前衛的に生きることを決意する者を鼓舞する、岡本太郎の言葉

「誤解される人の姿は美しい。誤解のカタマリのような人間こそ本当だと思う。」(1)
「人間が純粋であればあるほど、強烈にその実体と異なった様相が他に働く。それが正しいのである。」(2)
「本当に生きる者は当然誤解される。誤解される分量に応じてその人は強く豊かなのだ。誤解の満艦飾となって、誇らかに華やぐべきだ。」(3)

「だれでも、青春の日、人生にはじめてまともにぶつかる瞬間がある。そのとき、ふと浮かびあがってくる異様な映像に戦慄する。それが自分自身の姿であることに驚くのだ。それはいわゆる性格とか、人格とかいうような固定したものではない。いわば自分自身の運命といったらいいだろうか。
自分自身との対面。考えようによっては、きわめて不幸な、意識の瞬間だが。
そのとき人は己れを決意しなければならない。人間誕生の一瞬である。
それからは生涯を通じて、決意した自分に絶望的に賭けるのだ。変節してはならない。精神は以後、不変であり、年をとらない。ひたすら、透明に、みがかれるだけだ。
もちろん貫くには、瞬間、瞬間、待ちうける厖大な障害がある。それはこちらをねじ曲げ、挫折させ、放棄させようとする。だが、そのようなマイナスは、それと徹底的に対決することによって自分を豊かにし、純化し、深める、いわば触媒であるにすぎず、そのたびに己は太く、強くなるのだ。どんなことがあっても、自分がまちがっていたとか、心をいれかえるとか、そういう卑しい変節をすべきではない。一見、謙虚に見えて、それはごま化しであるにすぎないのだ。」(4)

「人生は意義ある悲劇です。それで美しいのです。生甲斐があるのです。」(5)
「美しい生命を欲するなら、美しい死を欲するのです。美しい死はいけにえです。」(6)
「ペシミスティックに哄笑すること、それが芸術の当面のプログラムだ。」(7)

「よく、したり顔で、四十過ぎたら自分の顔に責任をもて、なんて言うやつがいる。いやったらしい表現だ。自分の顔に責任をもっているような顔なんて、考えただけでうす汚い。」(8)

これらは岡本太郎の言葉です。私は彼の絵画や彫刻よりも、彼の著作や思想・哲学に魅かれます。彼はキリスト者ではありませんでしたが、特に彼の芸術論からキリストの十字架が、おぼろげに見えてくるので、時に鳥肌が立つくらい共感したり鼓舞されたりします。

【出典】
(1) (2)岡本太郎『一平 かの子――心に生きる凄い父母』1995年、チクマ秀版社、p.118
(3)岡本太郎『岡本太郎の本<4>わが世界美術史――美の呪力』1999年、みすず書房、pp.173-174
(4)岡本太郎『原色の呪文――現代の芸術精神』2016年、講談社文芸文庫、pp.11-12
(5) (6)岡本太郎『母の手紙――母かの子・父一平への追想』1993年、チクマ秀版社、p.256
(7)岡本太郎『原色の呪文――現代の芸術精神』2016年、講談社文芸文庫、p.48
(8)岡本太郎『美しく怒れ』2011年、角川oneテーマ21、p.18

[2017/3/9]

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