かれています。
「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。」(ヨハネの手紙Ⅰ2章22-23節)
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」(テモテへの手紙Ⅰ2章11-13節)
だから神への恐怖は人間にとって、実感を伴う究極的な恐怖なのです。
私はあなたに「主を恐れることは知恵の初め。」という聖書の言葉の意味をよく勉強するように勧めましたが、以上がその内容です。
しかし、これでもまだ神への恐怖については語り尽くしていないので、更に論じたいと思います。これまで見てきたように、イエスは、真に恐れるべきは人間ではなく神であると教えました。しかしながら聖書は、人間を恐れている人達、つまりイエスの発言と正反対の人達のことも同じΦΟΒΟΣ系の言葉を使って以下のように対照的に描き出しています。
「ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れたΕΦΟΒΗΘΗ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの直説法・不定過去時制・受動態・3人称単数形)。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。」(マタイによる福音書14章5節)
「祭司長や民の長老たちは論じ合った。『<(ヨハネの洗礼を天からのものではなく)人からのものだ>と言えば、群衆が怖いΦΟΒΟΥΜΕΘΑ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの直説法・現在時制・受動態・1人称複数形)。皆がヨハネを預言者と思っているから。』」(マタイによる福音書21章26節)
「彼ら(=祭司長、律法学者、長老たち)は、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れたΕΦΟΒΗΘΗΣΑΝ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの直説法・不定過去時制・受動態・3人称複数形)。それで、イエスをその場に残して立ち去った。」(マルコによる福音書12章12節)
「祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのであるΕΦΟΒΟΥΝΤΟ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの直説法・未完了過去時制・受動態・3人称複数形)。」(ルカによる福音書22章2節)
この記述から分かるように、人間を恐れている人達というのは、神に従う者を拒否し、その態度で「私はイエスとは関係ない」「私はイエスを知らない」と言い表している人達であるということ、そして実際にこの人達はイエスを十字架へと引き渡していく連中ですが、神への恐怖が全くない人達であるということ、彼等が神の裁判で神から拒否されて永遠の死に裁かれるべき存在であるということを聖書は浮き彫りにしています。
また聖書は、イエスを否定する人達だけでなく、イエスを好意的に評価する人達やイエスを信じる人達の中にさえ神を恐れるよりも、人間を恐れて、人々の前でイエス・キリストを公言しないという悪への傾向があることを、同じΦΟΒΟΣ系の言葉を使って以下のように証言しています。
「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れてΦΟΒΟΝ(ΦΟΒΟΣの単数対格形)、イエスについて公然と語る者はいなかった。」(ヨハネによる福音書7章12-13節)
「両親がこう言った(=息子の盲目を見えるようにしたのはイエスだと公言しなかった)のは、ユダヤ人たちを恐れていたΕΦΟΒΟΥΝΤΟ(ΦΟΒΕΟΜΑΙの直説法・未完了過去時制・受動態・3人称複数形)からである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。」(ヨハネによる福音書9章22節)
「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れてΦΟΒΟΝ(ΦΟΒΟΣの単数対格形)、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。」(ヨハネによる福音書19章38節)
「(イエスがユダヤ人達によって十字架刑で殺されてから間もなく)その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れてΦΟΒΟΝ(ΦΟΒΟΣの単数対格形)、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」(ヨハネによる福音書20章19節)
またΦΟΒΟΣ系の言葉を使ってはいませんが、次のように書かれている箇所もあります。
「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」(ヨハネによる福音書12章42-43節)
このように聖書は、イエスを好意的に評価したりイエスを信じているにもかかわらず、人間を恐れて、人々の前でイエス・キリストを公言しないことに対して厳しい批判の目を向けていることが分かります。
私は先程、人々の前でイエス・キリストを公言しないことは、神から拒否されることであり、人間にとって神の裁判での永遠の死に値する罪であると言いましたが、実はイエスの一番弟子であるペトロも、自分の師の逮捕が目の前で現実となった時、人々の前でイエスを知らないと言ったのです。
ペトロは日頃からイエスが「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(マタイによる福音書10章32-33節)と教えているのをよく聞いていました。だからイエスが十字架につけられる日のことですが、イエスと弟子達との間に次のようなやり取りがあったと聖書は記しています。
「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。<わたしは羊飼いを打つ。/すると、羊の群れは散ってしまう>と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。』するとペトロが、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』ペトロは、『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った。」(マタイによる福音書26章31-35節)
この後、イエスは弟子のユダが裏切ったことにより逮捕されますが、弟子達は皆イエスを見捨てて逃げました。そしてイエスは裁判を受けるために大祭司の屋敷に連行され、ペトロはやはり気になるのか事の成り行きを見ようとその屋敷の中庭に入って座ります。そこでの出来事を聖書は次のように記しています。
「ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、『あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた』と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、『何のことを言っているのか、わたしには分からない』と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、『この人はナザレのイエスと一緒にいました』と言った。そこで、ペトロは再び、『そんな人は知らない』と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。『確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。』そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(マタイによる福音書26章69-75節)
人々の前でイエス・キリストを公言しないことは、神から拒否されることであり、人間にとって神の裁判での永遠の死に値する罪です。しかしペトロはこのイエスの教えをよく聞いていながら人々の前で「イエスを知らない」と言いました。しかも「呪いの言葉さえ口にしながら」激しく。彼は発言の後「外に出て、激しく泣いた」とあるので、その発言はペトロ自身が望んでいたのではなかったことが分かります。ペトロが実際どれ程イエスを愛し惚れ込んでいたかは聖書に以下のように書いてある通りです。
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモン(=ペトロ)とシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(マルコによる福音書1章16-18節)
「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア(=ヘブライ語[油注がれた者・王・救い主]の意味、ギリシア語でキリスト)、生ける神の子です』と答えた。」(マタイによる福音書16章15-16節)
「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」(マタイによる福音書16章21-23節)
「イエスは更に言葉を続けられた。『子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』ペトロがイエスに、『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました』と言いだした。」(マルコによる福音書10章24-28節)
「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、『主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか』と言った。イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる』と言われた。ペトロが、『わたしの足など、決して洗わないでください』と言うと、イエスは、『もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる』と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。『主よ、足だけでなく、手も頭も。』」(ヨハネによる福音書13章3-9節)
「(イエスの十字架の死と復活の後)シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。」(ヨハネによる福音書21章3-7節)
ここから分かるようにペトロのイエスに対する愛は尋常ではないくらい深いものでした。彼はイエスに従うために日常生活の収入手段である漁の仕事を、自由意志と自己決定権で完全に放棄した程なのです。だからペトロが「外に出て、激しく泣いた」のは、イエスの予告通り自分が本当にイエスを拒否してしまったことで、最愛の人を拒否することなんか絶対にないと自負していたこれまでの自分の人間的な誇り、プライドが何もかも全て打ち砕かれ、自分の罪を思い知り、完全に打ちのめされたからです。
それではなぜペトロは「イエスを知らない」と自分が望まない発言をしたのか?それは、もしペトロが「私はイエスを知っている」「私はイエスの仲間である」と言えば、自分自身もイエスの仲間、共犯者としてその場で逮捕され裁かれるからです。つまり望んでいないにもかかわらずペトロが「イエスを知らない」と3度も発言したのは、死の危険から自分の命を守ろうとする生物として当然の反射的な防御行動、人間であれば誰にでも自然に備わっている抗いようのない生存への本能からです。ペトロ自身はイエスを知らないと絶対に言わないことを望んでいるにもかかわらず、現実のペトロは3度もイエスを知らないと言い、望んでいないことを行った。ここから分かるのは、人間というものはたとえ自分が望んでいても、自分の肉体はそれとは関係なく本能的に自分が望まない悪を行うことがある。つまり自然の人間、自然の肉体の内に罪があるのは否定できないということです。少なくともペトロはこの時、自分の内にある罪をまざまざと眼前につきつけられたし自分の罪をはっきりと思い知ることになったのです。このことはパウロも次のように述べています。
「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7章14-15,18-24節)
それでは「イエスを知らない」と3度も言ったペトロは、神から拒否され、永遠の死に値する罪に裁かれるということなのでしょうか?いいえ、決してそうではありません。なぜならペトロがその後復活したイエスと出会った時、イエスはペトロに対して「あの時なぜあなたは私を見捨てて逃げ、わたしを知らないと3度も言ったのか」とか「あなたにわたしの弟子の資格はない」とか「わたしはあなたを知らない。わたしとあなたとはもう何の関係もない」と言わなかったからです。そうではなく復活したイエスはペトロに対して「平和があるように」と言ったのです。聖書に次のように記されています。
「(イエスがユダヤ人達によって十字架刑で殺されてから間もなく)その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和ΕΙΡΗΝΗがあるように』と言われた。」(ヨハネによる福音書20章19節)
この「平和ΕΙΡΗΝΗ」という言葉ですが、イエスは病気を癒したり罪を赦す場面で使っています。すなわち12年間出血の止まらない女を癒した時、イエスはその人に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。平和ΕΙΡΗΝΗΝ(ΕΙΡΗΝΗの単数対格形)に行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコによる福音書5章34節)と言い、罪深い女が泣きながらイエスの足に香油を塗った時、イエスはその人に「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。平和ΕΙΡΗΝΗΝに行きなさい」(ルカによる福音書7章48,50節)と言っています。だからイエスがペトロに「平和があるように」と言ったのは、「わたしはあなたの信仰を認め、あなたを永遠の死に値する罪に定めない」ということなのです。ここに福音の本質が示されています。それは罪の赦しです。だからイエスが言う「平和」というのは、人間にとって信仰により自分の罪が赦された状態、神と自分との間にある、本来解消することのできない敵意が解消して神と自分との間に和解が成立している状態のことなのです。これについて聖書も次のように記しています。
「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。
わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が。
わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和ΕΙΡΗΝΗΝ、平和ΕΙΡΗΝΗΝ、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。
神に逆らう者は巻き上がる海のようで/静めることはできない。その水は泥や土を巻き上げる。
神に逆らう者に平和はないと/わたしの神は言われる。」(イザヤ書57章15-16,19-21節)
「実に、キリストはわたしたちの平和ΕΙΡΗΝΗであります。二つのもの(神の怒りを受けて滅ぼされるべき人間[肉の人]と神の恵みを受けて救われるべき人間[霊の人])を一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和ΕΙΡΗΝΗΝを実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和ΕΙΡΗΝΗΝの福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エフェソの信徒への手紙2章14-18節)
「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立てΕΙΡΗΝΟΠΟΙΗΣΑΣ(ΕΙΡΗΝΟΠΟΙΕΩ[ΕΙΡΗΝΗ平和+ΠΟΙΕΩつくる]の不定過去分詞・能動態・男性単数主格形)、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロサイの信徒への手紙1章19-20節)
「このように、わたしたちは信仰によって正しい人とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和ΕΙΡΗΝΗΝを得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ローマの信徒への手紙5章1-2節)
「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」(テモテへの手紙Ⅰ2章5節)
そしてイエスはこの「平和」について十字架につけられる前、弟子達に次のように語っています。
「わたしは、平和ΕΙΡΗΝΗΝをあなたがたに残し、わたしの平和ΕΙΡΗΝΗΝを与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネによる福音書14章27節)
この箇所からイエスが与える「平和」というのは、世が与える「平和」とは明らかに異なるということが分かります。世が与える「平和」というのは、人間社会が与える「平和」です。それは、言うまでもなく私達の日常生活における現実の「平和」であり、神の力ではなく人間の力によって作られる「平和」、水面下では戦争状態であるが物理的な力の均衡状態によって表面的には争いや戦争が起こらなくて済んでいる状態、つまり虚偽の平和です。イエスはこの言葉によって、私達人類が本来目指すべき平和は、世が与える虚偽の「平和」ではなく、彼が与える真実の「平和」でなければならないということを教えているのです。
ここから分かるようにペトロはイエスから怒りの顔を向けられず、神から拒否されず、永遠の死に値する罪に裁かれませんでした。
それでは何故、イエスが「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」と教えたにもかかわらず、一番弟子のペトロが「イエスを知らない」と人々の前で3度も言ったという否定的な出来事がわざわざ聖書に記されているのか?ペトロがイエスを拒否するこの出来事は、福音が高く評価されるためには別に書かなくても良いと思う人がいるかも知れませんが、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書の全てに記されているので、著者は明らかにこの出来事を意図して書いている、敢えて書いているということが分かります。
それはこの出来事が福音に欠かすことのできない本質的な要素だからです。本質的な要素というのは、人間の罪を明らかにするということです。なぜなら罪が明らかにされなければ罪の赦しはないからです。福音を宣教するというのは、すなわち罪の赦しを証しするということです。そして罪の赦しを証しするのであれば、具体的にどのような罪が神から赦されたのかということを公にしなくてはなりません。そうでなければ罪の赦し自体が言葉だけで無内容なものとなり、空しくなってしまうからです。だからペトロにとって福音を宣教する際、自分がイエスを3度拒否したという出来事に触れることは、つまり自分の罪を告白することであり、自分の実存を公にすることであり、まさに罪の赦しを証しすることであり、避けて通ることはできないのです。だから四福音書全てにペトロがイエスを拒否する出来事が書き記されているのです。
そして、自分の罪を告白し、自分の実存を公にし、罪の赦しを証しするということは、ペトロに限らず、福音を宣教する者は全て同じです。パウロも同様です。彼は生粋のユダヤ人で、ダマスコで悔い改める前、つまり回心する前、福音を信じてキリスト教信者になる前は、熱心なユダヤ教信者であり、最も厳格な派であるファリサイ派の一員としてユダヤ教の正統信仰を守るためにキリスト教信者を徹底的に迫害する側でした。パウロのキリスト教信者に対する迫害がいかに苛烈を極めたかは、彼が回心してキリスト教信者になった後「サウロ(=パウロのユダヤ名)はエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」(使徒言行録9章26節)と記されていることから分かります。パウロは福音を宣教する際、自分が過去にキリスト教徒を迫害した出来事に触れ、自分の罪を告白し、自分の実存を公にしています。聖書に次のように書かれている通りです。
「パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々(=エルサレムのユダヤ人群衆)はますます静かになった。パウロは言った。『わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都(=エルサレム)で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道(=キリスト教)を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。』」(使徒言行録22章2-5節)
「実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒瀆するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」(使徒言行録26章9-11節)
「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15章9-10節)
「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」(テモテへの手紙Ⅰ1章15-17節)
ここから分かるようにパウロにとっても福音を宣教する際、自分が過去にキリスト教信者を強烈に迫害したという出来事に触れること、自分の罪を告白すること、自分の実存を公にすることは、まさに罪の赦しを証しすることであり、避けて通ることはできないのです。
そしてペトロやパウロだけでなく、今、福音を宣教している私も同様です。私も福音を宣教する際、自分の過去の出来事に触れること、自分の罪を告白すること、自分の実存を公にすることは、まさに罪の赦しを証しすることであり、避けて通ることはできないのです。だから私は自分のブログ「福音の弁明と立証」を公にしているのです。
このように福音の本質とは罪の赦しであり、同時に人間の罪を明らかにすることです。それは聖書に次のように書いてある通りです。
「わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。」(詩編32編5節)
「神は背く者に言われる。『わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて/わたしはお前を責める。
神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない。
告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に/わたしは神の救いを示そう。』」(詩編50編21-23節)
「パウロは記した。『人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。<あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる>と書いてあるとおりです。しかし、わたしたちの不義が神の正義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、<善が生じるために悪をしよう>とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。』」(ローマの信徒への手紙3章4-19節)
あなたは私に「福音って言うのは子供を怯えさせることを推奨しているって言うことですね」と言いましたが、それはあなた自身が、この、人間の罪を明らかにするという福音の本質に怯えているのだと私は見ています。なぜなら、ペトロも自分の過去の出来事に触れ、自分の罪を告白し、自分の実存を公にし、パウロも自分の過去の出来事に触れ、自分の罪を告白し、自分の実存を公にし、私も自分の過去の出来事に触れ、自分の罪を告白し、自分の実存を公にしたからです。あなたはここで「そしてあなたは?あなたは自分の過去の出来事に触れ、自分の罪を告白し、自分の実存を公にしないのか?」と問われることに怯えているのではないですか?もしそうなのであれば、神への恐怖をあなたが実感したということであり、神への恐怖をあなたが知ったことになるのであなたにとって無制限に善いことです。聖書に次のように書いてある通りです。
「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(ヨハネの手紙Ⅰ1章5-10節)
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(ヨハネによる福音書3章19-20節)
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。━光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。━何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」(エフェソの信徒への手紙5章 8-14節)
「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。
いかに幸いなことか、常に恐れを抱いている人。」(箴言28章13-14節)
「主を恐れることは知恵の初め。」(箴言1章7節)(詩編111編10節)
これまでペトロがイエスを3度拒否した出来事から、福音の本質が罪の赦しであると同時に人間の罪を明らかにするということを見てきましたが、それだけではありません。福音の本質は、罪の告白と罪の赦しという出来事の、時間的に限定された一時性にとどまるものではなく、さらに、その罪の赦しという神の恵みを受けた者が信仰によって生きていく全過程、すなわち聖霊に従って歩んで行く全過程という時間的な継続性も含み、それによって福音が実現されていくということです。このことはパウロも次のように書いている通りです。
「福音には、神の正義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマの信徒への手紙1章17節)
また先に私が、自然の人間、自然の肉体の内には罪があると言及した際、引用したローマの信徒への手紙7章の続きの箇所でパウロは、たとえ自然の人間、自然の肉体の内に罪があるとしても、その人が信仰によって聖霊に従って歩むのであれば、罪に定められることはないと以下のように述べています。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は正義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマの信徒への手紙7章24節-8章11節)
それでは信仰によって生きていく、聖霊に従って歩んで行くとは具体的にどういうことなのか?それは先に引用した、イエスがペトロに「平和があるように」と言った場面の続きに示されています。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(ヨハネによる福音書20章19-23節)
この記述は、信仰によって生きていくとはどういうことなのか、聖霊に従って歩んで行くとはどういうことなのかを示しています。先ずイエスは弟子達に「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言いました。これは弟子達がこの時イエスから派遣された者となる、つまり弟子達が使徒達になるということを意味しています。そしてイエスはペトロをはじめ使徒達に息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言いました。私は以前ブログ「神学の森6」「福音の弁明と立証110,125-138」で、聖霊という言葉は原文で「風」を意味すると詳しく書きましたが、イエスが弟子達に息を吹きかけるという行為はまさに神からの風が弟子達に吹いていること、つまり聖霊が弟子達に送られていることのしるしなのです。そしてイエスは「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と続けています。イエスは福音宣教の際「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(マタイによる福音書9章6節)(マルコによる福音書2章10節)(ルカによる福音書5章24節)と言い、地上で実際に多くの人々の罪を赦しましたが、これはつまり、聖霊が使徒達に送られた正にこの時、イエスの持っている、罪を赦す権威が使徒達に与えられた、その権威の行使が使徒達に委ねられたということを意味するのです。イエスの持つ、罪を赦す権威が使徒達に与えられたということは、この権威が使徒達にだけではなく、サクラメント的には使徒達の後継者である主教達にも与えられ、主教達から司祭達へ与えられたということであり、また主教達や司祭達だけでなく、霊的には福音を信じて洗礼を受けたキリスト教信者全員にも聖霊を通して与えられたということ、すなわちイエスの持っている、罪を赦す権威は、今も、「キリストの体」(エフェソの信徒への手紙1章23節)である教会に与えられているということを意味するのです。
イエスは「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイによる福音書6章14-15節)「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイによる福音書18章35節)と教え、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書15章9,12節)と命じられました。
だからイエスの「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
という言葉の意味は「私はあなた達に罪を赦す権威を委ね、使徒として派遣する。だから聖霊を受けて私の福音宣教活動を引き継ぎなさい。私があなた達の罪を赦したのだから、あなた達も同じように兄弟の罪を赦しなさい。あなた達は私と同じように人間の罪を明らかにし、私と同じようにその罪を赦し続けなさい。そして人間社会に罪が残らないようにしなさい。」ということなのです。これがつまり、信仰によって生きていく、聖霊に従って歩んで行くということの具体的な内容です。つまりイエスと同じように福音を宣教するという行為自体が福音の本質であり、福音宣教者が信仰によって生きていく時、その信仰を通して福音は実現するのです。
またここから、ペトロを福音宣教に駆り立てていたものが神への恐怖であることが分かります━もちろんペトロが人間への恐怖を克服して立ち直り、それまでの臆病な逃亡者から自分の命を捨てる大胆な福音宣教者へと変えられた源泉は何よりも先ず当然、彼がイエスの復活を体験し、彼が復活を確信したことにあるのは疑うまでもありません━。なぜならペトロは3度も「イエスを知らない」と言った自分の罪をイエスに赦されているということを骨身にしみて感じているからです。罪を赦されているペトロにとって、福音を宣教しない、他者の罪を赦さないということは、自分が神から赦されなくなってしまう、自分が神から拒否されてしまうということであり、これが即ち神への恐怖となり、ペトロを福音宣教に駆り立てているのです。だからペトロにとって福音を宣教するということは、悔い改めの行い即ち回心の行いでもあるのです。しかしこの、神から拒否されたくない、神から見捨てられたくないという神への恐怖は同時に、神に受け入れられたい、ずっと神のそばにいたいという神への愛でもあり、ペトロにとって福音を宣教する、他者の罪を赦すということは、自分も神から赦される、自分が神に受け入れられるということであり、ペトロにとって福音宣教はまさに感謝と賛美と喜びに満ち溢れた行いでもあるのです。このように福音を信じるペトロにとって、神への恐怖は神への愛です。
そしてこの神への恐怖はペトロだけでなく、福音を信じて洗礼を受けたキリスト教信者全員に聖霊の賜物として与えられているのです。なぜなら聖書は聖霊について以下のように記しているからです。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ちその上に神の霊ΠΝΕΥΜΑ ΤΟΥ ΘΕΟΥがとどまる。知恵と理解の霊ΠΝΕΥΜΑ ΣΟΦΙΑΣ ΚΑΙ ΣΥΝΕΣΕΩΣ/深慮と勇気の霊ΠΝΕΥΜΑ ΒΟΥΛΗΣ ΚΑΙ ΙΣΧΥΟΣ/知識と畏敬の霊ΠΝΕΥΜΑ ΓΝΩΣΕΩΣ ΚΑΙ ΕΥΣΕΒΕΙΑΣ。彼は神を恐れる霊ΠΝΕΥΜΑ ΦΟΒΟΥ(ΦΟΒΟΣの単数属格形) ΘΕΟΥに満たされる。」(イザヤ書11章1-3節[七十人訳])
この記述から、知恵・理解・深慮・勇気・知識・畏敬・神への恐怖の7つが聖霊の具体的な働きであることが分かります。ミラノ主教であるアンブロシウスは、洗礼後の堅信で、キリスト教信者となった人に、上記の聖書箇所で示された、神への恐怖を含む聖霊の7つの徳が賜物として与えられると次のように言っています。
「そのあとで(=洗礼後)、霊的しるし(=堅信)が与えられる。あなた方は今日、それについて朗読されるのを聞いた。洗礼の後で、まだ、完成が行われなければならない。それは司祭の祈りに答えて、聖霊が注ぎ込まれる時のことである。その時、『知恵と理解の霊spiritus sapientiae et intellectus、深慮と勇気の霊spiritus consilii atque virtutis、知識と畏敬の霊spiritus cognitionis atque pietatis、聖なる恐れの霊spiritus sancti timoris』(イザヤ書11章2-3節)、つまり、聖霊の7つの徳が与えられる。疑いもなく、全ての徳は、聖霊のものである。しかし、前述の徳は、枢要な徳、主要な徳とでも言えるようなものである。実際、畏敬ほど主要なものはない。主を知る知識ほど主要なものはない。勇気ほど主要なものはない。神から来る深慮ほど主要なものはない。神に対する恐れほど主要なものはない。世に対する恐れは一つの弱さであるが、神に対する恐れは一つの大きな力である。あなたはしるしを受ける時、それらの7つの徳を受ける。」(アンブロシウス『サクラメントについて』3巻8-10章)
さてイエスは「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。誰を恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」と言っています。つまり、人間を恐れないで神を恐れることはイエスの命令なのです。そしてイエスの命令に従う者は誰でも、イエスが冒頭で「友人であるあなたがたに言っておく」と話すように、イエスの「友人」となるのです。それは聖書の別の箇所でもイエスが次のように語っている通りです。
「イエスは言われた。『わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。』」(ヨハネによる福音書15章14-15節)
従って「主を恐れることは知恵の初め」なのです。
私は、神への恐怖を知るというこの大きな恵みを、神があなたに与えて下さるように心よりお祈り致します。
あなたは「福音って言うのは子供を怯えさせることを推奨しているって言うことですね」と言いましたが、聖書は預言者エゼキエルを通して、福音宣教者が常に肝に銘じておくべき覚悟や心構えに関する神の命令について以下のように記しています。
「主は言われた。『人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。』」(エゼキエル書2章3-8節)
この箇所で記されている「人の子」というのは文字通りには勿論、神の言葉を伝えるという使命を与えられ神から派遣される預言者エゼキエル自身を指しますが、霊的には、エゼキエルだけでなく、私も含め、福音を伝えるという使命を与えられ神から派遣される福音宣教者一人一人をも意味するのです。そして「反逆の家」というのは霊的には当然、福音に反逆する人達、つまり福音に聞き従わない人達のことを意味します。
そしてこの箇所に出て来る「拒む」という動詞は、七十人訳ギリシア語旧約聖書の原文を見ると「ΠΤΟΕΩ怯えさせる」という動詞が使われています。すなわち「彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」の部分は、七十人訳原文では「ΕΑΝ ΑΡΑ ΑΚΟΥΣΩΣΙΝ Η ΠΤΟΗΘΩΣΙΝ(ΠΤΟΕΩの接続法・不定過去時制・受動態・3人称複数形) ΔΙΟΤΙ ΟΙΚΟΣ ΠΑΡΑΠΙΚΡΑΙΝΩΝ ΕΣΤΙΝ ΚΑΙ ΓΝΩΣΟΝΤΑΙ ΟΤΙ ΠΡΟΦΗΤΗΣ ΕΙ ΣΥ ΜΕΣΩΙ ΑΥΤΩΝ彼らが聞き入れようと、また反逆の家なのだから怯えようとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」と記され、「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。」の部分は、七十人訳原文では「ΚΑΙ ΛΑΛΗΣΕΙΣ ΤΟΥΣ ΛΟΓΟΥΣ ΜΟΥ ΠΡΟΣ ΑΥΤΟΥΣ ΕΑΝ ΑΡΑ ΑΚΟΥΣΩΣΙΝ Η ΠΤΟΗΘΩΣΙΝ(ΠΤΟΕΩの接続法・不定過去時制・受動態・3人称複数形) ΔΙΟΤΙ ΟΙΚΟΣ ΠΑΡΑΠΙΚΡΑΙΝΩΝ ΕΣΤΙΝたとえ彼らが聞き入れようと怯えようと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。」と記されています。従って同じ個所の七十人訳は以下の通りです。
「主は言われた。『人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから怯えようとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。
人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。たとえ彼らが聞き入れようと怯えようと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。
人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。』」(エゼキエル書2章3-8節[七十人訳])
あなたの「福音って言うのは子供を怯えさせることを推奨しているって言うことですね」という問いに対する答えは、上記の聖書箇所に既に示されている通りです。
私はあなたが「反逆の家」、つまり福音に反逆する者、福音に聞き従わない者、神に背く者とならないように、心より神にお祈り致します。
エゼキエル書に記されたこの箇所は確かに、神の人間に対する厳しさが感じられますが、実はその厳しさは神の人間に対する測り知れないほど深い愛に根差しているのです。それは同じエゼキエル書に以下のように記されている通りです。
「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。わたしが悪人に向かって、<悪人よ、お前は必ず死なねばならない>と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。<我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか>と。彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。』」(エゼキエル書33章7-11節)
私に「一般的な日本人の常識」に沿った答えを求めているあなたには、このように私が「一般的な日本人の常識」に沿わず、聖書的根拠に基づいて回答した事は、さぞかしご不満であろうことは重々承知しております。
しかし私はあなたとは異なり、「一般的な日本人の常識」教というような宗教の信者になるつもりは毛頭ありません。それは偶像礼拝だからです。つまり、「一般的な日本人の常識」などというような極めて曖昧で、かつ日本固有のムラ社会と日本人の思想・精神に深く根を下ろしている村人根性を象徴するような前近代的で非普遍的な、しかも時代や状況によって内容がすぐにコロコロ変わる一貫性のない無責任なご都合主義の、不確実で信頼の置けないものに盲目的に隷属するつもりは全くないということです。なぜなら私は、空虚な偶像ではなく、絶対確実かつ永遠不変のものに隷属する者であり、プロフィールに書いてある通り、キリスト・イエスの奴隷であり、福音を信じる者だからです。だからあなたと私とではお互いに信仰・思想・立場が全く異なるということを予めご了承下さい。
聖書に以下のように記されています。
「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって正義に至るか、どちらかなのです。」(ローマの信徒への手紙6章16節)
私はあなたが、偶像を礼拝する罪の奴隷ではなく、福音を信じる神の奴隷となることを心よりお祈り致します。
[2020/4/25]

昇天日を覚えて

全能の神よ、あなたの愛された御子イエス・キリストの昇天のゆえに感謝します。主イエス・キリストは尊い復活の後、四十日にわたって明らかに使徒たちに現れ、私達のために住まいを備えるため、その目の前で天に上げられました。これは、私達を主がおられる所に昇らせ、共に天の栄光の座に着かせてくださるためです。どうか私達をみなしごとせず、聖霊を降して強めてください。そして救い主が先立って行かれたところに昇らせ、主と共に天の栄光の座に着かせてくださいますように、天に昇られた王なるキリストによって。アーメン
[2020/5/21]

ペンテコステ(ΠΕΝΤΗΚΟΣΤΗ=第五十)おめでとうございます!

聖霊降臨日を覚えて

全能の神よ、御子の復活から五十日目の今日、あなたは、約束された聖霊の降臨によって、全ての民族、国民に永遠の命の道を開かれました。私達は聖霊によって、闇と惑いの中から明らかな光に導かれ、父とその御子イエス・キリストをまことに知ることができます。どうか真理の霊である聖霊があらゆる真理に私達を導き、イエス・キリストを主と告白し、神のみ言葉とみ業を宣べ伝える恵みをますます与えてくださいますように、また福音の宣教によって、この聖霊がますます世界に注がれ、地の果てにまで広がりますように、聖霊の一致の内に父と一体であり、世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
[2020/5/31]

筑波大学附属駒場中学校・高等学校 生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
おはようございます。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2020/9/18]

本日15時43分頃いつものように駒場野公園近辺でチラシを配布していたら、ある筑駒生が私に「『右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ』という言葉を信じているんですよね?もし今ここで私があなたの右頬を殴ったなら、あなたは左頬を差し出すということですか?もちろん本当に殴ったら私は傷害罪で警察に捕まってしまいますが…」と質問をしてきた。
流石は筑駒生、聖書の内容をよく知っているなと感心しました。
この質問に対して私は「『悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。』(マタイによる福音書5章39節)というのはイエスの言葉で、イエスが教えたことです。イエスは自分が言ったことや教えたことを必ず実行する人であり、この言葉はイエスが十字架刑の際、自分の顔を殴られたのに悪人に抵抗しなかったことから、イエスにおいて真に実現したものです。だから私はこの言葉を、今ここでもし君に右頬を殴られたら必要な防御を取らないというような瑣末な意味ではなく、もっと究極的な意味で、つまりこうしてチラシ配布をしていて逮捕されるならば、それに抵抗しないという意味で受け取っています。」と答えた。
イエスは福音宣教活動をやめれば逮捕されることはなかったし、エルサレムに行かなければ十字架刑に処されることもなかった。しかし彼はそれを知った上で、福音宣教活動をやめることはなかったし、エルサレムに行った。つまり保身の道ではなく、受難の道を選んだということである。イエスが保身の道を選べば間違いなく人間社会の王や支配者となり法律や社会システムなどを用いて人々を意のままに管理・統制することができたはずだ。しかし彼は敢えてそれを選ばなかった。なぜなら保身の道に救いはなく、受難の道と十字架の死の先にこそ、栄光と復活があり、永遠の命があるからだ。だから私は「悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」というイエスの言葉を、イエスが私に「保身の道ではなく受難の道を選びなさい。私と同じように。」と教えているのだと受け取っている。
「悪人」というのは福音の反対者達である。「右の頬を打たれる」ことは何も、拳で殴られたり平手で打たれたり物理的に攻撃されることだけではない。逮捕や監禁などの物理的強制力を行使されることも含まれる。私にとって右の頬が女子中学生のカバンにカードを入れることであるならば、左の頬は福音宣教のためにチラシを配布することである。私はこれからも左の頬をも向け続ける。
[2020/9/28]

今朝9時55分頃いつものように駒場野公園近辺でチラシを配布していたら、友達と歩きながら「福音教…左頬が何ちゃら…」と言っている筑駒生の声が聞こえてきた。
[2020/9/29]

今朝いつものように駒場野公園近辺でチラシを配布していたら、多くの筑駒生たちが私からチラシを受け取ってくれた。9時56分頃に2人の筑駒生が、9時59分頃に1人の筑駒生が私に「おはようございます!」と挨拶をしてくれた。
とても嬉しかったです!
[2020/9/29]

筑波大学附属駒場中学校・高等学校 生徒のみなさん

こんにちは。
本日をもちまして、いつもの場所で行っている福音宣教のためのチラシ配布を終了します。
短い間でしたが本当にどうもありがとうございました。
君達は、私が強制したり追従したりせず、平和的に安全にチラシ配布を行っている事、私が君達の自由意志と自己決定権を決して侵害しなかった事の証人です。
君達との出会いを与えて下さった主なる神に感謝します。
[2020/9/29]

恵泉女学園中学・高等学校 生徒のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2020/10/1]

経堂小学校 児童のみなさん

主の平和が君達にありますように。
はじめまして。私は福音宣教者・木田啓介です。君達に福音を告げ知らせるため、チラシ配布を行っています。どうぞ宜しくお願いします。
私からチラシを受け取るか否か、私の発言が真実か虚偽か、私が頭のおかしな人であるか否か、私と関わるか否か、神の福音を信じるか否かについては、警察が判断し決定することでも、学校が判断し決定することでも、保護者が判断し決定することでもありません。
他ならぬ君達自身が自由に判断し決定することです。なぜなら君達は本質的には、警察の奴隷でもなければ、学校の奴隷でもなく、保護者の所有物でもないからです。もし君達以外の誰かが、指導と称して強制力をもって私からのチラシ受け取りを禁止したり、私を頭のおかしな人と決めつけて君達の自由な判断を妨害して自分達の一方的判断を強制するならば、それは君達の自由を、つまり君達にある自由意志と自己決定権を侵害する行為であり、看過できない越権行為であると言わざるを得ません。
私は、主なる神の恵みと祝福が君達に豊かにありますように心よりお祈りします。
[2020/10/6]