【神学の森 第8回】
「わたしはある。わたしはあるという者だ」
出エジプト記3章14節
26モーセはホレブ山に来た時、燃えているのに燃え尽きない柴を見つけた。不思議に思って、その柴に近づいてみると、モーセは神と出会う。そこでモーセは神から、エジプトで奴隷状態(福音の弁明と立証107参照)に置かれているイスラエルの民をファラオのもとから導き出して脱出させよという、人間の力では到底不可能な任務を与えられる。
モーセはこの時、神にその名前を質問した。するとその問いに対して神の答えがあった。それが上記の一文である。ここで神はご自分の名前を、あの神聖四文字(福音の弁明と立証56参照)の固有名詞を使って「わたしはיהוהである」と語るのではなく、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と語っている。これは、「יהוה」よりも、神について、はるかに説明的な表現であると言えるだろう。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と神ご自身が語ることによって、あたかもご自分こそが、存在そのものであり、真の存在であると言っているかのようだ。実は神聖四文字の固有名詞「יהוה」も、存在を意味する言葉と密接な関係にあると言われている。ヘブライ語の「~はある」という、存在を意味する動詞は「היה」である。そしてこの箇所「わたしはある」のヘブライ語原文は「אהיה」で、「היה」の未完了1人称単数形である。神聖四文字「יהוה」と、「היה」と「אהיה」とを比べ、よく見ると分かるが、どれも「יה」が共通している。
27私が小学生の頃、友人同士の間で、たまに神の存在が話題になることがあった。「神様は本当にいると思う?」「神様はいるよ。」「神様なんていないよ。」「いや、神様は絶対にいるよ。」「お前、神様なんか信じているの?バカじゃねえの?」というような具合で、結論の出ない堂々巡りの会話である。しかし成長して大人になるにつれ、友人同士の間で神の存在が話題になることは殆ど無くなった。「神がいてもいなくても、立身出世や世俗的栄達などには関係ないし、実生活の役に立つ訳ではない。」「神の存在など考えても無益であり、無意味だ。」「神が本当にいるかどうか考えること自体、時間の無駄であるし、下らない。」「神なんて、いてもいなくても実際どうでもよい。」などと感じるようになるからである。しかし神が存在するか否かは、やはり人間の実存(福音の弁明と立証12参照)にとって非常に重要で本質的な問題である。成長していない子供の方が、人間の実存的・本質的な疑問に対して鋭敏な感覚を持っているようだ。
28私は思う。神の存在は、客観的事実や物的証拠によっては、一部の人々に対して証明することはできても、全ての人々に対して証明することは完全にはできないと。しかし神の存在を信じていない人も、自分自身が生きていること、自分自身が存在していることを信じていない人、疑う人はいないようだ。私は自分自身の存在ほど、不確かで、信用できないものはないと思う。なぜなら、客観的・物理的に見れば、私は誕生する前は存在しなかったから、また私は死んだ後は存在しなくなるからである。これは客観的・物理的に見れば、私に限らず、全ての人間がそうである。だから時間について言えば、私が存在している時間よりも、存在していない時間の方が圧倒的に長い。まして気の遠くなるほど長大な宇宙の時間を考えれば、人間一人が存在している時間など、ほんの一瞬であるし、殆ど存在しないと言っても過言ではない。このように、ある一瞬の時間だけに存在し、殆ど全ての時間に存在しないものについて「存在する」という言葉を使うのは果たして適切だろうか?私は、全ての時間に存在するもの、存在しない時間が全く無いものについてこそ、「存在する」という言葉を使うにふさわしいと考える。全ての時間に存在するもの、存在しない時間が全く無いもの、これこそが神である。
29神の存在について聖書は次のように語っている。
「神はいにしえからいまし/変わることはない。」(詩編55編20節)
ここから、神は遠い過去から存在するということが分かる。また別の箇所では、
「私の神よ、あなたの歳月は代々に続くのです。
かつてあなたは大地の基を据え/御手をもって天を造られました。
それらが滅びることはあるでしょう。/しかし、あなたは永らえられます。
すべては衣のように朽ち果てます。/着る物のようにあなたが取り替えられると/すべては替えられてしまいます。
しかし、あなたが変わることはありません。/あなたの歳月は終わることがありません。」(詩編102編25-28節)
とあり、神は遠い過去から存在するだけでなく、たとえ世界や万物が消滅しても、神は永遠に存在し続けるということが分かる。また別の箇所では、
「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(ヨハネの黙示録1章8節)
「イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。/わたしは初めであり、終わりである。」(イザヤ書44章6節)
「天使は私に言った。『預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分のしもべ達に示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。』」(ヨハネの黙示録22章6,12節)
とあり、神は「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」である。「今おられ」は現在、「かつておられ」は過去、「やがて来られる」は未来をそれぞれ意味していることから、神は過去・現在・未来の全ての時間に亘って存在する方だということが分かる。
30また神は「アルファであり、オメガである」方である。アルファ「Α」とオメガ「Ω」は、聖書原典の言語であるギリシア語のアルファベット全24文字「ΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩ」のそれぞれ最初と最後の文字である。だから「アルファであり、オメガである」というのは、「初めであり、終わりである」と同じ意味だろう。しかしそれだけではなく、最初の文字と最後の文字ということで、アルファベットの文字全てを、すなわち言語が表現し得ること全てをも意味しているのではないだろうか。つまり「アルファであり、オメガである」という表現は、神は全てを知り尽くし、全てが可能である方であり、全知全能な方であることをも意味しているのではないだろうか。
また神は「初めであり、終わりである」方である。このことから神は、時間の開始であり、時間の終結であるということが分かる。それだけではなく神にとっては、時間の開始と時間の終結は同時であるということも分かる。私達人間にとっては、時間の開始と時間の終結は同時ではあり得ない。人間にとっては、時間は必ず、目前の未来が現在に迎え入れられ、過去へと過ぎ去ることによってしか知覚され得ないからである。しかし神は過去・現在・未来の全ての時間に亘って存在する方であるので、時間の開始と時間の終結は同時なのである。私達人間は現在の瞬間にしか存在しないから、人間にとって時間は未来から現在を通って過去へと過ぎ去るしかない。しかし神は過去・現在・未来と全ての時間に亘って存在する方であるから、神にとって時間は決して過ぎ去らない。過去も現在も未来も全て同時であり、時間の開始と時間の終結は同時なのである。神は時間を支配している方だということが分かる。また「初めであり、終わりである」というのは、時間についてだけではなく、空間の開始と空間の終結、宇宙の開始と宇宙の終結、世界の開始と世界の終結、歴史の開始と歴史の終結についても意味していると解釈できる。
31聖書は、上述したように、時間的存在としての神の存在を語るだけではなく、次のように空間的存在としての神の存在をも語る。
「天をも地をも、わたしは満たしているではないかと主は言われる。」(エレミヤ書23章24節)
このように、神は「天をも地をも満たしている」方である。「天」と「地」という言葉で、全ての場所を意味している。つまり神は全ての場所に存在し、空間的に神が存在しない所は何一つないということが分かる。また別の箇所では、
「主よ、どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。/どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも/あなたはそこにもいまし
御手をもって私を導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(詩編139編7-10節)
とあり、この箇所からも、神は全ての場所に存在し、空間的に神が存在しない所は何一つないということが示される。32ここで「あなた」と呼びかけられているのは、言うまでもなく主である。「あなたの霊」というのは主の霊のことである。私は以前に詳しく書いたが(福音の弁明と立証110,125-138参照)、「神は霊である」(ヨハネによる福音書4章24節)から、「あなたの霊」というのは神であり聖霊のことである。神と聖霊とは一つの存在である。だから聖霊である神は、空間的に全ての場所に存在するということが分かる。しかし神が、物質的存在として、何らかの原子の集合体として、つまり目に見えるものとして、空間的に全ての場所に存在すると考えてはならない。神は霊であるから、物質的存在ではなく、目に見えない霊として、霊的存在として、空間的に全ての場所に確かに存在するのである。だから神は「陰府(よみ)」にも存在する。「陰府」というのは、聖書の原典ではギリシア語「ΑΙΔΗΣ(アディス)」、ヘブライ語「שאול(シェオール)」という言葉で、物理的・肉体的に死んだ人間が、神の裁判を受けるために待機している場所のことであり、来たるべき神の裁判(福音の弁明と立証54-82参照)を待つ死者の世界のことである。陰府は目に見えない場所・世界であるが、神は霊であるから陰府にも存在するのである。
33またここで「御顔」・「御手」と記されている言葉は、原典を直訳すれば、それぞれ「あなたの顔」・「あなたの手」である。しかしこの記述から、神が人間と同じような物質的・肉体的な顔と手を持っていると考えてはならない。もし神が物質的・肉体的な顔と手を持っているのであれば、それは必ず滅び去らなければならないし、空間的に全ての場所に存在するということはあり得ない。だから「あなたの顔」・「あなたの手」というのは、物質的・肉体的なものではなく、霊的なものである。それでは「あなたの顔」・「あなたの手」とは一体何か。なぜ聖書は、霊的存在である神について、物質的存在である人間の身体に関する表現を敢えてするのだろうか。34私は、「あなたの顔」という表現で、神にも人間と同じように喜怒哀楽や好悪の感情があるということを示しているのだと考える。顔は感情や心の窓である。私達は人間同士の関係の中で、その人の顔の表情から、その人が喜んでいるのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、楽しんでいるのか、自分に対して好意を持っているのか、嫌悪感を持っているのか、その人の感情や心を知ることができる。実際、神に喜怒哀楽や好悪の感情があることについて聖書は次のように語っている。
「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(創世記6章5節)
「しかし、ノアは主の好意を得た。」(創世記6章8節)
「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト記20章5-6節)
「主はモーセに言われた。『わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼等に対して燃え上がっている。わたしは彼等を滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。』モーセは主なる神をなだめて言った。『主よ、どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。』主は御自分の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。」(出エジプト記32章9-12,14節)
「主はモーセに言われた。『わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだ』」(出エジプト記33章17節)
「主はソロモンのこの願いをお喜びになった。神はこう言われた。『あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。』」(列王記上3章10-11節)
「主は御自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。」(歴代誌下36章15-16節)
35また「あなたの手」という表現で、神は人間と同じように仕事や作業をして働かれているということを示しているのだと私は考える。私達人間は生活のために働く時、主に手を使う。手を使わなければ、殆どの仕事や作業はできないだろう。聖書には、神が天地万物を創造し、人間を創造し、男性と女性に創造したこと(創世記1章)や、神が結婚を創造したこと(創世記2章)が書かれている。また神が洪水を起こして、神と共に歩む人、神に従うノアを救い、堕落と不法の中にいる人、神に逆らう人を全て滅ぼしたこと(創世記6-8章)、神が海の水を分け、元に戻すことによって、神に従うモーセとイスラエルの民を救い、神に逆らう頑迷なファラオとその軍勢を一人残らず滅ぼしたこと(出エジプト記14章)や、神が預言者エリヤと預言者エリシャを通して、偶像バアルに仕えるアハブ王・王女イゼベル・アハブ王家と偶像バアルの預言者・祭司達を、すなわち神に逆らう偶像礼拝者達(福音の弁明と立証55,151,158参照)を滅ぼしたこと(列王記上18-19,21章)(列王記下9-10章)が書かれている。このことから、創造すること、人間を裁くこと、つまり、神に従う人間を救い、神に逆らう人間を滅ぼすことが神の働きであり、神の仕事や作業であると言える。聖書には次のような言葉がある。
「光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。/わたしが主、これらのことをするものである。」(イザヤ書45章7節)
36神は霊であるから物質的・肉体的存在ではない。このように言うと、神は、目に見える物質的世界や肉体的存在である人間とはかけ離れた全く関係のない存在、超然とした存在、冷淡な存在であると感じる人がいるかも知れない。しかしそうではない。主は「熱情の神」(出エジプト記20章5節)である。「あなたの顔」「あなたの手」という表現で、霊的存在である神が、目に見える物質的世界を創造し、現在も積極的に手入れをなさっている方であり、とりわけ肉体的存在である私達人間に強い関心を持ち、人間に対して喜怒哀楽の感情があり、好悪の感情に従って人間を救ったり人間を滅ぼしたり、常に人間に対して働きかける方であるということが分かる。実際、神はモーセを通して私達人間に対して次のように語っているのである。
「見よ、わたしは今日、あなた達の前に祝福と呪いを置く。あなた達は、今日、わたしが命じるあなた達の神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなた達の神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなた達とは無縁であった他の神々に従う(=偶像礼拝)ならば、呪いを受ける。」(申命記11章26-28節)
「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じる通り、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕える(=偶像礼拝)ならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなた達は必ず滅びる。」(申命記30章15-18節)
37人間は存在すると言っても、「○年○月○日○時に」「○○という場所に」存在するというように、必ず条件づけられている。無条件に存在するということはあり得ない。しかし神の存在は時間的にも空間的にも制約されない(福音の弁明と立証163参照)。神は無条件に存在するのである。神こそ真の存在であり、存在そのものである。まさに「わたしはある。わたしはあるという者」なのである。神に比べれば私達人間は存在しているようで実は存在しない。不確実な存在、偽りの存在である。
しかしこのように、条件づけられた存在、存在しているようで存在しない人間にも、今や、無条件に存在する道が開かれ、示されているのである。その道というのは、神と共に歩む道、復活と永遠の命にあずかる道である。38主イエスは次のように語っている。
「イエスは言われた。『死者が復活することは、モーセも〈柴〉の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。全ての人は神によって生きているからである。』」(ルカによる福音書20章37-38節)
この言葉から、主イエスが復活をどのように理解していたかが読み取れる。
〈柴〉の箇所というのは先に私達が見た、出エジプト記3-4章に記された、モーセが燃え尽きない柴に近づいて神と出会う場面である。そこには次のように記されている。
「神は言った。『私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』」(出エジプト記3章6節)
ここでは神が「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」と語られているが、主イエスはこれについて「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と語る。つまり、アブラハム、イサク、ヤコブは死んだ者ではなく、生きている者であると断言するのである。客観的・物理的に見れば、すでにアブラハム、イサク、ヤコブは死んでしまっているにもかかわらず。39そして主イエスは「死者が復活することは」と語り始めていることから、アブラハム、イサク、ヤコブは復活していると言っているのである。アブラハムもイサクもヤコブもイスラエルの民の父祖・族長であって、信仰の模範者である。因みにイスラエル(福音の弁明と立証148参照)というのはヤコブの別名(創世記32章29節,35章10節)でもある。創世記に詳しく記されているが、彼等は神を信じたことで、神に正義であると認められ、神に知られ、生涯を通じて神を呼び求めながら、信仰によって神との関係を築きながら、神と共に歩んだ人達である。復活しているというのは、彼等が信仰によって、肉体的な命・物理的な命から、実存の命・永遠の命へと移され、彼等の存在は神の存在と一つになっているということ、彼等は条件づけられた存在から無条件の存在へと移されているということなのである。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表現は、このことを意味している。だから彼等は客観的・物理的に見れば死んでいても、復活しており、神と共に生きており、神と共に存在しているのである。40そして主イエスは復活にあずかることについて、アブラハム、イサク、ヤコブだけに限定していない。最後に「全ての人は神によって生きている」と語ることによって、復活と永遠の命にあずかる道、神と共に歩む道、無条件に存在する道は、全ての人に開かれていると言っているのである。聖書の別の箇所に次のような記述がある。
「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、実際、神は私達一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんの内のある詩人達も、〈我らは神の中に生き、動き、存在する〉〈我らもその子孫である〉と、言っている通りです。私達は神の子孫なのです』」(使徒言行録17章22,27-29節)
この記述から、使徒聖パウロも、全ての人は神によって生きていること、復活と永遠の命にあずかる道、神と共に生きる道、無条件に存在する道は全ての人に開かれていると言っていることが分かる。また彼は別の箇所で、
「神は、私達を怒りに定められたのではなく、私達の主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、私達のために死なれましたが、それは、私達が、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章9-10節)
と語り、神が存在していることを信じ、十字架につけられたイエスを主と信じる人は全て、神の怒りを受けて滅ぼされるように定められたのではなく、復活と永遠の命にあずかり、神と共に生き、無条件に存在するように定められたと言明している。
41また聖書の別の箇所には次のような記述がある。
「私は主をたたえます。/主は私の思いを励まし/私の心を夜ごと諭してくださいます。
私は絶えず主に相対しています。/主は右にいまし/私は揺らぐことがありません。
私の心は喜び、魂は躍ります。/体は安心して憩います。
あなたは私の魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えて下さいます。/私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びを頂きます。」(詩編16編7-10節)
この記述から、復活と永遠の命にあずかるためには「絶えず主に相対」し続けなければならないということが分かる。つまり自分の実存としっかり向き合い続け、神に対する信仰を持ち続け、神を呼び求め続けること、神との関係を築き続けることが大切であるということである。
また聖書の別の箇所には次のような記述がある。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者達に報いて下さる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ人への手紙11章6節)
この記述から、信仰の大切さが分かる。信仰がなければ神に喜ばれることはできない、つまり信仰がなければ神の怒りを受けるように定められ、神に滅ぼされるということである。信仰がなければ、神とは無関係となり、神の存在と一つとなることはできず、神の存在から切り離されてしまい、条件づけられた存在のままであり、実存の死と永遠の死に定められてしまうということである。信仰がなければ、復活と永遠の命にあずかる道、神と共に生きる道、無条件に存在する道は閉ざされてしまうということである。
42また聖書の別の箇所では
「神の内にいつもいるという人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」(ヨハネの手紙Ⅰ2章6節)
とあり、神と共に生きる道、復活と永遠の命にあずかる道、無条件に存在する道を歩むということは、主イエス・キリストの生き方を模範として歩むことであると教えている。私は以前に詳しく書いたが(福音の弁明と立証108-112参照)、主イエス・キリストこそが神の似姿であり、神が人間を創造した目的である。神は私達人間をこの方に向けて創造したのである。
43このように、神が存在するか存在しないかは、実に、人間が本当に存在するか存在しないか、人間が本当に生きるか死ぬかの、実存に関わる本質的で重要な問題である。神が存在しないのであれば、神を呼び求めないのであれば、神との関係を築き上げないのであれば、信仰がなければ、人間は存在しない、全く存在しないのである。
主教聖アウグスティヌスも次のように語っている。
「私の神よ、あなたが私の内におられないなら、私は存在しない――全く存在しないであろう。それよりもむしろ、私は、万物があなたから、あなたによって、あなたの内に存在するのでないなら、存在しないのではなかろうか。まさにそうである。主よ、まさにそうである。」(アウグスティヌス『告白』1巻2章)
44だから私は神と共に、次の聖書の言葉をもって、全ての人に対して、信仰を持ち、神を呼び求め、神との関係を築き上げることを勧めるのである。
「主を尋ね求めよ、見出だしうるときに/呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。/私達の神に立ち帰るならば豊かに赦して下さる。」(イザヤ書55章6-7節)
そして特に若い人に対してこそ、私は、信仰を持ち、神を呼び求め、神との関係を築き上げることを強く勧めるのである。それは神も、次の聖書の言葉を通して示している。
「あなたの青春の日々にこそ、あなたの創造主に心を留めよ。/苦しみの日々が来ないうちに。/『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。」(コヘレトの言葉12章1節)
45誰であれ、信仰を持ち、神を呼び求めるならば、どんな絶望にあっても必ず、神はその人にご自身を現わし、その人と共にいて下さるのである。それは次のように書いてある通りである。
「しかしあなた達は、その所(偶像礼拝が、もはや切り離し難く日常生活に深く浸透してしまっている場所)からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう(福音の弁明と立証3,12,29,36,85参照)。」(申命記4章29節)
また主イエスも次のように、全ての人に向けて語っている。
「私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなた方の中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなた方は悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる。」(ルカによる福音書11章9-13節)
だから父と子と聖霊である神は確かに存在するのである。しかし神の存在をかたくなに否定する人、信仰を持たず、神を呼び求めず、神との関係を築き上げようとしない人は、神が存在しないのではなく、実はその人自身が存在しないのである(福音の弁明と立証54参照)。(次回に続く)