神学の森

【神学の森 第1回】
ここでは聖書の中から私が好きな章句を選び、それについて感じた事や考えた事を自由に書きたいと思います。興味があれば是非この森に立ち寄って散策して行って下さい。

「初めに、神は天地を創造された」
創世記1章1節

1聖書を開くと一番最初に記されている言葉である。聖書は多くの書物から成り立っているが、一番最初に配置されているのが創世記という書物で、その冒頭を飾るのが上記に挙げた一文である。
創世記は一見すると物語のようであり、誰にでも分かる平易で単純な文章で書かれている。しかしその意味するところは深遠で、現在に至るまで人間はその意味を解明し尽くしたとは言えない。
「人間はなぜ存在するのか? 人間が存在する意味とは何か?」という根源的・究極的な問いについて、現在私達が知る人文科学・自然科学・社会科学などのあらゆる学問は、考える事を最初から避けるか、或いは考えたとしても答える事ができない。しかし創世記はこの問いの秘密を解く鍵を私達人間に与え続けてくれるのである(福音の弁明と立証112参照)。(次回に続く)
[2016/5/5]

【神学の森 第2回】

「初めに、神は天地を創造された。」
創世記1章1節

2(前回の続き)「初めに、神は天地を創造された。」単純明快で非常に簡単に聞こえる。これを聞く人の多くは、特に何も注意を払うことなく素通りしてしまうだろう。
私も子供の頃はこれを聞いて、「神様は一番最初に青い大空と広い大地をお造りになったんだな」と漠然とイメージするだけだった。
勿論このように素直に聖書に書かれている言葉を受け止める事は一方でとても大切だと思う。しかし他方、一面では脆さや危うさをも持っていると言える。例えば私などは多少物心がついてくると「世界の始まりは青い大空と広い大地からだと書いてあるけど、一番最初はビッグバンがあって、そこから世界は始まったんだ」とか「天は神様が住んでおられる場所だと言うが、そんな場所ないよ。天の先には宇宙が広がっているだけだ」とか思うようになり、いささか懐疑的になって、俄に聖書に書かれている言葉が信じられなくなってしまった経験がある。
勿論今は、聖書に書かれている言葉は紛れもなく神の言葉であると豪も疑わず、真理であると確信しているが(福音の弁明と立証131-133参照)。

3「初めに、神は天地を創造された。」この文章が表現している内容は、そんな浅薄なものではない。
この第1節に続く、次の第6~8節を読んで頂きたい。
「(6)神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』
(7)神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
(8)神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。」(創世記1章6-8節)

注意深く読んでいくと奇妙なことに気がつかないだろうか?
すなわち、この箇所で神は大空を造り、それを天と呼んだと記されているが、神はすでに第1節で天を創造したはずではなかったかと。
神はを2回創造したのだろうか?
同じものが2度も創造されたということだろうか?
それとも第1節の天と第8節の天は同じ言葉が使われているが別のものを指しているのだろうか?
ここである人は言うかも知れない。「第8節では確かに天という1つの単語が使われているが、第1節では天地という1つの単語が使われている。両者は同じ言葉ではない」と。
確かに日本語では第1節と第8節は天地と天という別の単語で訳出されている。しかし七十人訳聖書という古典ギリシア語で書かれた旧約聖書の原文を見ると、「エン アルヒ(初めに) エピイセン(創造した) オ テオス(神は) トン ウラノン(天を) ケ(そして) ティン ギン(地を)」となっており、天地という1つの単語ではなく、天という名詞と地という名詞の2つの単語が使われ、それらが接続詞て結ばれている。そして第8節の天も七十人訳聖書原文では「ウラノン」なので、第1節と第8節の天は同じ言葉である。
ただし第1節の天には定冠詞がついているのに対し、第8節の天には定冠詞がついていない。(次回に続く)
[2016/5/17]

【神学の森 第3回】

「初めに、神は天地を創造された。」
創世記1章1節

「(6)神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』
(7)神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
(8)神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。」
創世記1章6-8節

4(前回の続き)文脈から判断すると第1節の天は神が直接創造したものであり、第8節の天は神が先ず大空を創造し、それを天と呼ばれたと書かれていることから、両者は同じ言葉が使われているが同じものではなく別のものを指していると考えられる。因みに第1節の「創造された」と第8節の「造り」は日本語では異なる言葉が使われているが七十人訳では両方とも「エピイセン」となっており、「ピエオ(創造する)」という同じ動詞が使われている。

5異なる天が2つ存在するというのは、私達の常識からは考えられないことである。しかし聖書の他の箇所には次のような言葉がある。
「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。」(列王記上8章27節)
他にも、
「天の天よ 天の上にある水よ 主を賛美せよ。」(詩編148編4節)
ここから分かるように、驚くべきことに聖書は天の他に、天の天というもう一つの天を想定している。
更に言えば主の祈り。「天におられるわたしたちの父よ。み名が聖とされますように。…」というあの祈りである。あまりにも有名なのでキリスト者でない方も知っていらっしゃる方が多いと思う。であるイエスが弟子達に直々に教えた祈りなので主の祈りと呼ばれる。この主の祈りは聖書のマタイによる福音書6章9~13節にあり、原文は古典ギリシア語で書かれている。実は、日本語では訳出されていないが「天におられるわたしたちの父よ。」の「天」は複数形である。すなわち原文では「パテル(父よ) イモン(私達の) オ エン ティス ウラニス(諸々の天におられる)」となっている。天が単数形ならば「オ エン ティス ウラニス」が「オ エン ト ウラノ」とならねばならない。
このように聖書は天が複数存在する事を私達に教えてくれている。

第8節の天は、大空が天と呼ばれている事から私達が普段目にする天だと解釈できる。
それでは第1節の天とは一体何を指すのだろうか?
天の天とは一体何を意味するのだろうか?
非常に深い謎である。

6私はこう考える。すなわち第1節の天は、肉眼で見る事のできる物質的な天ではなく、肉眼で見る事のできない霊的な天であると。

ここで私は「霊的」という言葉を使ったが多くの方にとっては聞き慣れない言葉だと思う。日本語で「霊」と言うと、すぐに「幽霊」とか「心霊スポット」のような「霊」を連想してしまうが、私はそのような意味では使っていない。私が言う「」と「霊的」という言葉は聖書の原文に書かれた古典ギリシア語の「プネヴマ(霊)」と「プネヴマティコス(霊的)」であり、「プネヴマ」の元の意味は「風」である。「幽霊」とか「心霊スポット」の霊とは大分意味が違う事がお分かり頂けると思う。厳密に言えば「プネヴマ」は「幽霊」と意味が重なる部分が少しはあるが、それでも重ならない部分の方が圧倒的に大きい。この「霊」と「霊的」という言葉については「聖霊(アギオン プネヴマ)」という言葉と共に、別の機会に、神の助けによって、私の力の及ぶ限り論じたい(福音の弁明と立証110,125-138参照)。キリスト教の信仰の核心は「父・子・聖霊三位一体の神」を信じる事である(福音の弁明と立証110,134-138参照)。
それなので今は「霊的」という言葉は次のように受け取って頂きたい。
肉眼では見えないが神への信仰の目によって初めて見えるもの、神を信じる事によって初めて知覚できるものに関することであると。

7肉眼では見えないものが存在する事については聖書の中で使徒聖パウロが次のように述べている。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章18節)
このように彼は肉眼で見えないものは確かに存在するし、しかもそれは永遠に存在するものだ言っている。それだけではなく彼は肉眼で見えるものは過ぎ去るとも言っている。そうだとすると私達が目にする天も肉眼で見えるものなのだから過ぎ去ると解釈するべきだろう。実際、天が過ぎ去るという事については主イエスも次のように述べているのである。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(ルカによる福音書21章33節)
そしてパウロは先に引用した箇所に続けて言っている。
「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章1節)
彼はここで「天にある永遠の住みか」と言っているが、この住みかは永遠であるので肉眼で見る事のできないものだと解釈すべきである。そしてこの住みかの在りかである天も永遠であり肉眼では見えないものだと解釈すべきだろう。何故ならこの天がもし肉眼で見えるものであるならば、彼が直前に言った「見えるものは過ぎ去る」という自分の言葉と矛盾する事になるし、「天地は滅びる」という主の言葉とも齟齬(そご)が生じるからである。

8肉眼で見える物質的な天が過ぎ去った後に、肉眼で見る事のできない霊的な天が来ることについては、聖書の他の箇所も次のように証言している。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」(ヨハネの黙示録 21章1節)
先に示したパウロの記述を踏まえれば、ここで語られている「最初の天」というものが肉眼で見える物質的な天であり、「新しい天」というものが肉眼で見る事のできない霊的な天であろうことは容易に察しがつく。
9しかし、この聖書箇所について不思議に思う人がいるかも知れない。
新しい天が肉眼で見る事ができないならば何故黙示録の著者であるヨハネは「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」と言っているのか?見えないものを「見た」と言うのはおかしいと。
この疑問についてはヨハネ自身が黙示録の結びの箇所で次のように答えている。
「天使はわたしにこう言った。『これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕(しもべ)たちに示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。』わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。」(ヨハネの黙示録 22章6-8節)
つまりヨハネが「聞き、また見た」ものは、神が天使を通して示したものである。言うまでもなく、神は肉眼で見る事ができない。聖書も次のように言っている。
「いまだかつて、神を見た者はいない。」(ヨハネによる福音書 1章18節)
「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(ヨハネの手紙Ⅰ 1章18節)
しかし肉眼で見る事ができない神も、霊的な目、つまり信仰の目によって見る事ができる。主御自身、
「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイによる福音書 5章8節)
と言っているし、使徒聖パウロも、
「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 2章10節)
「神の霊以外に神のことを知る者はいません。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 2章11節)
と書いている。
「神は霊である。」(ヨハネによる福音書 4章24節)
からである。
つまり黙示録の著者であるヨハネが「見た」と言っているものは肉眼で見える物質的なものではない。そうではなく、信仰の目によって、肉眼では見る事のできない、神に属する霊的なものを「見た」と言っているのである。そのことは彼自身、彼が見たものは「預言者たちの霊感の神、主が示された」と言っている事から明らかである。また、もし彼が見たものが、肉眼で見える物質的なものであるならば、視力のある全ての人々にも示され、見えるはずである。しかし彼は実際「すべての人たちに示された」とは言わずに、「御自分の僕たちに示された」と言っている。つまり彼が見たものは、全ての人々にではなく、神の僕たち、神への信仰の目を持つ人々のみに示されたと言っているのである。このことからも、彼が見たものは物質的なものではなく、霊的なものである事が理解できるのである。

10「初めに、神は天地を創造された。」この第1節に記された天は、「天にある永遠の住みか」の天であり、「最初の天と最初の地」の天ではなく「新しい天と新しい地」の天であり、肉眼で見える物質的な天ではなく肉眼で見る事のできない霊的な天であるというのが、私の解釈である。(次回に続く)
[2016/6/9]

【神学の森 第4回】

「初めに、神は天地を創造された。」
創世記1章1節

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」
ヨハネの黙示録 21章1節

11(前回の続き)しかし、ここで私が第1節の天を、黙示録の「最初の天と最初の地」の天ではなく「新しい天と新しい地」の天であると解釈したことについて、引っ掛かりを感じる人がいるかも知れない。つまり第1節の天は「初めに、神は天地を創造された。」と書かれている通り、「初めに」創造されたものである。だから「新しい天と新しい地」の天ではなく、むしろ「最初の天と最初の地」の天であると解釈した方が理に適っているのではないかと。

確かに「初め」と「最初」は、日本語では密接な関連があるように思われる。しかしギリシア語原文では、「初めに(エン アルヒ)」には名詞アルヒが使われ、「最初の天(オ ガル プロトス ウラノス)と(ケ)最初の地(イ プロティ ギ)」には序数プロトスが使われており、明らかに別の言葉である。
この「初め」と「最初」が原文では違う意味を持つ別の言葉であるということが、私が第1節の天を黙示録の「最初の天と最初の地」の天ではないと解釈する理由の一つである。

12古典ギリシア語の数詞には、英語やドイツ語と同じように基数序数がある。基数は数そのものを表すのに対し、序数は順序や順番を表すものである。すなわち、英語では基数「one(1),two(2),three(3)…」に対して序数「first(第1),second(第2),third(第3)…」、ドイツ語では基数「eins(1),zwei(2),drei(3)…」に対して序数「erst(第1),zweit(第2),dritt(第3)…」であるのと同じように、古典ギリシア語でも基数「イス(1-男性名詞)・ミア(1-女性名詞)・エン(1-中性名詞),デュオ(2),トリス(3-男性&女性名詞)トリア(3-中性名詞)…」に対して序数「プロトス(第1),デフテロス(第2),トリトス(第3)…」となる。プロトスは英語のfirstやドイツ語のerstに相当するものである。だから序数プロトスが使われている「最初の天と最初の地」は「第1の天と第1の地」とも訳せる。

13これに対して「初め」の名詞アルヒは動詞アルホに由来する言葉である。実は、動詞アルホは「支配する」という意味である。驚かれるかも知れない。「支配する」と「初め」、全く関係がないように思われる。「支配する」のどこをどうひねったら「初め」という意味が出てくるのか、首をかしげられる方が多いのではないかと思う。
私達は言語を学ぶ時、日本語でも英語でもドイツ語でも、動詞には能動態と受動態の二つの態があることを知っている。しかし古典ギリシア語の動詞には能動態と受動態の他に、中動態というもう一つの態があり、三つの態が存在する。
能動態は、動詞の動作が、主語から発して、主語以外の他へ及ぶ事を表現し、受動態は、動詞の動作が、主語以外の他から発して、主語へ及ぶ事を表現する。
中動態というのは、動詞の動作が、主語から発して、何らかの仕方で、主語へ及んだり主語に関わったりする事を表現するものである。しかしこの「何らかの仕方」というのは動詞ごとに多様で異なるので、中動態の正確な意味は動詞ごとにいちいち辞書を確かめなければならない。
動詞アルホの三つの態の意味を示すと次のようになる。すなわち現在時制では、能動態は「アルホ(私は支配する)」、受動態は「アルホメ(私は支配される)」、中動態は「アルホメ(私は始める)」である。受動態と中動態が同形であるので態の区別が分かりにくい。しかし動詞アルホの過去時制の一つであるアオリストも示すと態の区別は明瞭である。すなわち能動態は「イルクサ(私は支配した)」、受動態は「イルフティン(私は支配された)」、中動態は「イルクサミン(私は始めた)」である。
ここまで来ると「支配する」と「初め」には関係があるという事がお分かり頂けるだろう。
「初めに、神は天地を創造された。」この「初め(アルヒ)」には動詞アルホの中動態の意味が反映されているのである。

14もしかすると古典ギリシア語を話していた人々は、「始める」ことを「自分の行為を支配する」ことだと考えていたのではないだろうか?しかし私にはこのように考えるのは、妙に納得できるというか、腑に落ちるのである。というのは私はフルートを演奏するのが好きだが、演奏する際はアタックがとても重要だからである。アタック(attaque)というのはフランス語で、クラシック音楽で使われている言葉だが、音を始める事、音の開始を意味する。良い演奏、優れた演奏をする為には、楽曲中の全ての音を自分の思った通りにコントロールすること、つまり支配することが必要である。音を支配する際、アタックがほぼ全てであると言って過言ではない。何故ならアタックの時に音程、音量、音色などの音のほぼ全ての要素は決定されてしまうからである。アタックが重要であるのはフルートに限らずピアノやヴァイオリンなどの他の楽器も同様である。特にビアノに至ってはアタックこそ全てである。一度打鍵したらフルートやヴァイオリンのようにヴィブラートや音の強弱など、音の途中で表情や変化をつけることは、もはやできないからである。(次回に続く)
[2016/6/30]

【神学の森 第5回】

「初めに、神は天地を創造された。」
創世記1章1節

「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」
創世記 1章5節

15(前回の続き) 「初めに、神は天地を創造された。」この箇所で「初め」という言葉に序数プロトスではなく名詞アルヒが使われているのは何か特別な意味があるのだろうか?(22-23参照)
私がこのような問いを立てると、「それは著者がこの文を書く時に、プロトスではなくアルヒという言葉がたまたま思い浮かんだだけであって特別な意味はないよ。考え過ぎだ。」と言って笑う人がいるかも知れない。しかし私はどうしても、この箇所でプロトスではなくアルヒが使われていることが単なる著者の気まぐれだとは思えないのである。

16実は、創世記冒頭部分にはプロトスに関連して奇妙なことが一つある(18,20参照)。創世記の冒頭部分は、神の創造行為が1章1節から2章4節に亘って記されているが、それは7日という形式に従って表現されている。すなわち1日目の創造行為の終わりには、
「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」(創世記 1章5節)
と書かれ、同じように2日目以降も、
「夕べがあり、朝があった。第二の日である。」(創世記 1章8節)
「夕べがあり、朝があった。第三の日である。」(創世記 1章13節)
「夕べがあり、朝があった。第四の日である。」(創世記 1章19節)
「夕べがあり、朝があった。第五の日である。」(創世記 1章23節)
「夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創世記 1章31節)
と書かれおり、整然とした形式を保っている。しかし7日目だけは例外で、
「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創世記 2章2-3節)
と書かれていて、7日目だけは不思議なことに夕べも朝もない。
17私達が普段考えている「」は、日の出があり、朝・昼・夕方が来て、日没があって夜となる「日」、すなわち地球の自転によって昼と夜とが交替して24時間毎に繰り返し生じる「日」である。しかし創世記冒頭部分の7日の「」は、このように私達が常日頃思い描いているような「日」だと考えてはならない。なぜならば太陽や月は7日の内の4日目に創造されたと解釈できるからである。4日目の記述を見ると、
「神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜とを治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。」(創世記 1章16-19節)
とあり、この箇所の大きな光る物の大きな方が太陽を、大きな光る物の小さな方が月をそれぞれ指すと考えられる。そうだとすると4日目よりも前は太陽も月もないのだから、夕べがあり朝があり日があるというのはおかしい。それだから7日の「日」は、確かに「日」という言葉で表現されてはいるが、私達が日常思い描くような「日」を指すのではなく、別のものを指していると考えるべきである。それは私達が普段考えている「日」が、4日目の記述、
「神は言われた。『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。』」(創世記 1章14節)
の中の「日」として記され、7日とは別に出て来ることからも明らかである。それでは7日の「日」が、私達が考える24時間の物質的な「日」でないとするならば、一体何を意味するのだろうか?
18恐らくそれは霊的な「日」であり、 人間の目が見る「日」ではなく神の目が見る「日」なのだろう。私はもちろん神ではなく人間に過ぎないので、肉なる者であり塵と灰に過ぎないので、7日の「日」が何であるかを完全に知ることはできないし、確定的なことは言えない。しかし1日目から6日目までは夕べがあり朝があったと書かれていることから、何らかの時間的な経過があることを示しているのではないだろうか、そして7日目は夕べも朝もないことから、朝・昼・夜や過去・現在・未来などのあらゆる時間的なものを超越した境地、すなわち永遠を意味しているのではないだろうか。

話しを元に戻そう。私は先に、プロトスに関連して奇妙なことが一つあると言ったが(16参照)、それは1日目から6日目までの形式についてである。(次回に続く)
[2016/9/1]

【神学の森 第6回】

「初めに、神は天地を創造された。」
創世記1章1節

「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」
創世記1章5節

19(前回の続き)私達は1日目から6日目までの創造行為の終わりの記述に、日本語聖書を通して、整然とした形式があるのを見た。
「第一の日」、「第二の日」、「第三の日」、「第四の日」、「第五の日」、「第六の日」。全て序数が使われており、統一されている。
日本語聖書だけでなく、キング・ジェームズ・ヴァージョンという英語聖書も「the first day」、「the second day」、「the third day」、「the fourth day」、「the fifth day」、「the sixth day」と書かれ、ルター訳ドイツ語聖書も「der erste Tag」、「der andere Tag」、「der dritte Tag」、「der vierte Tag」、「der fünfte Tag」、「der sechste Tag」と書かれている。日本語聖書と同様、全て序数である。ドイツ語の「第二の日(der andere Tag)」に序数「zweit(第2)」ではなく、形容詞「ander(他の)」が使われているのを不思議に思う人がいるかも知れない。「ander」は古いドイツ語では序数「第2」の意味も持つ言葉である。
全て序数で統一されていることは、時間的順序を追って行くようで、聖書を読む者にとっては非常に理解し易い。

20ここで多くの方々は、日本語も英語もドイツ語も全て序数が使われているのだから、七十人訳聖書のギリシア語原文も当然、全て序数が使われているに違いないと思われるだろう。ところが実際はそうではないのである。ギリシア語原文では2日目から6日目までは、「イメラ デフテラ(第2の日)」、「イメラ トリティ(第3の日)」、「イメラ テタルティ(第4の日)」、「イメラ ペンプティ(第5の日)」、「イメラ エクティ(第6の日)」とあるように確かに序数が使われている。しかし1日目だけは、大変奇妙なことに、「イメラ ミア(1つの日)」となっており、序数ではなく基数が使われているのである。もし2日目から6日目までと同じように序数を使うのであれば「イメラ プロティ(第1の日)」とならなければならない。
因みにヒエロニムス(345頃-420頃)の訳したヴルガタと呼ばれるラテン語聖書も「dies unus(1つの日)」となっており、ギリシア語原文と同じく1日目に基数が使われていることを付言しておきたい。
なぜ1日目だけ序数ではなく基数が使われているのだろうか?全体の統一と形式の均衡を崩してしまうにもかかわらず、かえって読者が理解しにくくなってしまうにもかかわらずである。

21ある人は「著者はその時たまたま序数ではなく基数が思い浮かんだから、或いは間違って基数を使ってしまったからだ。」と言うかも知れない。またある人は「著者は1の序数だけ知らなかったからだ。」と言うかも知れない。
私はそうは思わない。序数プロトスは創世記の別の箇所で使われているし、創世記の著者が自分の表現に注意を払わなかったり、いい加減な気持ちで書いたりするとは到底考えられないからである。私は著者が1日目に序数ではなく基数を使っているのには、単なる気まぐれや誤りや無知ではなく、必ず何らかの意図や目的があり、積極的な言葉の選択があると考える。
私の考えによれば、第5節の「第一の日」に序数プロトスではなく基数ミアが使われている事と、第1節の「初めに」に序数プロトスではなく名詞アルヒが使われている事は、無関係の切り離された問題では決してない。そうではなく、両者は不可分で密接に関連していて、神の創造行為について私達にある重要なメッセージを伝えているのである。(次回に続く)
[2016/10/13]

【神学の森 第7回】

「初めに、神は天地を創造された。」
創世記1章1節

「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」
創世記 1章5節第1節

22第1節の「初めに」になぜ序数プロトスが使われず、名詞アルヒが使われているのか?(15参照)もしここで序数プロトスを使った場合、それは時間的順番や順序という意味が非常に強くなる。これに対して名詞アルヒは、もちろん時間的順番や順序という意味も少しはあるが、それよりもむしろ、ある動作の始めとか行為の発端という意味合いが強い。名詞アルヒの元来の意味は「支配する(アルホ)」という動詞であることや、クラシック音楽やフルート演奏でアタックの重要性を体験したことを説明したように(14参照)、名詞アルヒが示す動作の始めや行為の発端というのは、その動作や行為の開始時点にとどまるものではなく、中間部や終結部にまで影響を与え続け、関与し、その動作や行為の始めから終わりまで全体を支配するものである。しかし、もしここで序数プロトスを使ったならば、動作や行為に関係するという視点は薄れ、時間的順序の最初部分のみに限定する記述となってしまうだろう。そして名詞アルヒのように動作や行為の中間部や終結部に影響を与えるということも無くなってしまうだろう。「初めに、神は天地を創造された。」ここでの動作や行為というのは、もちろん「創造する(ピエオ)」であり、神の創造行為である。だから第1節の「初めに」によって導き出される記述は、神の創造行為の始めだけに限られたものではなく、むしろその後に続く創造行為全体に影響を及ぼすものであると私は考える。23それではどこまでの記述が創造行為全体に影響を与えているのかと言えば、まさしく序数プロトスではなく基数ミアが使われている第5節の「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」までである。もしこの「第一の日」に序数プロトスを使ってしまえば、「第二の日」以降に記された創造行為とは明らかに切り離されてしまい、単に時間的順序の列挙という意味を示すにとどまってしまうだろう。創世記の著者は、それを避けるために、第1節から第5節までの記述が神の創造行為の全体に関わっていることを私達に伝えるために、序数プロトスを避け、敢えて基数ミアを選んでいるのである。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」(創世記 1章1-5節)
この箇所は神の創造行為全体を支配する重要な基礎である。そのことを、創世記の著者は、第1節の「初めに」に序数プロトスではなく名詞アルヒを使うことによって、第5節の「第一の日」に序数プロトスではなく基数ミアを使うことによって、私達に伝えているのである。24「初めに、神は天地を創造された。」名詞アルヒが動作や行為の開始を意味するので「始めに、神は天地を創造された。」と漢字を変えた方が良いと私は思う。また「支配する」という原語の意味を汲み取って、思い切って説明的に訳すとすれば、「創造行為の支配原理である始めに、神は天地を創造された。」となるだろう。25「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」基数ミアが使われているので、理解し易い方に引きずられることなく、原文に忠実に、「夕べがあり、朝があった。一つの日である。」或いは「夕べがあり、朝があった。一日である。」と訳すべきだと私は思う。(次回に続く)
[2016/11/3]

投稿者: keisukekidafrancis

キリスト・イエスの奴隷。呼ばれた者、派遣された者、選び出された者、神の福音のために。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中