神学の森 第8回

【神学の森 第8回】

「わたしはある。わたしはあるという者だ」
出エジプト記3章14節

26モーセはホレブ山に来た時、燃えているのに燃え尽きない柴を見つけた。不思議に思って、その柴に近づいてみると、モーセは神と出会う。そこでモーセは神から、エジプトで奴隷状態(福音の弁明と立証107参照)に置かれているイスラエルの民をファラオのもとから導き出して脱出させよという、人間の力では到底不可能な任務を与えられる。
モーセはこの時、神にその名前を質問した。するとその問いに対して神の答えがあった。それが上記の一文である。ここで神はご自分の名前を、あの神聖四文字(福音の弁明と立証56参照)の固有名詞を使って「わたしはיהוהである」と語るのではなく、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と語っている。これは、「יהוה」よりも、神について、はるかに説明的な表現であると言えるだろう。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と神ご自身が語ることによって、あたかもご自分こそが、存在そのものであり、真の存在であると言っているかのようだ。実は神聖四文字の固有名詞「יהוה」も、存在を意味する言葉と密接な関係にあると言われている。ヘブライ語の「~はある」という、存在を意味する動詞は「היה」である。そしてこの箇所「わたしはある」のヘブライ語原文は「אהיה」で、「היה」の未完了1人称単数形である。神聖四文字「יהוה」と、「היה」と「אהיה」とを比べ、よく見ると分かるが、どれも「יה」が共通している。

27私が小学生の頃、友人同士の間で、たまに神の存在が話題になることがあった。「神様は本当にいると思う?」「神様はいるよ。」「神様なんていないよ。」「いや、神様は絶対にいるよ。」「お前、神様なんか信じているの?バカじゃねえの?」というような具合で、結論の出ない堂々巡りの会話である。しかし成長して大人になるにつれ、友人同士の間で神の存在が話題になることは殆ど無くなった。「神がいてもいなくても、立身出世や世俗的栄達などには関係ないし、実生活の役に立つ訳ではない。」「神の存在など考えても無益であり、無意味だ。」「神が本当にいるかどうか考えること自体、時間の無駄であるし、下らない。」「神なんて、いてもいなくても実際どうでもよい。」などと感じるようになるからである。しかし神が存在するか否かは、やはり人間の実存(福音の弁明と立証12参照)にとって非常に重要で本質的な問題である。成長していない子供の方が、人間の実存的・本質的な疑問に対して鋭敏な感覚を持っているようだ。

28私は思う。神の存在は、客観的事実や物的証拠によっては、一部の人々に対して証明することはできても、全ての人々に対して証明することは完全にはできないと。しかし神の存在を信じていない人も、自分自身が生きていること、自分自身が存在していることを信じていない人、疑う人はいないようだ。私は自分自身の存在ほど、不確かで、信用できないものはないと思う。なぜなら、客観的・物理的に見れば、私は誕生する前は存在しなかったから、また私は死んだ後は存在しなくなるからである。これは客観的・物理的に見れば、私に限らず、全ての人間がそうである。だから時間について言えば、私が存在している時間よりも、存在していない時間の方が圧倒的に長い。まして気の遠くなるほど長大な宇宙の時間を考えれば、人間一人が存在している時間など、ほんの一瞬であるし、殆ど存在しないと言っても過言ではない。このように、ある一瞬の時間だけに存在し、殆ど全ての時間に存在しないものについて「存在する」という言葉を使うのは果たして適切だろうか?私は、全ての時間に存在するもの、存在しない時間が全く無いものについてこそ、「存在する」という言葉を使うにふさわしいと考える。全ての時間に存在するもの、存在しない時間が全く無いもの、これこそが神である。

29神の存在について聖書は次のように語っている。
「神はいにしえからいまし/変わることはない。」(詩編55編20節)
ここから、神は遠い過去から存在するということが分かる。また別の箇所では、
「私の神よ、あなたの歳月は代々に続くのです。
かつてあなたは大地の基を据え/御手をもって天を造られました。
それらが滅びることはあるでしょう。/しかし、あなたは永らえられます。
すべては衣のように朽ち果てます。/着る物のようにあなたが取り替えられると/すべては替えられてしまいます。
しかし、あなたが変わることはありません。/あなたの歳月は終わることがありません。」(詩編102編25-28節)
とあり、神は遠い過去から存在するだけでなく、たとえ世界や万物が消滅しても、神は永遠に存在し続けるということが分かる。また別の箇所では、
「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(ヨハネの黙示録1章8節)
「イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。/わたしは初めであり、終わりである。」(イザヤ書44章6節)
「天使は私に言った。『預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分のしもべ達に示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。』」(ヨハネの黙示録22章6,12節)
とあり、神は「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」である。「今おられ」は現在、「かつておられ」は過去、「やがて来られる」は未来をそれぞれ意味していることから、神は過去・現在・未来の全ての時間に亘って存在する方だということが分かる。
30また神は「アルファであり、オメガである」方である。アルファ「Α」とオメガ「Ω」は、聖書原典の言語であるギリシア語のアルファベット全24文字「ΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩ」のそれぞれ最初と最後の文字である。だから「アルファであり、オメガである」というのは、「初めであり、終わりである」と同じ意味だろう。しかしそれだけではなく、最初の文字と最後の文字ということで、アルファベットの文字全てを、すなわち言語が表現し得ること全てをも意味しているのではないだろうか。つまり「アルファであり、オメガである」という表現は、神は全てを知り尽くし、全てが可能である方であり、全知全能な方であることをも意味しているのではないだろうか。
また神は「初めであり、終わりである」方である。このことから神は、時間の開始であり、時間の終結であるということが分かる。それだけではなく神にとっては、時間の開始と時間の終結は同時であるということも分かる。私達人間にとっては、時間の開始と時間の終結は同時ではあり得ない。人間にとっては、時間は必ず、目前の未来が現在に迎え入れられ、過去へと過ぎ去ることによってしか知覚され得ないからである。しかし神は過去・現在・未来の全ての時間に亘って存在する方であるので、時間の開始と時間の終結は同時なのである。私達人間は現在の瞬間にしか存在しないから、人間にとって時間は未来から現在を通って過去へと過ぎ去るしかない。しかし神は過去・現在・未来と全ての時間に亘って存在する方であるから、神にとって時間は決して過ぎ去らない。過去も現在も未来も全て同時であり、時間の開始と時間の終結は同時なのである。神は時間を支配している方だということが分かる。また「初めであり、終わりである」というのは、時間についてだけではなく、空間の開始と空間の終結、宇宙の開始と宇宙の終結、世界の開始と世界の終結、歴史の開始と歴史の終結についても意味していると解釈できる。

31聖書は、上述したように、時間的存在としての神の存在を語るだけではなく、次のように空間的存在としての神の存在をも語る。
「天をも地をも、わたしは満たしているではないかと主は言われる。」(エレミヤ書23章24節)
このように、神は「天をも地をも満たしている」方である。「天」と「地」という言葉で、全ての場所を意味している。つまり神は全ての場所に存在し、空間的に神が存在しない所は何一つないということが分かる。また別の箇所では、
「主よ、どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。/どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも/あなたはそこにもいまし
御手をもって私を導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(詩編139編7-10節)
とあり、この箇所からも、神は全ての場所に存在し、空間的に神が存在しない所は何一つないということが示される。32ここで「あなた」と呼びかけられているのは、言うまでもなく主である。「あなたの霊」というのは主の霊のことである。私は以前に詳しく書いたが(福音の弁明と立証110,125-138参照)、「神は霊である」(ヨハネによる福音書4章24節)から、「あなたの霊」というのは神であり聖霊のことである。神と聖霊とは一つの存在である。だから聖霊である神は、空間的に全ての場所に存在するということが分かる。しかし神が、物質的存在として、何らかの原子の集合体として、つまり目に見えるものとして、空間的に全ての場所に存在すると考えてはならない。神は霊であるから、物質的存在ではなく、目に見えない霊として、霊的存在として、空間的に全ての場所に確かに存在するのである。だから神は「陰府(よみ)」にも存在する。「陰府」というのは、聖書の原典ではギリシア語「ΑΙΔΗΣ(アディス)」、ヘブライ語「שאול(シェオール)」という言葉で、物理的・肉体的に死んだ人間が、神の裁判を受けるために待機している場所のことであり、来たるべき神の裁判(福音の弁明と立証54-82参照)を待つ死者の世界のことである。陰府は目に見えない場所・世界であるが、神は霊であるから陰府にも存在するのである。
33またここで「御顔」・「御手」と記されている言葉は、原典を直訳すれば、それぞれ「あなたの顔」・「あなたの手」である。しかしこの記述から、神が人間と同じような物質的・肉体的な顔と手を持っていると考えてはならない。もし神が物質的・肉体的な顔と手を持っているのであれば、それは必ず滅び去らなければならないし、空間的に全ての場所に存在するということはあり得ない。だから「あなたの顔」・「あなたの手」というのは、物質的・肉体的なものではなく、霊的なものである。それでは「あなたの顔」・「あなたの手」とは一体何か。なぜ聖書は、霊的存在である神について、物質的存在である人間の身体に関する表現を敢えてするのだろうか。34私は、「あなたの顔」という表現で、神にも人間と同じように喜怒哀楽や好悪の感情があるということを示しているのだと考える。顔は感情や心の窓である。私達は人間同士の関係の中で、その人の顔の表情から、その人が喜んでいるのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、楽しんでいるのか、自分に対して好意を持っているのか、嫌悪感を持っているのか、その人の感情や心を知ることができる。実際、神に喜怒哀楽や好悪の感情があることについて聖書は次のように語っている。
「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(創世記6章5節)
「しかし、ノアは主の好意を得た。」(創世記6章8節)
「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト記20章5-6節)
「主はモーセに言われた。『わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼等に対して燃え上がっている。わたしは彼等を滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。』モーセは主なる神をなだめて言った。『主よ、どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。』主は御自分の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。」(出エジプト記32章9-12,14節)
「主はモーセに言われた。『わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだ』」(出エジプト記33章17節)
「主はソロモンのこの願いをお喜びになった。神はこう言われた。『あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。』」(列王記上3章10-11節)
「主は御自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。」(歴代誌下36章15-16節)
35また「あなたの手」という表現で、神は人間と同じように仕事や作業をして働かれているということを示しているのだと私は考える。私達人間は生活のために働く時、主に手を使う。手を使わなければ、殆どの仕事や作業はできないだろう。聖書には、神が天地万物を創造し、人間を創造し、男性と女性に創造したこと(創世記1章)や、神が結婚を創造したこと(創世記2章)が書かれている。また神が洪水を起こして、神と共に歩む人、神に従うノアを救い、堕落と不法の中にいる人、神に逆らう人を全て滅ぼしたこと(創世記6-8章)、神が海の水を分け、元に戻すことによって、神に従うモーセとイスラエルの民を救い、神に逆らう頑迷なファラオとその軍勢を一人残らず滅ぼしたこと(出エジプト記14章)や、神が預言者エリヤと預言者エリシャを通して、偶像バアルに仕えるアハブ王・王女イゼベル・アハブ王家と偶像バアルの預言者・祭司達を、すなわち神に逆らう偶像礼拝者達(福音の弁明と立証55,151,158参照)を滅ぼしたこと(列王記上18-19,21章)(列王記下9-10章)が書かれている。このことから、創造すること、人間を裁くこと、つまり、神に従う人間を救い、神に逆らう人間を滅ぼすことが神の働きであり、神の仕事や作業であると言える。聖書には次のような言葉がある。
「光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。/わたしが主、これらのことをするものである。」(イザヤ書45章7節)
36神は霊であるから物質的・肉体的存在ではない。このように言うと、神は、目に見える物質的世界や肉体的存在である人間とはかけ離れた全く関係のない存在、超然とした存在、冷淡な存在であると感じる人がいるかも知れない。しかしそうではない。主は「熱情の神」(出エジプト記20章5節)である。「あなたの顔」「あなたの手」という表現で、霊的存在である神が、目に見える物質的世界を創造し、現在も積極的に手入れをなさっている方であり、とりわけ肉体的存在である私達人間に強い関心を持ち、人間に対して喜怒哀楽の感情があり、好悪の感情に従って人間を救ったり人間を滅ぼしたり、常に人間に対して働きかける方であるということが分かる。実際、神はモーセを通して私達人間に対して次のように語っているのである。
「見よ、わたしは今日、あなた達の前に祝福と呪いを置く。あなた達は、今日、わたしが命じるあなた達の神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなた達の神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じるをそれて、あなた達とは無縁であった他の神々に従う(=偶像礼拝)ならば、呪いを受ける。」(申命記11章26-28節)
「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じる通り、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕える(=偶像礼拝)ならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなた達は必ず滅びる。」(申命記30章15-18節)

37人間は存在すると言っても、「○年○月○日○時に」「○○という場所に」存在するというように、必ず条件づけられている。無条件に存在するということはあり得ない。しかし神の存在は時間的にも空間的にも制約されない(福音の弁明と立証163参照)。神は無条件に存在するのである。神こそ真の存在であり、存在そのものである。まさに「わたしはある。わたしはあるという者」なのである。神に比べれば私達人間は存在しているようで実は存在しない。不確実な存在、偽りの存在である。
しかしこのように、条件づけられた存在、存在しているようで存在しない人間にも、今や、無条件に存在するが開かれ、示されているのである。その道というのは、神と共に歩む道、復活永遠の命にあずかる道である。38主イエスは次のように語っている。
「イエスは言われた。『死者が復活することは、モーセも〈柴〉の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。全ての人は神によって生きているからである。』」(ルカによる福音書20章37-38節)
この言葉から、主イエスが復活をどのように理解していたかが読み取れる。
〈柴〉の箇所というのは先に私達が見た、出エジプト記3-4章に記された、モーセが燃え尽きない柴に近づいて神と出会う場面である。そこには次のように記されている。
「神は言った。『私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』」(出エジプト記3章6節)
ここでは神が「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」と語られているが、主イエスはこれについて「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と語る。つまり、アブラハム、イサク、ヤコブは死んだ者ではなく、生きている者であると断言するのである。客観的・物理的に見れば、すでにアブラハム、イサク、ヤコブは死んでしまっているにもかかわらず。39そして主イエスは「死者が復活することは」と語り始めていることから、アブラハム、イサク、ヤコブは復活していると言っているのである。アブラハムもイサクもヤコブもイスラエルの民の父祖・族長であって、信仰の模範者である。因みにイスラエル(福音の弁明と立証148参照)というのはヤコブの別名(創世記32章29節,35章10節)でもある。創世記に詳しく記されているが、彼等は神を信じたことで、神に正義であると認められ、神に知られ、生涯を通じて神を呼び求めながら、信仰によって神との関係を築きながら、神と共に歩んだ人達である。復活しているというのは、彼等が信仰によって、肉体的な命・物理的な命から、実存の命・永遠の命へと移され、彼等の存在は神の存在と一つになっているということ、彼等は条件づけられた存在から無条件の存在へと移されているということなのである。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表現は、このことを意味している。だから彼等は客観的・物理的に見れば死んでいても、復活しており、神と共に生きており、神と共に存在しているのである。40そして主イエスは復活にあずかることについて、アブラハム、イサク、ヤコブだけに限定していない。最後に「全ての人は神によって生きている」と語ることによって、復活と永遠の命にあずかる道、神と共に歩む道、無条件に存在する道は、全ての人に開かれていると言っているのである。聖書の別の箇所に次のような記述がある。
「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、実際、神は私達一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんの内のある詩人達も、〈我らは神の中に生き、動き、存在する〉〈我らもその子孫である〉と、言っている通りです。私達は神の子孫なのです』」(使徒言行録17章22,27-29節)
この記述から、使徒聖パウロも、全ての人は神によって生きていること、復活と永遠の命にあずかる道、神と共に生きる道、無条件に存在する道は全ての人に開かれていると言っていることが分かる。また彼は別の箇所で、
「神は、私達を怒りに定められたのではなく、私達の主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、私達のために死なれましたが、それは、私達が、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章9-10節)
と語り、神が存在していることを信じ、十字架につけられたイエスを主と信じる人は全て、神の怒りを受けて滅ぼされるように定められたのではなく、復活と永遠の命にあずかり、神と共に生き、無条件に存在するように定められたと言明している。
41また聖書の別の箇所には次のような記述がある。
「私は主をたたえます。/主は私の思いを励まし/私の心を夜ごと諭してくださいます。
私は絶えず主に相対しています。/主は右にいまし/私は揺らぐことがありません。
私の心は喜び、魂は躍ります。/体は安心して憩います。
あなたは私の魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えて下さいます。/私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びを頂きます。」(詩編16編7-10節)
この記述から、復活と永遠の命にあずかるためには「絶えず主に相対」し続けなければならないということが分かる。つまり自分の実存としっかり向き合い続け、神に対する信仰を持ち続け、神を呼び求め続けること、神との関係を築き続けることが大切であるということである。
また聖書の別の箇所には次のような記述がある。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者達に報いて下さる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ人への手紙11章6節)
この記述から、信仰の大切さが分かる。信仰がなければ神に喜ばれることはできない、つまり信仰がなければ神の怒りを受けるように定められ、神に滅ぼされるということである。信仰がなければ、神とは無関係となり、神の存在と一つとなることはできず、神の存在から切り離されてしまい、条件づけられた存在のままであり、実存の死と永遠の死に定められてしまうということである。信仰がなければ、復活と永遠の命にあずかる道、神と共に生きる道、無条件に存在する道は閉ざされてしまうということである。
42また聖書の別の箇所では
「神の内にいつもいるという人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」(ヨハネの手紙Ⅰ2章6節)
とあり、神と共に生きる道、復活と永遠の命にあずかる道、無条件に存在する道を歩むということは、主イエス・キリストの生き方を模範として歩むことであると教えている。私は以前に詳しく書いたが(福音の弁明と立証108-112参照)、主イエス・キリストこそが神の似姿であり、神が人間を創造した目的である。神は私達人間をこの方に向けて創造したのである。

43このように、神が存在するか存在しないかは、実に、人間が本当に存在するか存在しないか、人間が本当に生きるか死ぬかの、実存に関わる本質的で重要な問題である。神が存在しないのであれば、神を呼び求めないのであれば、神との関係を築き上げないのであれば、信仰がなければ、人間は存在しない、全く存在しないのである。
主教聖アウグスティヌスも次のように語っている。
「私の神よ、あなたが私の内におられないなら、私は存在しない――全く存在しないであろう。それよりもむしろ、私は、万物があなたから、あなたによって、あなたの内に存在するのでないなら、存在しないのではなかろうか。まさにそうである。主よ、まさにそうである。」(アウグスティヌス『告白』1巻2章)
44だから私は神と共に、次の聖書の言葉をもって、全ての人に対して、信仰を持ち、神を呼び求め、神との関係を築き上げることを勧めるのである。
「主を尋ね求めよ、見出だしうるときに/呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。/私達の神に立ち帰るならば豊かに赦して下さる。」(イザヤ書55章6-7節)
そして特に若い人に対してこそ、私は、信仰を持ち、神を呼び求め、神との関係を築き上げることを強く勧めるのである。それは神も、次の聖書の言葉を通して示している。
「あなたの青春の日々にこそ、あなたの創造主に心を留めよ。/苦しみの日々が来ないうちに。/『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。」(コヘレトの言葉12章1節)
45誰であれ、信仰を持ち、神を呼び求めるならば、どんな絶望にあっても必ず、神はその人にご自身を現わし、その人と共にいて下さるのである。それは次のように書いてある通りである。
「しかしあなた達は、その所(偶像礼拝が、もはや切り離し難く日常生活に深く浸透してしまっている場所)からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう(福音の弁明と立証3,12,29,36,85参照)。」(申命記4章29節)
また主イエスも次のように、全ての人に向けて語っている。
「私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなた方の中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなた方は悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる。」(ルカによる福音書11章9-13節)
だから父と子と聖霊であるは確かに存在するのである。しかし神の存在をかたくなに否定する人、信仰を持たず、神を呼び求めず、神との関係を築き上げようとしない人は、神が存在しないのではなく、実はその人自身が存在しないのである(福音の弁明と立証54参照)。(次回に続く)

神学の森

【神学の森 第1回】
ここでは聖書の中から私が好きな章句を選び、それについて感じた事や考えた事を自由に書きたいと思います。興味があれば是非この森に立ち寄って散策して行って下さい。

「初めに、神は天地を創造された」
創世記1章1節

1聖書を開くと一番最初に記されている言葉である。聖書は多くの書物から成り立っているが、一番最初に配置されているのが創世記という書物で、その冒頭を飾るのが上記に挙げた一文である。
創世記は一見すると物語のようであり、誰にでも分かる平易で単純な文章で書かれている。しかしその意味するところは深遠で、現在に至るまで人間はその意味を解明し尽くしたとは言えない。
「人間はなぜ存在するのか? 人間が存在する意味とは何か?」という根源的・究極的な問いについて、現在私達が知る人文科学・自然科学・社会科学などのあらゆる学問は、考える事を最初から避けるか、或いは考えたとしても答える事ができない。しかし創世記はこの問いの秘密を解く鍵を私達人間に与え続けてくれるのである(福音の弁明と立証112参照)。(次回に続く)
[2016/5/5]

【神学の森 第2回】

「初めに、神は天地を創造された。」
創世記1章1節

2(前回の続き)「初めに、神は天地を創造された。」単純明快で非常に簡単に聞こえる。これを聞く人の多くは、特に何も注意を払うことなく素通りしてしまうだろう。
私も子供の頃はこれを聞いて、「神様は一番最初に青い大空と広い大地をお造りになったんだな」と漠然とイメージするだけだった。
勿論このように素直に聖書に書かれている言葉を受け止める事は一方でとても大切だと思う。しかし他方、一面では脆さや危うさをも持っていると言える。例えば私などは多少物心がついてくると「世界の始まりは青い大空と広い大地からだと書いてあるけど、一番最初はビッグバンがあって、そこから世界は始まったんだ」とか「天は神様が住んでおられる場所だと言うが、そんな場所ないよ。天の先には宇宙が広がっているだけだ」とか思うようになり、いささか懐疑的になって、俄に聖書に書かれている言葉が信じられなくなってしまった経験がある。
勿論今は、聖書に書かれている言葉は紛れもなく神の言葉であると豪も疑わず、真理であると確信しているが(福音の弁明と立証131-133参照)。

3「初めに、神は天地を創造された。」この文章が表現している内容は、そんな浅薄なものではない。
この第1節に続く、次の第6~8節を読んで頂きたい。
「(6)神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』
(7)神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
(8)神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。」(創世記1章6-8節)

注意深く読んでいくと奇妙なことに気がつかないだろうか?
すなわち、この箇所で神は大空を造り、それを天と呼んだと記されているが、神はすでに第1節で天を創造したはずではなかったかと。
神はを2回創造したのだろうか?
同じものが2度も創造されたということだろうか?
それとも第1節の天と第8節の天は同じ言葉が使われているが別のものを指しているのだろうか?
ここである人は言うかも知れない。「第8節では確かに天という1つの単語が使われているが、第1節では天地という1つの単語が使われている。両者は同じ言葉ではない」と。
確かに日本語では第1節と第8節は天地と天という別の単語で訳出されている。しかし七十人訳聖書という古典ギリシア語で書かれた旧約聖書の原文を見ると、「エン アルヒ(初めに) エピイセン(創造した) オ テオス(神は) トン ウラノン(天を) ケ(そして) ティン ギン(地を)」となっており、天地という1つの単語ではなく、天という名詞と地という名詞の2つの単語が使われ、それらが接続詞て結ばれている。そして第8節の天も七十人訳聖書原文では「ウラノン」なので、第1節と第8節の天は同じ言葉である。
ただし第1節の天には定冠詞がついているのに対し、第8節の天には定冠詞がついていない。(次回に続く)
[2016/5/17]

【神学の森 第3回】

「初めに、神は天地を創造された。」
創世記1章1節

「(6)神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』
(7)神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
(8)神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。」
創世記1章6-8節

4(前回の続き)文脈から判断すると第1節の天は神が直接創造したものであり、第8節の天は神が先ず大空を創造し、それを天と呼ばれたと書かれていることから、両者は同じ言葉が使われているが同じものではなく別のものを指していると考えられる。因みに第1節の「創造された」と第8節の「造り」は日本語では異なる言葉が使われているが七十人訳では両方とも「エピイセン」となっており、「ピエオ(創造する)」という同じ動詞が使われている。

5異なる天が2つ存在するというのは、私達の常識からは考えられないことである。しかし聖書の他の箇所には次のような言葉がある。
「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。」(列王記上8章27節)
他にも、
「天の天よ 天の上にある水よ 主を賛美せよ。」(詩編148編4節)
ここから分かるように、驚くべきことに聖書は天の他に、天の天というもう一つの天を想定している。
更に言えば主の祈り。「天におられるわたしたちの父よ。み名が聖とされますように。…」というあの祈りである。あまりにも有名なのでキリスト者でない方も知っていらっしゃる方が多いと思う。であるイエスが弟子達に直々に教えた祈りなので主の祈りと呼ばれる。この主の祈りは聖書のマタイによる福音書6章9~13節にあり、原文は古典ギリシア語で書かれている。実は、日本語では訳出されていないが「天におられるわたしたちの父よ。」の「天」は複数形である。すなわち原文では「パテル(父よ) イモン(私達の) オ エン ティス ウラニス(諸々の天におられる)」となっている。天が単数形ならば「オ エン ティス ウラニス」が「オ エン ト ウラノ」とならねばならない。
このように聖書は天が複数存在する事を私達に教えてくれている。

第8節の天は、大空が天と呼ばれている事から私達が普段目にする天だと解釈できる。
それでは第1節の天とは一体何を指すのだろうか?
天の天とは一体何を意味するのだろうか?
非常に深い謎である。

6私はこう考える。すなわち第1節の天は、肉眼で見る事のできる物質的な天ではなく、肉眼で見る事のできない霊的な天であると。

ここで私は「霊的」という言葉を使ったが多くの方にとっては聞き慣れない言葉だと思う。日本語で「霊」と言うと、すぐに「幽霊」とか「心霊スポット」のような「霊」を連想してしまうが、私はそのような意味では使っていない。私が言う「」と「霊的」という言葉は聖書の原文に書かれた古典ギリシア語の「プネヴマ(霊)」と「プネヴマティコス(霊的)」であり、「プネヴマ」の元の意味は「風」である。「幽霊」とか「心霊スポット」の霊とは大分意味が違う事がお分かり頂けると思う。厳密に言えば「プネヴマ」は「幽霊」と意味が重なる部分が少しはあるが、それでも重ならない部分の方が圧倒的に大きい。この「霊」と「霊的」という言葉については「聖霊(アギオン プネヴマ)」という言葉と共に、別の機会に、神の助けによって、私の力の及ぶ限り論じたい(福音の弁明と立証110,125-138参照)。キリスト教の信仰の核心は「父・子・聖霊三位一体の神」を信じる事である(福音の弁明と立証110,134-138参照)。
それなので今は「霊的」という言葉は次のように受け取って頂きたい。
肉眼では見えないが神への信仰の目によって初めて見えるもの、神を信じる事によって初めて知覚できるものに関することであると。

7肉眼では見えないものが存在する事については聖書の中で使徒聖パウロが次のように述べている。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章18節)
このように彼は肉眼で見えないものは確かに存在するし、しかもそれは永遠に存在するものだ言っている。それだけではなく彼は肉眼で見えるものは過ぎ去るとも言っている。そうだとすると私達が目にする天も肉眼で見えるものなのだから過ぎ去ると解釈するべきだろう。実際、天が過ぎ去るという事については主イエスも次のように述べているのである。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(ルカによる福音書21章33節)
そしてパウロは先に引用した箇所に続けて言っている。
「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章1節)
彼はここで「天にある永遠の住みか」と言っているが、この住みかは永遠であるので肉眼で見る事のできないものだと解釈すべきである。そしてこの住みかの在りかである天も永遠であり肉眼では見えないものだと解釈すべきだろう。何故ならこの天がもし肉眼で見えるものであるならば、彼が直前に言った「見えるものは過ぎ去る」という自分の言葉と矛盾する事になるし、「天地は滅びる」という主の言葉とも齟齬(そご)が生じるからである。

8肉眼で見える物質的な天が過ぎ去った後に、肉眼で見る事のできない霊的な天が来ることについては、聖書の他の箇所も次のように証言している。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」(ヨハネの黙示録 21章1節)
先に示したパウロの記述を踏まえれば、ここで語られている「最初の天」というものが肉眼で見える物質的な天であり、「新しい天」というものが肉眼で見る事のできない霊的な天であろうことは容易に察しがつく。
9しかし、この聖書箇所について不思議に思う人がいるかも知れない。
新しい天が肉眼で見る事ができないならば何故黙示録の著者であるヨハネは「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」と言っているのか?見えないものを「見た」と言うのはおかしいと。
この疑問についてはヨハネ自身が黙示録の結びの箇所で次のように答えている。
「天使はわたしにこう言った。『これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕(しもべ)たちに示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。』わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。」(ヨハネの黙示録 22章6-8節)
つまりヨハネが「聞き、また見た」ものは、神が天使を通して示したものである。言うまでもなく、神は肉眼で見る事ができない。聖書も次のように言っている。
「いまだかつて、神を見た者はいない。」(ヨハネによる福音書 1章18節)
「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(ヨハネの手紙Ⅰ 1章18節)
しかし肉眼で見る事ができない神も、霊的な目、つまり信仰の目によって見る事ができる。主御自身、
「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイによる福音書 5章8節)
と言っているし、使徒聖パウロも、
「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 2章10節)
「神の霊以外に神のことを知る者はいません。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 2章11節)
と書いている。
「神は霊である。」(ヨハネによる福音書 4章24節)
からである。
つまり黙示録の著者であるヨハネが「見た」と言っているものは肉眼で見える物質的なものではない。そうではなく、信仰の目によって、肉眼では見る事のできない、神に属する霊的なものを「見た」と言っているのである。そのことは彼自身、彼が見たものは「預言者たちの霊感の神、主が示された」と言っている事から明らかである。また、もし彼が見たものが、肉眼で見える物質的なものであるならば、視力のある全ての人々にも示され、見えるはずである。しかし彼は実際「すべての人たちに示された」とは言わずに、「御自分の僕たちに示された」と言っている。つまり彼が見たものは、全ての人々にではなく、神の僕たち、神への信仰の目を持つ人々のみに示されたと言っているのである。このことからも、彼が見たものは物質的なものではなく、霊的なものである事が理解できるのである。

10「初めに、神は天地を創造された。」この第1節に記された天は、「天にある永遠の住みか」の天であり、「最初の天と最初の地」の天ではなく「新しい天と新しい地」の天であり、肉眼で見える物質的な天ではなく肉眼で見る事のできない霊的な天であるというのが、私の解釈である。(次回に続く)
[2016/6/9]

【神学の森 第4回】

「初めに、神は天地を創造された。」
創世記1章1節

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」
ヨハネの黙示録 21章1節

11(前回の続き)しかし、ここで私が第1節の天を、黙示録の「最初の天と最初の地」の天ではなく「新しい天と新しい地」の天であると解釈したことについて、引っ掛かりを感じる人がいるかも知れない。つまり第1節の天は「初めに、神は天地を創造された。」と書かれている通り、「初めに」創造されたものである。だから「新しい天と新しい地」の天ではなく、むしろ「最初の天と最初の地」の天であると解釈した方が理に適っているのではないかと。

確かに「初め」と「最初」は、日本語では密接な関連があるように思われる。しかしギリシア語原文では、「初めに(エン アルヒ)」には名詞アルヒが使われ、「最初の天(オ ガル プロトス ウラノス)と(ケ)最初の地(イ プロティ ギ)」には序数プロトスが使われており、明らかに別の言葉である。
この「初め」と「最初」が原文では違う意味を持つ別の言葉であるということが、私が第1節の天を黙示録の「最初の天と最初の地」の天ではないと解釈する理由の一つである。

12古典ギリシア語の数詞には、英語やドイツ語と同じように基数序数がある。基数は数そのものを表すのに対し、序数は順序や順番を表すものである。すなわち、英語では基数「one(1),two(2),three(3)…」に対して序数「first(第1),second(第2),third(第3)…」、ドイツ語では基数「eins(1),zwei(2),drei(3)…」に対して序数「erst(第1),zweit(第2),dritt(第3)…」であるのと同じように、古典ギリシア語でも基数「イス(1-男性名詞)・ミア(1-女性名詞)・エン(1-中性名詞),デュオ(2),トリス(3-男性&女性名詞)トリア(3-中性名詞)…」に対して序数「プロトス(第1),デフテロス(第2),トリトス(第3)…」となる。プロトスは英語のfirstやドイツ語のerstに相当するものである。だから序数プロトスが使われている「最初の天と最初の地」は「第1の天と第1の地」とも訳せる。

13これに対して「初め」の名詞アルヒは動詞アルホに由来する言葉である。実は、動詞アルホは「支配する」という意味である。驚かれるかも知れない。「支配する」と「初め」、全く関係がないように思われる。「支配する」のどこをどうひねったら「初め」という意味が出てくるのか、首をかしげられる方が多いのではないかと思う。
私達は言語を学ぶ時、日本語でも英語でもドイツ語でも、動詞には能動態と受動態の二つの態があることを知っている。しかし古典ギリシア語の動詞には能動態と受動態の他に、中動態というもう一つの態があり、三つの態が存在する。
能動態は、動詞の動作が、主語から発して、主語以外の他へ及ぶ事を表現し、受動態は、動詞の動作が、主語以外の他から発して、主語へ及ぶ事を表現する。
中動態というのは、動詞の動作が、主語から発して、何らかの仕方で、主語へ及んだり主語に関わったりする事を表現するものである。しかしこの「何らかの仕方」というのは動詞ごとに多様で異なるので、中動態の正確な意味は動詞ごとにいちいち辞書を確かめなければならない。
動詞アルホの三つの態の意味を示すと次のようになる。すなわち現在時制では、能動態は「アルホ(私は支配する)」、受動態は「アルホメ(私は支配される)」、中動態は「アルホメ(私は始める)」である。受動態と中動態が同形であるので態の区別が分かりにくい。しかし動詞アルホの過去時制の一つであるアオリストも示すと態の区別は明瞭である。すなわち能動態は「イルクサ(私は支配した)」、受動態は「イルフティン(私は支配された)」、中動態は「イルクサミン(私は始めた)」である。
ここまで来ると「支配する」と「初め」には関係があるという事がお分かり頂けるだろう。
「初めに、神は天地を創造された。」この「初め(アルヒ)」には動詞アルホの中動態の意味が反映されているのである。

14もしかすると古典ギリシア語を話していた人々は、「始める」ことを「自分の行為を支配する」ことだと考えていたのではないだろうか?しかし私にはこのように考えるのは、妙に納得できるというか、腑に落ちるのである。というのは私はフルートを演奏するのが好きだが、演奏する際はアタックがとても重要だからである。アタック(attaque)というのはフランス語で、クラシック音楽で使われている言葉だが、音を始める事、音の開始を意味する。良い演奏、優れた演奏をする為には、楽曲中の全ての音を自分の思った通りにコントロールすること、つまり支配することが必要である。音を支配する際、アタックがほぼ全てであると言って過言ではない。何故ならアタックの時に音程、音量、音色などの音のほぼ全ての要素は決定されてしまうからである。アタックが重要であるのはフルートに限らずピアノやヴァイオリンなどの他の楽器も同様である。特にビアノに至ってはアタックこそ全てである。一度打鍵したらフルートやヴァイオリンのようにヴィブラートや音の強弱など、音の途中で表情や変化をつけることは、もはやできないからである。(次回に続く)
[2016/6/30]

【神学の森 第5回】

「初めに、神は天地を創造された。」
創世記1章1節

「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」
創世記 1章5節

15(前回の続き) 「初めに、神は天地を創造された。」この箇所で「初め」という言葉に序数プロトスではなく名詞アルヒが使われているのは何か特別な意味があるのだろうか?(22-23参照)
私がこのような問いを立てると、「それは著者がこの文を書く時に、プロトスではなくアルヒという言葉がたまたま思い浮かんだだけであって特別な意味はないよ。考え過ぎだ。」と言って笑う人がいるかも知れない。しかし私はどうしても、この箇所でプロトスではなくアルヒが使われていることが単なる著者の気まぐれだとは思えないのである。

16実は、創世記冒頭部分にはプロトスに関連して奇妙なことが一つある(18,20参照)。創世記の冒頭部分は、神の創造行為が1章1節から2章4節に亘って記されているが、それは7日という形式に従って表現されている。すなわち1日目の創造行為の終わりには、
「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」(創世記 1章5節)
と書かれ、同じように2日目以降も、
「夕べがあり、朝があった。第二の日である。」(創世記 1章8節)
「夕べがあり、朝があった。第三の日である。」(創世記 1章13節)
「夕べがあり、朝があった。第四の日である。」(創世記 1章19節)
「夕べがあり、朝があった。第五の日である。」(創世記 1章23節)
「夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創世記 1章31節)
と書かれおり、整然とした形式を保っている。しかし7日目だけは例外で、
「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創世記 2章2-3節)
と書かれていて、7日目だけは不思議なことに夕べも朝もない。
17私達が普段考えている「」は、日の出があり、朝・昼・夕方が来て、日没があって夜となる「日」、すなわち地球の自転によって昼と夜とが交替して24時間毎に繰り返し生じる「日」である。しかし創世記冒頭部分の7日の「」は、このように私達が常日頃思い描いているような「日」だと考えてはならない。なぜならば太陽や月は7日の内の4日目に創造されたと解釈できるからである。4日目の記述を見ると、
「神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜とを治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。」(創世記 1章16-19節)
とあり、この箇所の大きな光る物の大きな方が太陽を、大きな光る物の小さな方が月をそれぞれ指すと考えられる。そうだとすると4日目よりも前は太陽も月もないのだから、夕べがあり朝があり日があるというのはおかしい。それだから7日の「日」は、確かに「日」という言葉で表現されてはいるが、私達が日常思い描くような「日」を指すのではなく、別のものを指していると考えるべきである。それは私達が普段考えている「日」が、4日目の記述、
「神は言われた。『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。』」(創世記 1章14節)
の中の「日」として記され、7日とは別に出て来ることからも明らかである。それでは7日の「日」が、私達が考える24時間の物質的な「日」でないとするならば、一体何を意味するのだろうか?
18恐らくそれは霊的な「日」であり、 人間の目が見る「日」ではなく神の目が見る「日」なのだろう。私はもちろん神ではなく人間に過ぎないので、肉なる者であり塵と灰に過ぎないので、7日の「日」が何であるかを完全に知ることはできないし、確定的なことは言えない。しかし1日目から6日目までは夕べがあり朝があったと書かれていることから、何らかの時間的な経過があることを示しているのではないだろうか、そして7日目は夕べも朝もないことから、朝・昼・夜や過去・現在・未来などのあらゆる時間的なものを超越した境地、すなわち永遠を意味しているのではないだろうか。

話しを元に戻そう。私は先に、プロトスに関連して奇妙なことが一つあると言ったが(16参照)、それは1日目から6日目までの形式についてである。(次回に続く)
[2016/9/1]

【神学の森 第6回】

「初めに、神は天地を創造された。」
創世記1章1節

「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」
創世記1章5節

19(前回の続き)私達は1日目から6日目までの創造行為の終わりの記述に、日本語聖書を通して、整然とした形式があるのを見た。
「第一の日」、「第二の日」、「第三の日」、「第四の日」、「第五の日」、「第六の日」。全て序数が使われており、統一されている。
日本語聖書だけでなく、キング・ジェームズ・ヴァージョンという英語聖書も「the first day」、「the second day」、「the third day」、「the fourth day」、「the fifth day」、「the sixth day」と書かれ、ルター訳ドイツ語聖書も「der erste Tag」、「der andere Tag」、「der dritte Tag」、「der vierte Tag」、「der fünfte Tag」、「der sechste Tag」と書かれている。日本語聖書と同様、全て序数である。ドイツ語の「第二の日(der andere Tag)」に序数「zweit(第2)」ではなく、形容詞「ander(他の)」が使われているのを不思議に思う人がいるかも知れない。「ander」は古いドイツ語では序数「第2」の意味も持つ言葉である。
全て序数で統一されていることは、時間的順序を追って行くようで、聖書を読む者にとっては非常に理解し易い。

20ここで多くの方々は、日本語も英語もドイツ語も全て序数が使われているのだから、七十人訳聖書のギリシア語原文も当然、全て序数が使われているに違いないと思われるだろう。ところが実際はそうではないのである。ギリシア語原文では2日目から6日目までは、「イメラ デフテラ(第2の日)」、「イメラ トリティ(第3の日)」、「イメラ テタルティ(第4の日)」、「イメラ ペンプティ(第5の日)」、「イメラ エクティ(第6の日)」とあるように確かに序数が使われている。しかし1日目だけは、大変奇妙なことに、「イメラ ミア(1つの日)」となっており、序数ではなく基数が使われているのである。もし2日目から6日目までと同じように序数を使うのであれば「イメラ プロティ(第1の日)」とならなければならない。
因みにヒエロニムス(345頃-420頃)の訳したヴルガタと呼ばれるラテン語聖書も「dies unus(1つの日)」となっており、ギリシア語原文と同じく1日目に基数が使われていることを付言しておきたい。
なぜ1日目だけ序数ではなく基数が使われているのだろうか?全体の統一と形式の均衡を崩してしまうにもかかわらず、かえって読者が理解しにくくなってしまうにもかかわらずである。

21ある人は「著者はその時たまたま序数ではなく基数が思い浮かんだから、或いは間違って基数を使ってしまったからだ。」と言うかも知れない。またある人は「著者は1の序数だけ知らなかったからだ。」と言うかも知れない。
私はそうは思わない。序数プロトスは創世記の別の箇所で使われているし、創世記の著者が自分の表現に注意を払わなかったり、いい加減な気持ちで書いたりするとは到底考えられないからである。私は著者が1日目に序数ではなく基数を使っているのには、単なる気まぐれや誤りや無知ではなく、必ず何らかの意図や目的があり、積極的な言葉の選択があると考える。
私の考えによれば、第5節の「第一の日」に序数プロトスではなく基数ミアが使われている事と、第1節の「初めに」に序数プロトスではなく名詞アルヒが使われている事は、無関係の切り離された問題では決してない。そうではなく、両者は不可分で密接に関連していて、神の創造行為について私達にある重要なメッセージを伝えているのである。(次回に続く)
[2016/10/13]

【神学の森 第7回】

「初めに、神は天地を創造された。」
創世記1章1節

「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」
創世記 1章5節第1節

22第1節の「初めに」になぜ序数プロトスが使われず、名詞アルヒが使われているのか?(15参照)もしここで序数プロトスを使った場合、それは時間的順番や順序という意味が非常に強くなる。これに対して名詞アルヒは、もちろん時間的順番や順序という意味も少しはあるが、それよりもむしろ、ある動作の始めとか行為の発端という意味合いが強い。名詞アルヒの元来の意味は「支配する(アルホ)」という動詞であることや、クラシック音楽やフルート演奏でアタックの重要性を体験したことを説明したように(14参照)、名詞アルヒが示す動作の始めや行為の発端というのは、その動作や行為の開始時点にとどまるものではなく、中間部や終結部にまで影響を与え続け、関与し、その動作や行為の始めから終わりまで全体を支配するものである。しかし、もしここで序数プロトスを使ったならば、動作や行為に関係するという視点は薄れ、時間的順序の最初部分のみに限定する記述となってしまうだろう。そして名詞アルヒのように動作や行為の中間部や終結部に影響を与えるということも無くなってしまうだろう。「初めに、神は天地を創造された。」ここでの動作や行為というのは、もちろん「創造する(ピエオ)」であり、神の創造行為である。だから第1節の「初めに」によって導き出される記述は、神の創造行為の始めだけに限られたものではなく、むしろその後に続く創造行為全体に影響を及ぼすものであると私は考える。23それではどこまでの記述が創造行為全体に影響を与えているのかと言えば、まさしく序数プロトスではなく基数ミアが使われている第5節の「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」までである。もしこの「第一の日」に序数プロトスを使ってしまえば、「第二の日」以降に記された創造行為とは明らかに切り離されてしまい、単に時間的順序の列挙という意味を示すにとどまってしまうだろう。創世記の著者は、それを避けるために、第1節から第5節までの記述が神の創造行為の全体に関わっていることを私達に伝えるために、序数プロトスを避け、敢えて基数ミアを選んでいるのである。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」(創世記 1章1-5節)
この箇所は神の創造行為全体を支配する重要な基礎である。そのことを、創世記の著者は、第1節の「初めに」に序数プロトスではなく名詞アルヒを使うことによって、第5節の「第一の日」に序数プロトスではなく基数ミアを使うことによって、私達に伝えているのである。24「初めに、神は天地を創造された。」名詞アルヒが動作や行為の開始を意味するので「始めに、神は天地を創造された。」と漢字を変えた方が良いと私は思う。また「支配する」という原語の意味を汲み取って、思い切って説明的に訳すとすれば、「創造行為の支配原理である始めに、神は天地を創造された。」となるだろう。25「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」基数ミアが使われているので、理解し易い方に引きずられることなく、原文に忠実に、「夕べがあり、朝があった。一つの日である。」或いは「夕べがあり、朝があった。一日である。」と訳すべきだと私は思う。(次回に続く)
[2016/11/3]