神学の森 第8回

【神学の森 第8回】

「わたしはある。わたしはあるという者だ」
出エジプト記3章14節

26モーセはホレブ山に来た時、燃えているのに燃え尽きない柴を見つけた。不思議に思って、その柴に近づいてみると、モーセは神と出会う。そこでモーセは神から、エジプトで奴隷状態(福音の弁明と立証107参照)に置かれているイスラエルの民をファラオのもとから導き出して脱出させよという、人間の力では到底不可能な任務を与えられる。
モーセはこの時、神にその名前を質問した。するとその問いに対して神の答えがあった。それが上記の一文である。ここで神はご自分の名前を、あの神聖四文字(福音の弁明と立証56参照)の固有名詞を使って「わたしはיהוהである」と語るのではなく、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と語っている。これは、「יהוה」よりも、神について、はるかに説明的な表現であると言えるだろう。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と神ご自身が語ることによって、あたかもご自分こそが、存在そのものであり、真の存在であると言っているかのようだ。実は神聖四文字の固有名詞「יהוה」も、存在を意味する言葉と密接な関係にあると言われている。ヘブライ語の「~はある」という、存在を意味する動詞は「היה」である。そしてこの箇所「わたしはある」のヘブライ語原文は「אהיה」で、「היה」の未完了1人称単数形である。神聖四文字「יהוה」と、「היה」と「אהיה」とを比べ、よく見ると分かるが、どれも「יה」が共通している。

27私が小学生の頃、友人同士の間で、たまに神の存在が話題になることがあった。「神様は本当にいると思う?」「神様はいるよ。」「神様なんていないよ。」「いや、神様は絶対にいるよ。」「お前、神様なんか信じているの?バカじゃねえの?」というような具合で、結論の出ない堂々巡りの会話である。しかし成長して大人になるにつれ、友人同士の間で神の存在が話題になることは殆ど無くなった。「神がいてもいなくても、立身出世や世俗的栄達などには関係ないし、実生活の役に立つ訳ではない。」「神の存在など考えても無益であり、無意味だ。」「神が本当にいるかどうか考えること自体、時間の無駄であるし、下らない。」「神なんて、いてもいなくても実際どうでもよい。」などと感じるようになるからである。しかし神が存在するか否かは、やはり人間の実存(福音の弁明と立証12参照)にとって非常に重要で本質的な問題である。成長していない子供の方が、人間の実存的・本質的な疑問に対して鋭敏な感覚を持っているようだ。

28私は思う。神の存在は、客観的事実や物的証拠によっては、一部の人々に対して証明することはできても、全ての人々に対して証明することは完全にはできないと。しかし神の存在を信じていない人も、自分自身が生きていること、自分自身が存在していることを信じていない人、疑う人はいないようだ。私は自分自身の存在ほど、不確かで、信用できないものはないと思う。なぜなら、客観的・物理的に見れば、私は誕生する前は存在しなかったから、また私は死んだ後は存在しなくなるからである。これは客観的・物理的に見れば、私に限らず、全ての人間がそうである。だから時間について言えば、私が存在している時間よりも、存在していない時間の方が圧倒的に長い。まして気の遠くなるほど長大な宇宙の時間を考えれば、人間一人が存在している時間など、ほんの一瞬であるし、殆ど存在しないと言っても過言ではない。このように、ある一瞬の時間だけに存在し、殆ど全ての時間に存在しないものについて「存在する」という言葉を使うのは果たして適切だろうか?私は、全ての時間に存在するもの、存在しない時間が全く無いものについてこそ、「存在する」という言葉を使うにふさわしいと考える。全ての時間に存在するもの、存在しない時間が全く無いもの、これこそが神である。

29神の存在について聖書は次のように語っている。
「神はいにしえからいまし/変わることはない。」(詩編55編20節)
ここから、神は遠い過去から存在するということが分かる。また別の箇所では、
「私の神よ、あなたの歳月は代々に続くのです。
かつてあなたは大地の基を据え/御手をもって天を造られました。
それらが滅びることはあるでしょう。/しかし、あなたは永らえられます。
すべては衣のように朽ち果てます。/着る物のようにあなたが取り替えられると/すべては替えられてしまいます。
しかし、あなたが変わることはありません。/あなたの歳月は終わることがありません。」(詩編102編25-28節)
とあり、神は遠い過去から存在するだけでなく、たとえ世界や万物が消滅しても、神は永遠に存在し続けるということが分かる。また別の箇所では、
「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(ヨハネの黙示録1章8節)
「イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。/わたしは初めであり、終わりである。」(イザヤ書44章6節)
「天使は私に言った。『預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分のしもべ達に示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。』」(ヨハネの黙示録22章6,12節)
とあり、神は「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」である。「今おられ」は現在、「かつておられ」は過去、「やがて来られる」は未来をそれぞれ意味していることから、神は過去・現在・未来の全ての時間に亘って存在する方だということが分かる。
30また神は「アルファであり、オメガである」方である。アルファ「Α」とオメガ「Ω」は、聖書原典の言語であるギリシア語のアルファベット全24文字「ΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩ」のそれぞれ最初と最後の文字である。だから「アルファであり、オメガである」というのは、「初めであり、終わりである」と同じ意味だろう。しかしそれだけではなく、最初の文字と最後の文字ということで、アルファベットの文字全てを、すなわち言語が表現し得ること全てをも意味しているのではないだろうか。つまり「アルファであり、オメガである」という表現は、神は全てを知り尽くし、全てが可能である方であり、全知全能な方であることをも意味しているのではないだろうか。
また神は「初めであり、終わりである」方である。このことから神は、時間の開始であり、時間の終結であるということが分かる。それだけではなく神にとっては、時間の開始と時間の終結は同時であるということも分かる。私達人間にとっては、時間の開始と時間の終結は同時ではあり得ない。人間にとっては、時間は必ず、目前の未来が現在に迎え入れられ、過去へと過ぎ去ることによってしか知覚され得ないからである。しかし神は過去・現在・未来の全ての時間に亘って存在する方であるので、時間の開始と時間の終結は同時なのである。私達人間は現在の瞬間にしか存在しないから、人間にとって時間は未来から現在を通って過去へと過ぎ去るしかない。しかし神は過去・現在・未来と全ての時間に亘って存在する方であるから、神にとって時間は決して過ぎ去らない。過去も現在も未来も全て同時であり、時間の開始と時間の終結は同時なのである。神は時間を支配している方だということが分かる。また「初めであり、終わりである」というのは、時間についてだけではなく、空間の開始と空間の終結、宇宙の開始と宇宙の終結、世界の開始と世界の終結、歴史の開始と歴史の終結についても意味していると解釈できる。

31聖書は、上述したように、時間的存在としての神の存在を語るだけではなく、次のように空間的存在としての神の存在をも語る。
「天をも地をも、わたしは満たしているではないかと主は言われる。」(エレミヤ書23章24節)
このように、神は「天をも地をも満たしている」方である。「天」と「地」という言葉で、全ての場所を意味している。つまり神は全ての場所に存在し、空間的に神が存在しない所は何一つないということが分かる。また別の箇所では、
「主よ、どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。/どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも/あなたはそこにもいまし
御手をもって私を導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(詩編139編7-10節)
とあり、この箇所からも、神は全ての場所に存在し、空間的に神が存在しない所は何一つないということが示される。32ここで「あなた」と呼びかけられているのは、言うまでもなく主である。「あなたの霊」というのは主の霊のことである。私は以前に詳しく書いたが(福音の弁明と立証110,125-138参照)、「神は霊である」(ヨハネによる福音書4章24節)から、「あなたの霊」というのは神であり聖霊のことである。神と聖霊とは一つの存在である。だから聖霊である神は、空間的に全ての場所に存在するということが分かる。しかし神が、物質的存在として、何らかの原子の集合体として、つまり目に見えるものとして、空間的に全ての場所に存在すると考えてはならない。神は霊であるから、物質的存在ではなく、目に見えない霊として、霊的存在として、空間的に全ての場所に確かに存在するのである。だから神は「陰府(よみ)」にも存在する。「陰府」というのは、聖書の原典ではギリシア語「ΑΙΔΗΣ(アディス)」、ヘブライ語「שאול(シェオール)」という言葉で、物理的・肉体的に死んだ人間が、神の裁判を受けるために待機している場所のことであり、来たるべき神の裁判(福音の弁明と立証54-82参照)を待つ死者の世界のことである。陰府は目に見えない場所・世界であるが、神は霊であるから陰府にも存在するのである。
33またここで「御顔」・「御手」と記されている言葉は、原典を直訳すれば、それぞれ「あなたの顔」・「あなたの手」である。しかしこの記述から、神が人間と同じような物質的・肉体的な顔と手を持っていると考えてはならない。もし神が物質的・肉体的な顔と手を持っているのであれば、それは必ず滅び去らなければならないし、空間的に全ての場所に存在するということはあり得ない。だから「あなたの顔」・「あなたの手」というのは、物質的・肉体的なものではなく、霊的なものである。それでは「あなたの顔」・「あなたの手」とは一体何か。なぜ聖書は、霊的存在である神について、物質的存在である人間の身体に関する表現を敢えてするのだろうか。34私は、「あなたの顔」という表現で、神にも人間と同じように喜怒哀楽や好悪の感情があるということを示しているのだと考える。顔は感情や心の窓である。私達は人間同士の関係の中で、その人の顔の表情から、その人が喜んでいるのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、楽しんでいるのか、自分に対して好意を持っているのか、嫌悪感を持っているのか、その人の感情や心を知ることができる。実際、神に喜怒哀楽や好悪の感情があることについて聖書は次のように語っている。
「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(創世記6章5節)
「しかし、ノアは主の好意を得た。」(創世記6章8節)
「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト記20章5-6節)
「主はモーセに言われた。『わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼等に対して燃え上がっている。わたしは彼等を滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。』モーセは主なる神をなだめて言った。『主よ、どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。』主は御自分の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。」(出エジプト記32章9-12,14節)
「主はモーセに言われた。『わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだ』」(出エジプト記33章17節)
「主はソロモンのこの願いをお喜びになった。神はこう言われた。『あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。』」(列王記上3章10-11節)
「主は御自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。」(歴代誌下36章15-16節)
35また「あなたの手」という表現で、神は人間と同じように仕事や作業をして働かれているということを示しているのだと私は考える。私達人間は生活のために働く時、主に手を使う。手を使わなければ、殆どの仕事や作業はできないだろう。聖書には、神が天地万物を創造し、人間を創造し、男性と女性に創造したこと(創世記1章)や、神が結婚を創造したこと(創世記2章)が書かれている。また神が洪水を起こして、神と共に歩む人、神に従うノアを救い、堕落と不法の中にいる人、神に逆らう人を全て滅ぼしたこと(創世記6-8章)、神が海の水を分け、元に戻すことによって、神に従うモーセとイスラエルの民を救い、神に逆らう頑迷なファラオとその軍勢を一人残らず滅ぼしたこと(出エジプト記14章)や、神が預言者エリヤと預言者エリシャを通して、偶像バアルに仕えるアハブ王・王女イゼベル・アハブ王家と偶像バアルの預言者・祭司達を、すなわち神に逆らう偶像礼拝者達(福音の弁明と立証55,151,158参照)を滅ぼしたこと(列王記上18-19,21章)(列王記下9-10章)が書かれている。このことから、創造すること、人間を裁くこと、つまり、神に従う人間を救い、神に逆らう人間を滅ぼすことが神の働きであり、神の仕事や作業であると言える。聖書には次のような言葉がある。
「光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。/わたしが主、これらのことをするものである。」(イザヤ書45章7節)
36神は霊であるから物質的・肉体的存在ではない。このように言うと、神は、目に見える物質的世界や肉体的存在である人間とはかけ離れた全く関係のない存在、超然とした存在、冷淡な存在であると感じる人がいるかも知れない。しかしそうではない。主は「熱情の神」(出エジプト記20章5節)である。「あなたの顔」「あなたの手」という表現で、霊的存在である神が、目に見える物質的世界を創造し、現在も積極的に手入れをなさっている方であり、とりわけ肉体的存在である私達人間に強い関心を持ち、人間に対して喜怒哀楽の感情があり、好悪の感情に従って人間を救ったり人間を滅ぼしたり、常に人間に対して働きかける方であるということが分かる。実際、神はモーセを通して私達人間に対して次のように語っているのである。
「見よ、わたしは今日、あなた達の前に祝福と呪いを置く。あなた達は、今日、わたしが命じるあなた達の神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなた達の神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じるをそれて、あなた達とは無縁であった他の神々に従う(=偶像礼拝)ならば、呪いを受ける。」(申命記11章26-28節)
「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じる通り、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕える(=偶像礼拝)ならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなた達は必ず滅びる。」(申命記30章15-18節)

37人間は存在すると言っても、「○年○月○日○時に」「○○という場所に」存在するというように、必ず条件づけられている。無条件に存在するということはあり得ない。しかし神の存在は時間的にも空間的にも制約されない(福音の弁明と立証163参照)。神は無条件に存在するのである。神こそ真の存在であり、存在そのものである。まさに「わたしはある。わたしはあるという者」なのである。神に比べれば私達人間は存在しているようで実は存在しない。不確実な存在、偽りの存在である。
しかしこのように、条件づけられた存在、存在しているようで存在しない人間にも、今や、無条件に存在するが開かれ、示されているのである。その道というのは、神と共に歩む道、復活永遠の命にあずかる道である。38主イエスは次のように語っている。
「イエスは言われた。『死者が復活することは、モーセも〈柴〉の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。全ての人は神によって生きているからである。』」(ルカによる福音書20章37-38節)
この言葉から、主イエスが復活をどのように理解していたかが読み取れる。
〈柴〉の箇所というのは先に私達が見た、出エジプト記3-4章に記された、モーセが燃え尽きない柴に近づいて神と出会う場面である。そこには次のように記されている。
「神は言った。『私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』」(出エジプト記3章6節)
ここでは神が「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」と語られているが、主イエスはこれについて「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と語る。つまり、アブラハム、イサク、ヤコブは死んだ者ではなく、生きている者であると断言するのである。客観的・物理的に見れば、すでにアブラハム、イサク、ヤコブは死んでしまっているにもかかわらず。39そして主イエスは「死者が復活することは」と語り始めていることから、アブラハム、イサク、ヤコブは復活していると言っているのである。アブラハムもイサクもヤコブもイスラエルの民の父祖・族長であって、信仰の模範者である。因みにイスラエル(福音の弁明と立証148参照)というのはヤコブの別名(創世記32章29節,35章10節)でもある。創世記に詳しく記されているが、彼等は神を信じたことで、神に正義であると認められ、神に知られ、生涯を通じて神を呼び求めながら、信仰によって神との関係を築きながら、神と共に歩んだ人達である。復活しているというのは、彼等が信仰によって、肉体的な命・物理的な命から、実存の命・永遠の命へと移され、彼等の存在は神の存在と一つになっているということ、彼等は条件づけられた存在から無条件の存在へと移されているということなのである。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表現は、このことを意味している。だから彼等は客観的・物理的に見れば死んでいても、復活しており、神と共に生きており、神と共に存在しているのである。40そして主イエスは復活にあずかることについて、アブラハム、イサク、ヤコブだけに限定していない。最後に「全ての人は神によって生きている」と語ることによって、復活と永遠の命にあずかる道、神と共に歩む道、無条件に存在する道は、全ての人に開かれていると言っているのである。聖書の別の箇所に次のような記述がある。
「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、実際、神は私達一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんの内のある詩人達も、〈我らは神の中に生き、動き、存在する〉〈我らもその子孫である〉と、言っている通りです。私達は神の子孫なのです』」(使徒言行録17章22,27-29節)
この記述から、使徒聖パウロも、全ての人は神によって生きていること、復活と永遠の命にあずかる道、神と共に生きる道、無条件に存在する道は全ての人に開かれていると言っていることが分かる。また彼は別の箇所で、
「神は、私達を怒りに定められたのではなく、私達の主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、私達のために死なれましたが、それは、私達が、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章9-10節)
と語り、神が存在していることを信じ、十字架につけられたイエスを主と信じる人は全て、神の怒りを受けて滅ぼされるように定められたのではなく、復活と永遠の命にあずかり、神と共に生き、無条件に存在するように定められたと言明している。
41また聖書の別の箇所には次のような記述がある。
「私は主をたたえます。/主は私の思いを励まし/私の心を夜ごと諭してくださいます。
私は絶えず主に相対しています。/主は右にいまし/私は揺らぐことがありません。
私の心は喜び、魂は躍ります。/体は安心して憩います。
あなたは私の魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えて下さいます。/私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びを頂きます。」(詩編16編7-10節)
この記述から、復活と永遠の命にあずかるためには「絶えず主に相対」し続けなければならないということが分かる。つまり自分の実存としっかり向き合い続け、神に対する信仰を持ち続け、神を呼び求め続けること、神との関係を築き続けることが大切であるということである。
また聖書の別の箇所には次のような記述がある。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者達に報いて下さる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ人への手紙11章6節)
この記述から、信仰の大切さが分かる。信仰がなければ神に喜ばれることはできない、つまり信仰がなければ神の怒りを受けるように定められ、神に滅ぼされるということである。信仰がなければ、神とは無関係となり、神の存在と一つとなることはできず、神の存在から切り離されてしまい、条件づけられた存在のままであり、実存の死と永遠の死に定められてしまうということである。信仰がなければ、復活と永遠の命にあずかる道、神と共に生きる道、無条件に存在する道は閉ざされてしまうということである。
42また聖書の別の箇所では
「神の内にいつもいるという人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」(ヨハネの手紙Ⅰ2章6節)
とあり、神と共に生きる道、復活と永遠の命にあずかる道、無条件に存在する道を歩むということは、主イエス・キリストの生き方を模範として歩むことであると教えている。私は以前に詳しく書いたが(福音の弁明と立証108-112参照)、主イエス・キリストこそが神の似姿であり、神が人間を創造した目的である。神は私達人間をこの方に向けて創造したのである。

43このように、神が存在するか存在しないかは、実に、人間が本当に存在するか存在しないか、人間が本当に生きるか死ぬかの、実存に関わる本質的で重要な問題である。神が存在しないのであれば、神を呼び求めないのであれば、神との関係を築き上げないのであれば、信仰がなければ、人間は存在しない、全く存在しないのである。
主教聖アウグスティヌスも次のように語っている。
「私の神よ、あなたが私の内におられないなら、私は存在しない――全く存在しないであろう。それよりもむしろ、私は、万物があなたから、あなたによって、あなたの内に存在するのでないなら、存在しないのではなかろうか。まさにそうである。主よ、まさにそうである。」(アウグスティヌス『告白』1巻2章)
44だから私は神と共に、次の聖書の言葉をもって、全ての人に対して、信仰を持ち、神を呼び求め、神との関係を築き上げることを勧めるのである。
「主を尋ね求めよ、見出だしうるときに/呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。/私達の神に立ち帰るならば豊かに赦して下さる。」(イザヤ書55章6-7節)
そして特に若い人に対してこそ、私は、信仰を持ち、神を呼び求め、神との関係を築き上げることを強く勧めるのである。それは神も、次の聖書の言葉を通して示している。
「あなたの青春の日々にこそ、あなたの創造主に心を留めよ。/苦しみの日々が来ないうちに。/『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。」(コヘレトの言葉12章1節)
45誰であれ、信仰を持ち、神を呼び求めるならば、どんな絶望にあっても必ず、神はその人にご自身を現わし、その人と共にいて下さるのである。それは次のように書いてある通りである。
「しかしあなた達は、その所(偶像礼拝が、もはや切り離し難く日常生活に深く浸透してしまっている場所)からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう(福音の弁明と立証3,12,29,36,85参照)。」(申命記4章29節)
また主イエスも次のように、全ての人に向けて語っている。
「私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなた方の中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなた方は悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる。」(ルカによる福音書11章9-13節)
だから父と子と聖霊であるは確かに存在するのである。しかし神の存在をかたくなに否定する人、信仰を持たず、神を呼び求めず、神との関係を築き上げようとしない人は、神が存在しないのではなく、実はその人自身が存在しないのである(福音の弁明と立証54参照)。(次回に続く)

福音の弁明と立証~私の実存と主イエス・キリストとの出会い~

心に悩みのある人を憐れみ、赦すことを喜ばれる神よ、私達の祈りを聞き入れて下さい。私達は皆罪の鎖につながれていますが、深い慈しみによってこれを解いて下さい。とりなし主イエス・キリストのいさおによってお願い致します。アーメン

「神よ、私を憐れんで下さい/御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐって下さい。
私の咎をことごとく洗い/罪から清めて下さい。
ヒソプの枝で私の罪を払って下さい/私が清くなるように。
私を洗って下さい/雪よりも白くなるように。
喜び祝う声を聞かせて下さい/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
私の罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐって下さい。
神よ、私の内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けて下さい。
御前から私を退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないで下さい。
救いの喜びを再び私に味わわせ/自由の霊によって支えて下さい。
私はあなたのを教えます/あなたに背いている者に
罪人が御もとに立ち帰るように。
主よ、私の唇を開いて下さい/この口はあなたの賛美を歌います。」(詩編51編3-4,9-15,17節)

本日16時、横浜聖アンデレ教会で、私は個人懺悔をしました。司式して頂いたのは主教です。そこで私は、悔い改めて(107参照)、自分のを具体的に告白し(30-31参照)、自分の実存(12参照)を覆い隠すことなく公然と明らかにすることによって、神の赦しにあずかりました。
私の告白の後、主教は次のように言いました。「主イエス・キリストは、真実に罪を悔やみ主を信じるすべての人に罪の赦しを告げる権威を、教会に与えられました。私は今、主がゆだねられたこの教会の奉仕の務めによって、父と子と聖霊のみ名により、あなたのすべての罪の赦しを宣言します アーメン」
私を憐れみ、全ての罪を赦して下さった、慈しみ深い神に感謝します。
また私達人間に対して、主イエス・キリストを通して、どんな罪であっても赦される(31,83-86参照)という福音を告げ知らせ続けて下さっている主なる神を、賛美し、ほめたたえます。
私達人間は日常生活において常に自分の実存を覆い隠して歩んでいます。しかし、そのような高慢な態度を神は忌み嫌われます。もし人間が悔い改めず、この高慢な態度を取り続けるならば、神は焼き尽くす火のような激情をもって、その人間に対して怒りを発します(54,91-92,155参照)。神の望まれることは、全ての人が、私のように、悔い改めて神の福音を信じ、高慢な態度を捨てて謙遜な態度を取り、自分の罪を具体的に告白し、自分の実存を覆い隠さず公然と明らかにする事によって、神の赦しにあずかることです。
だから私は全ての人に対して、悔い改めて神の福音を信じ、告白して罪の赦しにあずかり、神と和解して平和を与えられ、救われて永遠の命を得ることをお勧めします。

「実際、告白する心と信仰に生きる生活よりも、あなたの耳に近いものがあろうか。」(アウグスティヌス『告白』2巻3章)
「高慢であるのに、救われるために、神よ、まだあなたによって打ち倒され、打ち砕かれたことのない人々は、私を嘲り笑うがよい。しかし、私はあなたをほめたたえてその御前に、私の恥辱を告白しよう。どうか現在の記憶をたよりに、私の過去のあやまちを再びたどって、あなたに歓びの供え物をささげることを私にゆるして下さい。あなたが存在しなければ、私は自分を破滅の淵に導く者でなくて何であろうか。或いは良い状態にある私もあなたの乳を吸い、あなたという朽ちない食べ物を食べている子供に過ぎないではないか。また何人であれ、人間でしかない人間とは何であろうか。強くて力ある者は、私達を嘲るがよい。しかし弱くて貧しい私達は、あなたに告白しよう。」(アウグスティヌス『告白』4巻1章)

「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」(詩編51編19節)

永遠にいます全能の神よ、あなたは造られたものを一つも憎まず(27参照)、悔い改める全ての罪人を赦して下さいます(31,83-86参照)。どうか私達の内に悔い改めの心を新たに起こして下さい。私達が罪を悲しみ、その災いを悟り、完全な赦しと平和にあずかることができますように、主イエス・キリストによってお願い致します。アーメン

慈しみ深い神よ、あなたは造られた全ての人を愛し(27参照)、罪人が死ぬことを望まれず、主に立ち帰って生きることを喜ばれます。どうかあなたを信じない人々、十字架にかけられたキリストへの信仰を拒む人々をみ心に留め、その気づかないでいることを悟らせ、み言葉を軽んじる心とかたくなな心とを除き、主イエス・キリストに従わせて下さい。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願い致します。アーメン
[2017/8/16]


1 私は2016年11月17日にストーカー規制法違反で逮捕され、20日間拘束・監禁され、略式起訴で罰金30万円の処分を受けました。自分の取った行為については責任があるので、説明責任を果たそうと思います。
今回、私は相手の方に「あなたのことが大好きです」と書きました。残念ながら受け入れては頂けませんでしたが、このメッセージは相手の方に対してだけではなく全ての人に対しても向けたものです。
一部報道で、私が他の人にも同様のメッセージを伝えていたとありましたが、その通りです。 私は軽い気持ちや遊び半分でこのことを行っているのでは決してありません。確信と決意の上でであり、命を懸けています。
私は全ての人の恋人になろうと本気で考えています(88参照)。このように言うと、「それは常識からあまりにもかけ離れている。」とか「非現実的だ。」とか「狂気の沙汰だ。気違いじみている。」と言う人がいらっしゃるかも知れません。しかし人類の歴史上、ただ一人だけ、全ての人の恋人になった人がいます。その人の名前はイエス・キリストです。この方は、人間であると同時にである方です。私はこの方を主であると信じていて、ただ純粋に、主イエスが生きたのと同じように私も生きていきたいのです(8,38参照)。それがたとえ社会から否定される運命であったとしても。自分が殺される運命であったとしても。私は貫き通したいのです。

2 私は先に「全ての人の恋人になる」と言いましたが、この発言について「不特定多数の人と肉体関係を持つ」ことだと解釈する人がいらっしゃると思います。しかしそれは違います。私は人間に過ぎないので、人を好きになることは当然ありますが、生まれてから現在に至るまで、彼女はいませんし童貞です。私はこの生き方を自分の意志で積極的に選択しています。全ての人の恋人となるためには、童貞でなければならないと私は考えるからです。主イエスも童貞でした(25,101参照)。

3 また私を「小児性愛者ではないか」と疑う人もいらっしゃることを知っています。今回、警察の方も同じように疑いました。しかし事実としては以下の通りです。私が逮捕された日、家宅捜索によって私の携帯電話・パソコン・デジタルビデオカメラ・書籍などが押収され、中に入っている動画・画像・インターネットの接続履歴・交友関係などを全てくまなく調べられましたが、該当したり関係したりするものは一切ありませんでした。また私の舌の表面からDNAサンプルも採取されましたが、関係する事件はありませんでした。
もちろん私は人間であり、塵と灰に過ぎないので、自分の中に肉体的欲望、性欲や情欲というような人間の持つ弱さやがあることを告白します。しかし私は自分の弱さや罪というものを全て神に赦されているということも告白します。だから私は常に、感謝しています。このことについて、つまり私がどのようにイエス・キリストと出会い(12,29,36,85/神学の森45参照)、神に罪を赦され、神にされ、神から恵みを受けるようになったかについて、すなわち福音については後で詳しくお話ししたいと思います(12-38参照)。

4 私は成人・未成年に拘わらず、あらゆる売春行為や買春行為、あらゆる猥褻な動画や画像や書籍、また猥褻な発言というものを全て否定しています。私が言う「否定する」の意味は、これらに反対する撲滅キャンペーン運動をしたりとか、これらを規制する法律を新たに作れと主張したりすることではありません。そうではなく、たとえ他者や社会がこれらを是認しているとしても、自分自身はこれらを行わない、持たない、見ない、言わないという意味です。
5 このような私を、自分とは考え方や生き方が全く異なるので「気持ち悪い。」とか「気味が悪い。」と思う人がいらっしゃると思います。
しかし私は次のように考えています。快楽を追求するという事と、幸福であるという事は全く別のことであると。私は幸福でありたい。ただそれだけです(17参照)。
それでは幸福であるとは一体どういうことか?常識的な多くの人は次のように考えるでしょう。「生きている間に、できる限り多くの地位や名誉や財産を追い求めて所有し、自分や自分の家の安心安全や無事安定を確保し、できる限り多くの快楽を味わい享受することである。」と。
しかし私はこのような考えを否定します。なぜなら聖書の中で主イエスは次のように言っているからです。
「富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。」(ルカによる福音書6章24-26節)
6それでは人間にとって幸福であるとは一体どういうことか?私はすでに結論を得ており、確信しています。それは、どのような時も神と共にいるということです。順境であろうと逆境であろうと、人間の作った法律によって無罪とされようと有罪とされようと、生かされようと殺されようと、常に神と共にいるということです。「主に申します。『あなたは私の主。あなたの他に私の幸いはありません。』」(詩編16編2節)と書いてある通りです。
それでは、神と共にいるということは一体どういうことか?それは、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストと同じように生きていくということ、そして同じように死んでいくということです(12,119,150参照)。

7 2016年11月18日に検察官の取り調べがありました。「あなたは相手の方に対して『あなたのことが大好きです。良かったら連絡先を教えて下さい』とカードに書き、そこに自分の連絡先を添えたが、もし相手から連絡先を教えてもらったら、どうするつもりだったのか?」と聞かれました。
私は「その時は教会の礼拝や、私が手伝っている祈りの集いを案内したり誘ったりするつもりでした。」と答えました。
検察官は「恋愛感情があるので、交際する目的ではなかったのか?」と問いました。
私は「交際する事が目的ではありませんが、もちろん交際に発展する可能性はあります。ただ私は今までに女性と交際したことはありませんし童貞です。それなので確実に交際に発展するかどうか分かりません。」と答えました。
検察官は「もし交際することになったら、キスしたりセックスしたりするのか?」と問いました。
私は「交際に発展した場合、キスしたりセックスしたりする可能性はあります。ただセックスについては、私はキリスト信者なので、セックス・イコール・結婚であると考えています(74-77,101参照)。それなので結婚しない限りセックスはしません。もし結婚した場合はセックスします。」と答えました。
検察官は「そうか。私はキリスト信者ではないので、そういう考えじゃない。」と言いました。
私と検察官とのやり取りは録音録画されているので、東京区検察庁に保管されています。

8 私は先にイエス・キリストと同じように生きていきたいと言いました(1,38参照)。主イエスは宣教活動の始め、通りすがりに見かけたぺトロとアンデレに「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイによる福音書4章19節)と言い、彼らをそれまでの日常生活から、神をじ、神を希望し、神をする共同生活へと招きました。私が書いたメッセージには、この主イエスの言葉と同じ意味が込められています。
9そして主イエスと、彼が招いたぺトロやアンデレなど生活を共にした弟子たちとの間に恋愛感情があったのかと問われれば、私はあったと断言します。それはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書の内、特にヨハネによる福音書に繊細な表現で記されているからです。例えば主イエスが十字架で処刑される直前に弟子たちと共に夕食を取った、いわゆる最後の晩餐の時に次のような記述があります。
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父(神)のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネによる福音書13章1節)
「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたの内の一人が私を裏切ろうとしている。』弟子たちは、誰について言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ぺトロはこの弟子に、誰について言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸元に寄りかかったまま、『主よ、それは誰のことですか』と言うと、イエスは、『私がパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。」(ヨハネによる福音書13章21-26節)
また主イエスが死んだ後、復活してティべリアス湖畔で弟子達に現れた時にも次のような記述があります。
「ぺトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食の時、イエスの胸元に寄りかかったまま、『主よ、裏切るのは誰ですか』と言った人である。ぺトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。イエスは言われた。『私の来る時まで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい。』それで、この弟子は死なないという噂が兄弟たちの間に広まった。」(ヨハネによる福音書21章20-23節)
このように主イエスと弟子達との間には確かに恋愛感情はありました。
10しかし「イエスのは神の愛(アガペー)なのであって、人間の愛(エロス)とは違う。だからイエスの愛に、人間の愛に見られるような恋愛感情はない。」と主張する人がいます。なるほどイエスの愛は確かに神の愛であり、人間の愛とは違います。これについては、私も同意します。しかし神の愛に恋愛感情はないということについては、私は全く同意しません。なぜならアガペーはギリシア語ですが、原語の意味に恋愛感情が含まれているからです。先に引用した3箇所のヨハネ福音書に出てくる「愛する」という言葉は全て、ギリシア語原文ではアガパオ(ΑΓΑΠΑΩ)が使われています。アガペー(ΑΓΑΠΗ)と同じ言葉です。アガペーは名詞であるのに対してアガパオは動詞です。このアガパオ(愛する)は、聖書の別の箇所では次のように使われています。
「ダビデの子アブサロムにタマルという美しい妹がいた。ダビデの子アムノンはタマルを愛していた(ΗΓΑΠΗΣΕΝイガピセン=アガパオの過去時制3人称単数形)。しかしタマルは処女で、手出しをする事は思いもよらなかったので、妹タマルへの思いにアムノンは病気になりそうであった。」(サムエル記下13章1-2節)
ここから分かるようにアガパオ(アガペー)には、恋愛感情をも意味していることが分かります。
11それでは神の愛と人間の愛、両方共に恋愛感情が含まれるのであれば一体何が違うのか?それは目指して進んで行くべき方向が違う、到達すべき目的地が違うのです。人間の愛の目的地は、友人関係や恋人関係、夫婦関係や親子関係などであり、相手を愛することにより、それらを目指し、それらに留まろうとします。しかし神の愛の目的地はこれらとは全く違います。それは十字架です。イエス・キリストが示した通りです。神の愛、つまり相手を純粋に真実に愛するということを妥協せずに貫き通せば、純粋ではない人間社会から絶対に受け入れられず、必ず十字架につけられて殺されることになる、しかし敢えてそれを運命として決意し、引き受けるということです。この神の愛について多くの方は理解に苦しむかも知れませんが、私には生々しい実感が強くあります。そして実際に本当にそうであると確信しています。

12 私が「イエス・キリストと同じ生き方、死に方をしたい」(6,119,150参照)とどうしてそんなに熱望し、こだわっているのか、どうしてそれを幸福であると考えているのか、どうしてそんなに彼に魅せられ憧れているのか、疑問に思う方が多くいらっしゃると思います。それは私がイエス・キリストと出会ったからです(3,29,36,85/神学の森45参照)。主イエスはまさに時間と空間を超えて、私の実存に現れて下さったのです。実存というのは俗に言う「素の自分」という意味です。私達はみな日常生活では実存ではなく、程度の差こそあれ必ず何かしらの外向きの自分を装って生きています。例えば親とか子、先生とか生徒、夫とか妻、上司とか部下、この職業とかあの職業などのあらゆる社会的役割の仮面をかぶり、あるいは状況に応じて異なった仮面をかぶり変えながら、それらを演じ、演じ分けながら生きています。いやむしろ、それらを演じ、演じ分けさせられながら生きていると言った方が正しいでしょう。少なくとも私はそう実感します。実存というのは、それらの仮面を全て取り去った素顔の自分、自分の存在にとって自分でない不純な要素を全て取り去った、ありのままの自分です。そして実存というのはもちろん、他者に知られたくない自分、他者には恥ずかしくて秘密にしておきたい自分、他者には触れられたくない生々しい自分の傷口、自分の中の暗闇、俗に言う「黒歴史」を引っくるめた、真実の自分です。
13 私の実存についてお話しします。私は一度、自分の死を味わいました。ここで言う死というのは、単なる物理的・肉体的な死という意味ではありません。実存の死、自分の全存在的な死という意味です。
私のを正直に告白します。私には少年愛、俗に言う「ボーイズ・ラブ」というものがあります。いや、むしろこれは自分の内にあるというよりは、自分の存在の核心です。現在に至るまで。そしてこれは人間の愛の中で私が一番大切にしているものであり、私にとって呼吸するのと同じで自然なことです。これをはっきりと自覚したのは中学・高校生時代です。私は中学校・高校は私立の男子校に通うようになり、クラブ活動は吹奏楽部に所属し、フルートを吹いていました。そこで私は、音楽への愛と人間への愛を呼び覚まされました。
14音楽への愛については、私は勉強そっちのけでフルートの練習と演奏に熱中しました。学業で良い点数を取ることよりも、フルートを上達することの方を優先しました。
人間への愛については、自分の運命が決定されました。私は13歳の時以来クラブ活動での人間関係において、特に後輩達との間に、特別な愛情のようなもの或いは絆のようなものを共有するようになりました。それは童貞者同士の純粋な愛情です。好きな人に対面したときに生じる、あの独特の感覚、胸がドキドキしたり、ときめいたりするので、それは一種の恋愛です。しかし、それは恋愛という枠にとどまらず、ある時は兄弟愛であったり、ある時は友愛であったりします。私にとって、この愛ほど幸福で甘美なものはありませんでした。これが私が先に言った少年愛、「ボーイズ・ラブ」です。私は、この愛の内に生涯ずっと留まりたいと強く思うようになりました。
15しかしこの思いは同時に自分を強く苦しめました。なぜならこの愛は、人間社会では奇異なものとして映り、同性愛とかゲイと呼ばれ、明らかに悪いものと見られるからです。私は自分が同性愛者であると言われることを恐れました。だから自分が留まりたいと希求している愛については誰にも言えず、自分の胸の奥深くに隠していました。しかし私にとって人を好きになることは幸福であるために非常に重要なことです。それで私は自分の魂が引き裂かれました。私が留まりたいと欲する愛は、私に大きな喜びをもたらすと同時に大きな悲しみをもたらすものとなり、私の存在はこの矛盾に引き裂かれました。傷口からは常に流血していました。私が留まりたいと欲する愛は、見捨てられた愛となり、私は引き裂かれた自分の魂を持ち歩きながら、決して見捨てられることのない愛、悲しみのない喜びだけの愛を探すのですが、決して見つからず、出口のない迷路をさまよい続けるのでした。しかし周囲の人間は社会的に成功する事こそ幸福であり人生の目的であると教え、地位や名誉や財産を追い求める競争へと私を仕向け、投げ込むのでした。これに対して私は「社会的成功や地位・名誉・財産などというものは私が求める幸福ではない。ただのごまかしに過ぎない。神はそんな下らない目的のために私に命を与えて下さったのではない。」と思うのでした。
16 そして更に私を絶望の淵に突き落とす出来事がありました。それはマスターベーションです。自分の肉体というのものは、頼みもしないのに勝手に成長していきます。私は18歳の時に、初めてマスターベーションを経験しました。とてつもなく大きな肉体的欲望、性欲や情欲というものが常に私を呼んでいて、私は必死に拒否して振り切ろうとあがくのだけれども、彼等の力は私よりはるかに強く、私を強制的に快楽を貪る行為へと駆り立て、彼等はいつも自分たちの目的を成功させるのでした。私は全く、肉体的欲望や性欲や情欲というものの奴隷に成り下がり(161参照)、行きたくない所へ無理矢理連れて行かれ、本当に悲惨でした。そして誰もこの悲惨な状態から私を救ってくれはしませんでした。マスターベーションという行為によって得られる快楽が大きければ大きい程、私は自分の醜悪さ、自分の堕落というものを自分の目の前にまざまざと突きつけられ、自分が破壊されていること、自分が罪を犯していること、自分が留まりたいと希求しているあの愛から遠く離れてしまっていることを強く自覚するのでした。
17 このように私の傷口はますます広がり、私の存在はますます引き裂かれ、もはや回復することは不可能でした。私は死んだのです。傷ついた私は絶望の淵の底でただ救いと癒しを求めて呻き続けました。それ以来、私は生ける屍となり、この人間社会に生きる意味や目的をすっかり見失いました。私はこの時、快楽を享受するという事と、幸福であるという事とは全く別のことであると骨身に沁みて感じたのです(5参照)。
私は不潔な自分、醜い自分を、憎み呪いました。
18 そして私と同じように、本当はマスターベーションやそれ以上の醜い行い、不潔な行いをしているのに、罪を犯しているのに、日常生活では仮面をかぶり、それらが一切無いかのように振る舞い、平然と淡々と傲然と生きている周囲の人間を、憎み呪いました。
人間社会そのものを、憎み呪いました。
「どうして、人が清くありえよう。
どうして、女から生まれた者が正しくありえよう。
神は聖なる人々をも信頼なさらず
天すら、神の目には清くない。
まして人間は、水を飲むように不正を飲む者
憎むべき汚れた者なのだ。」(ヨブ記15章14-16節)
私の気持ちは、まさにこのようなものでした。

19 ここで私がマスターベーションをだとしていることについて、抵抗を感じ「いや、そうではない」と主張する方がいらっしゃると思います。確かに人間の作った法律や人間の裁判ではマスターベーションは犯罪とされません。しかし神の裁判ではマスターベーションは罪です。しかも永遠の死に値する罪です。私たち人間は、地上で生きている間の行いや生き方に応じて、すなわち実存について一人一人が定められた時に必ず神の裁判を受けることになります。あなたが神を信じる信じないに関わらず。この神の裁判については後で詳しくお話ししたいと思います(54-82参照)。
20よく「マスターベーションは肉体の成長に伴って生じる自然現象なのだから罪悪感を持つ必要はない。性の処理というものは必然的な生理現象であるから罪悪感を持つ必要はない。」と言う人たちがいます。この意見はいわゆる学識者とか専門家と呼ばれる人たちの意見であるし、人間社会の大多数の人たちの意見であるし、世間一般の社会通念、世論であると言っていいでしょう。
しかし私は決してそうは思いません。この説は嘘です。むしろ人間社会に害毒を撒き散らす疫病のような邪説です。なぜならマスターベーションが不潔で醜悪な行為であることに変わりはないからです。そして私が、「罪悪感を持つ必要はない」というこの説を聞いた時、「実際、実存の死に瀕しているというのに、何をこの人は的外れなことを言っているのだろう。空虚だ。どこに立って発言しているのだろう。私が味わっている苦痛や悲惨を全く理解しようとも共感しようともしていない。」と感じ、自分には全く響かず、絶望したからです。
21「罪悪感を持つ必要はない」と言う人たちは、実存の死というものに対して驚くほど無頓着であり、周囲には実際、生ける死屍が累々としているのにそれが全く見えていません。或いは見ようとしません。
「罪悪感を持つ必要はない」と言う人たちは、自分の発言が子供にとって何の救いにも何の癒しにもなっていないということに気づくべきです。
「罪悪感を持つ必要はない」と言う人たちは、これまで不潔な行為や醜悪な行為を繰り返して年を重ねた結果、感覚が鈍くなるか麻痺して、少年時代に持っていた感覚を失ってしまっているのだろうと思います。
「罪悪感を持つ必要はない」と言う人たちは、実はその言葉を子供に向けて言っているのではなく、自分に向けて言っているのだと思います。自分がこれまで行ってきた不潔な行為や醜悪な行為について自己弁護し慰めようと、自分を安心させようと、自分に向けて言っているのだと思います。
「罪悪感を持つ必要はない」という言葉は実に、子供を滅ぼしています。子供を殺しています。私は自分と同じような実存の死を子供に味わわせたくはありません。だから私は子供を守ろうと強く思います。そして私は言います。
「マスターベーションは罪である。だから努めて避けるようにしなければならない。」と(25参照)。
22 マスターベーションが罪であることの聖書的根拠は2つあります。
1つ目は割礼です。神は、御自分が愛し選んだ民である、アブラハムと彼の子孫に次のように言います。
「神はアブラハムに言われた。『だからあなたも、私の契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、及びあなたの後に続く子孫と、私との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子は全て、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、私とあなたたちとの間の契約のしるしとなる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。私の契約を破ったからである。』」(創世記17章9-11,14節)
このように割礼は神と神に従う人間との間の契約のしるしです。そして割礼は単なる儀式ではなく、具体的には男子の包皮の部分を切り取るという行為から、明らかにマスターベーションを行えなくする、避けるようにするという実際上の意味があります。これに対して無割礼の男、すなわちマスターベーションを避けないで是認する者は、神との間の契約を破る者であり、神に従わない人間、神に逆らう人間、神が嫌悪する人間ということになります。
23しかしイエスを信じるキリスト者は私を含め割礼を受けていません。なぜなら使徒聖パウロが次のように言っているからです。
「私パウロはあなた方に断言します。もし割礼を受けるなら、あなた方にとってキリストは何の役にも立たない方になります。」(ガラテヤの信徒への手紙5章2節)
それは「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤの信徒への手紙5章6節)と考えるからです。それではキリスト者はマスターベーションを是認しているのかと言うと、決してそうではありません。
242つ目の聖書的根拠です。次の主イエスの言葉です。
「あなた方も聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。淫らな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」(マタイによる福音書5章27-30節)
ここで言う「右の手があなたをつまずかせる」行為というのがマスターベーションであり、主イエスは右手を切り取って捨ててでも、絶対にこれを避けなければならないと教えています。なぜならこの行為を避けなければ「全身が地獄に投げ込まれる」、すなわち神の裁判永遠の死という有罪判決が下るからです。このようにキリスト者は、肉に割礼を受けていなくてもマスターベーションを忌避するという精神が生きており、心に真の割礼を受けています(76-77参照)。
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマの信徒への手紙2章28-29節)と書いてある通りです。
25繰り返して言います(21参照)。「マスターベーションは罪である。だから私達は努めて避けなければならない。」
それでもまだ「罪悪感を持つ必要はない」と言う人がいらっしゃれば次の聖書の言葉がその人に実現したのです。
「神に逆らう者に罪が語りかけるのが
私の心の奥に聞える。
彼の前に、神への恐怖はない。
自分の目に自分を偽っているから
自分の悪を認めることも
それを憎むこともできない。
彼の口が語ることは悪事、欺き。
決して目覚めようとも、善を行おうともしない。
床の上でも悪事を謀り
常にその身を不正な道に置き
悪を退けようとしない。」(詩編36編2-5節)
私はそのような人から主イエスと共に子供を守ろうと強く思います(2,101参照)。主イエスは言います。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。私の名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである。しかし、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。」(マタイによる福音書18章3-7節)

26「どうして、人が清くありえよう。
どうして、女から生まれた者が正しくありえよう。
神は聖なる人々をも信頼なさらず
天すら、神の目には清くない。
まして人間は、水を飲むように不正を飲む者
憎むべき汚れた者なのだ。」(ヨブ記15章14-16節)
私の気持ちは、まさにこのようなものでした。
27しかしそれでも私は自殺をしようとか、テロ行為のように他者を殺そうとは思いませんでした。私は赤ちゃんの時に洗礼を受けてキリスト者となり、教会には幼い頃から通っていて、神が存在することだけは信じていました。だから絶望の淵にいる、このように罪深くて悲惨な私であっても、神はきっと何か理由があって、この人間社会に送り出しているのだろうと思いました。聖書に次のように書いてあります。
「全能のゆえに、あなたは全ての人を憐れみ、
回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するもの全てを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存在し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、全てはあなたのもの、
あなたは全てをいとおしまれる。
あなたの不滅の霊が全てのものの中にある。
主よ、あなたは罪に陥る者を少しづつ懲らしめ、
罪のきっかけを思い出させて人を諭される。
悪を捨ててあなたを信じるようになるために。」(知恵の書11章23節-12章2節)
28 だから、神が自分に求めていることは何か、私はどのように生きていけばよいか、私が生きる意味とは何か、本当の愛とは何か、決して見捨てられることの愛とは何かを祈りつつ、心の底から尋ね求めるようになりました。主イエスは言います。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイによる福音書7章7-8節)
29それで私は聖書を貪るように読みました。すると神は私に答えて下さり、私は受け、見つけ、私に門は開かれました。私は本当にイエス・キリストと出会いました(3,12,36,85/神学の森45参照)。そして私が尋ね求めていた答えが本当に見つかったのです。私は救われ、癒され、歓喜しました。
「主は言われた。『人の子よ、私が与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』私がそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」(エゼキエル書3章3節)
「あなたの御言葉が見出された時、私はそれを貪り食べました。あなたの御言葉は、私のものとなり、私の心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。私はあなたの御名をもって呼ばれている者です。」(エレミヤ書15章16節)
30 聖書に次のように書いてあります。
「主よ、あなたがを全て心に留められるなら
主よ、誰が耐え得ましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。」(詩編130編3-4節)
「論じ合おうではないか、と主は言われる。
たとえ、お前たちのが緋のようでも
雪のように白くなることができる。
たとえ、紅のようであっても
羊の毛のようになることができる。」(イザヤ書1章18節)
告白いけにえとしてささげる人は
私に栄光を輝かすであろう(99参照)。
を正す人に
私は神の救いを示そう(107参照)。」(詩編50編23節)
31主よ、私のこの告白犠牲いけにえをお受け下さい(40,151参照)。私が犯したをことごとく赦して下さい。私があなたに感謝賛美をささげるようになるために。あなたの望まれる、正しい道を、私にお示し下さい。そしてあなたの望まれる道、正しい道を、私が歩むことができるようにして下さい。主イエスは言います。
「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦される。」(マタイによる福音書12章31節)
「人の子(イエス)が地上で罪を赦す権威を持っている事を知らせよう。」(マタイによる福音書9章6節)
私はイエスが主であると信じて既に洗礼を受けています。だから私が行ったあらゆる不潔な行為や醜悪な行為は全て赦されたのです。私は救われ、癒されました。だから私は神に感謝しています。
32 そして私は本当のとは何か、決して見捨てられることのない愛とは何かを尋ね求めました。すると主イエスが一番大切にしていた次のメッセージが心に響きました。
「一人の律法学者が尋ねた。『あらゆる掟の内で、どれが第一でしょうか。』イエスはお答えになった。『第一の掟は、これである。〈イスラエルよ、聞け、私達の神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。〉第二の掟は、これである。〈隣人を自分のように愛しなさい。〉この二つにまさる掟は他に無い。』」(マルコによる福音書12章28-31節)
33この主の言葉によって、私は自分が自分を憎み呪っていること、周囲の人間を憎み呪っていること、人間社会を憎み呪っていることを間違いだと気づきました。たとえ人間がどんなに不潔で、どんなに醜悪な存在であったとしても、憎んだり、呪ったりするのは間違いで、愛さなければならないのだと教えられました。使徒聖パウロも次のように教えています。「信仰と、希望と、、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。愛を追い求めなさい。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ13章13節-14章1節)
34 そしてもう1つ、今まで私は人間を愛するという事だけを求めてきたのだけれど、本当のに到達するためには人間だけでなく神を愛するという事しなければならないと思いました。実際主イエスも人間への愛は「自分のように」としているけれども、神への愛は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」としていて、人間への愛よりも神への愛の方がずっと激しくあるべきなのだ、全身全霊を懸けたものであるべきなのだということを私は教えられました。何よりも神を愛し、そして人間を愛する、これが本当の愛なのだと思い知らされました。35それでは神を愛し人間を愛する、実際に、具体的に、どのように愛すればよいのか、私には分からず、その答えを尋ね求めました。すると私はある1つのことに気がつきました。神を愛し人間を愛するという一番大事な主イエスの教えは四福音書の内、マタイ、マルコ、ルカには記されているけれども、唯一ヨハネだけには記されていないということです。一番大事な教えなのに、なぜヨハネだけに無いのか私は疑問に思いました。それで注意深くヨハネによる福音書を読んでいくと大きな発見がありました。それは神を愛し人間を愛するということが、別の表現で記されているということです。十字架にはりつけにされる前に主イエスは弟子達に次のように言いました。
「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。」(ヨハネによる福音書15章12節)
「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)
「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛してきた。私の愛に留まりなさい。私が父の掟を守り、その愛に留まっているように、あなた方も、私の掟を守るなら、私の愛に留まっていることになる。」(ヨハネによる福音書15章9-10節)
「私があなた方にした通りに、あなた方もするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネによる福音書13章15節)
36これらの言葉は、神を愛し人間を愛するということを、別の表現ですが、実は同じ内容を伝えているものです。これらの言葉から私は、神を愛し人間を愛するとは、実際に、具体的に、どのようにすればよいかということを、主イエス御自身が私達人間に対して、その生き方、愛し方で示している、お手本を示しているのだということに気がつきました。
このことに気がついた時、私は本当にイエス・キリストに出会いました(3,12,29,85/神学の森45参照)。その時突然、私の目からうろこのようなものが落ちました。私はそれまで気がつきませんでしたが、私がずっと希求していた、あのが、主イエスと弟子達の内にあるではないか、ということを発見したのです。過越祭の前、最後の晩餐の場面、主イエスと弟子達との間の、あの愛です(9参照)。ティベリアス湖畔での場面、復活した主イエスと弟子達との間の、あの愛です(9参照)。驚きであり、歓喜しました。それまで恋愛感情を伴った人間の愛というものは1人の男性と1人の女性との結婚という形でしか成就しないのだと思っていた私に、主イエスが現われて「決してそうではない。あなたが希求している愛は、私が地上で弟子達に示した愛の内に形として成就している。」と教えてくれたのです。このように主イエスと出会った時から、私の希求していた愛は、見捨てられた愛ではなく、決して見捨てられることのない愛となり、悲しみのない喜びだけの愛となりました。
37私は、私の内に実存の死で死んでいましたが、主イエスの内に実存の命を発見したのです。そしてこの実存の命に復活して生きる希望を持つようになったのです。人間は決して私を救うことはできませんでしたが、神は本当に私を救って下さったのです。次の聖書の言葉は真実です。
「事実、あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソの信徒への手紙2章8節)
「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力は無い。」(詩編146編3節)
「人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」(イザヤ書2章22節)
「人間の与える救いは空しいものです。」(詩編60編13節)
救いは主のもとにあります。」(詩編3編9節)
「主を避けどころとする人を、主は救って下さる。」(詩編37編40節)
「主はこう言われる『私をおいて神は無い。正しい神、救いを与える神は、私の他には無い。地の果ての全ての人々よ、私を仰いで、救いを得よ。私は神、他にはいない。』」(イザヤ書45章21-22節)
38まさに主イエスは私のために「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家には住む所がたくさんある。もし無ければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったではないか。」(ヨハネによる福音書14章1-2節)という御自分の言葉を本当に実行し、私のために本当に場所を用意して下さったのです。私はこの時、主イエスをじよう、彼を希望しよう、彼をそう、彼の愛に応えよう、彼の掟を守ろう、彼の愛に留まろう、彼と同じような生き方をしよう、彼と同じように実行しよう、彼に全てを賭けようと固く決意したのです(1,8参照)。まさに主イエスの語った次のたとえが私に実現したのです。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイによる福音書13章44-46節)
39 そして私は本当のとは何かについて、主イエスから教わりました。彼は言います。
「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネによる福音書10章11節)
「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛は無い。」(ヨハネによる福音書15章12-13節)
40「命を捨てる」こと、これは主イエスの十字架を意味します。本当の、正しい愛というのは十字架なのです。私達人間の愛というものは、好きな人を愛するといっても、必ず自分にとってプラスを選ぶものであり、功利的、打算的です。「あの人を愛するよりは、この人を愛する方が自分にとって得だ」と考えたり、自分の肉体的欲望や自分の快楽のためだったり、自分の子供を得たり自分の家庭を築くためだったり、自分の孤独を解消したり自分の生活の利便性や安定性のためだったり、自分の収入や自分の財産のためだったり、自分の世間体や自分の名誉のためだったりします。それどころか自分にとってマイナスになる場合は好きな人を鞍替えしたり、自分にとってマイナスとなるのを見るや否や好きな人を裏切って自己保身のために逃げたりします。
これに対して十字架、本当の愛は違います。好きな人を愛します。徹底的に純粋に。そして好きな人のために自分にとって徹底的なマイナスを選ぶのです。好きな人のために犯罪人という侮辱を引き受け、自分の命を捨てるのです。つまり人間社会のために、自分を犠牲として、自分をいけにえとして、自分を差し出すこと、それが十字架、本当の愛なのです(31参照)。
41 ヒッポ主教聖アウグスティヌス(354-430年)は、について鋭く考察し、現代に生きる私達に非常に示唆的な考え方を残してくれています。彼は「物事を正確に判断する人は正しく聖く生きる。このような人は秩序づけられた愛を持っている。こういう人は愛してはならないものを愛することのないように、愛すべきものを愛さないことがないように、より少なく愛すべきものをより多く愛することがないように努めるべきである。」(アウグスティヌス『キリスト教の教えDE DOCTRINA CHRISTIANA』1巻27章)と言っています。原文はラテン語ですが、「秩序づけられた愛(オルディナータ・ディレクティオORDINATA DILECTIO)」という言葉を使い、愛の秩序という考え方を私達に提示します。この愛の秩序という考え方は私達人間にとって非常に重要です。全人類、人間社会の諸悪の根源は、この愛の秩序が狂っていることにあります。全ての人間は何よりも先ず神を愛さなくてはならない、全ての人間の愛は、本当の愛、十字架を最重要なものとして秩序づけられなくてはならないのです。
42私達は例えば、同性愛を不正なものと決めつけようとしたがるし、或いは小児性愛を不正なものと決めつけようとしたがります。しかしそれでは異性愛は完全に正しいと言い切れるのでしょうか?成人性愛は完全に正しいと言い切れるのでしょうか?私は断言します。同性愛も異性愛も、小児性愛も成人性愛も、そのままでは正しくありません。大切なのは愛の秩序です。同性愛だろうと異性愛だろうと、小児性愛だろうと成人性愛だろうと、あらゆる人間のは全て、本当の愛、十字架を中心にして、最重要なものとして秩序づけられた時に初めて、正しい愛、完全な愛、聖なる愛となるのです。そして人間の愛が全て、本当の愛、十字架に正しく秩序づけられて完全な愛となることが、神が人間に対して望んでいることなのです。
43実際、主イエスは次のような大胆な言葉も残しています。
「はっきり言っておく。裁きの日には、この町(主イエスの派遣する弟子達が伝える福音を受け入れずに拒否する町)よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」(マタイによる福音書10章15節)
「お前(主イエスの奇跡を見ても悔い改めなかった町カファルナウム)のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったに違いない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」(マタイによる福音書11章24節)
「言っておくが、かの日には、その町(主イエスの派遣する弟子達が伝える福音を受け入れずに拒否する町)よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」(ルカによる福音書10章12節)
44創世記19章に記されたソドムは、性的交渉を伴う同性愛のゆえに神の怒りで滅ぼされた町ですが、主イエスは性的交渉を伴う同性愛の罪よりも、悔い改めずに(107参照)福音を受け入れない罪の方がもっと重いと言っているのです。更には性的交渉を伴う同性愛の罪でさえ悔い改めて福音を受け入れれば赦されるとも言っているのです。
使徒聖パウロもコリントの教会の信徒達に宛てて、実際次のように言っています。
不正な人神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。売春する者、偶像を礼拝する者(55,151参照)、姦淫するもの、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことはできません。あなた方の中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名と私達の神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、正しくされています。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ6章9-11節)
45 しかし何と不幸なことでしょう。実際、絶望的に、人間社会では、この愛の秩序が狂っているのです。私達は日常生活において、この愛の秩序が狂っていること、愛が正しく秩序づけられていないことに、ほとんど全く気づくことができないのです。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知り得ようか。」(エレミヤ書17章9節)と書いてある通りです。次の主イエスの言葉は、私達の愛の秩序が狂っていること、正しく秩序づけられていないことを気づかせてくれます。
「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイによる福音書10章37-39節)
これを聞いて抵抗を感じた人は実際、愛の秩序が狂っているのです。しかし自分の父も自分の母も、自分の息子も自分の娘も、ひいては自分の命でさえ全て神から与えられたということを考えれば、納得できると思います(64-65参照)。
46 巷には自分がいかに多数の女性とセックスしたか、その経験人数を自慢する人がいます。それが彼の誇るものです。彼は人を愛する時に自分にとってプラスを選びます。そして彼は人間の作った法律では合法的な人です。私はそのような話しを聞く度に嫌悪感を覚え、耳を塞ぎたくなるのですが、彼が自慢して誇っている事が、実は恥ずべき事であり、神の裁判の際、永遠の死の刑罰に定められるべき罪であるのにそれを恐怖しない彼の鈍感に、かえって彼に対して憐れみを覚えるのです。
47私は彼のような生き方を真っ向から否定します。私は神を愛し人を愛する生き方、主イエス・キリストが人を愛したのと同じように人を愛する生き方、本当の十字架を頂点に秩序づけた愛を模範とする生き方を貫き通したいと思います。
「この私には、私達の主イエス・キリストの十字架の他に、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤの信徒への手紙6章14節)
「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。私は、神の恵みを無にはしません。」(ガラテヤの信徒への手紙2章19-21節)
「もし、私達がキリストと一体になってそのの姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマの信徒への手紙6章5節)
「私は主をする。
主は嘆き祈る声を聞き
私に耳を傾けて下さる。
生涯、私は主を呼ぼう。
あなたは私の魂を死から
私の目を涙から
私の足を突き落とそうとする者から
助け出して下さった。
命あるものの地にある限り
私は主の御前に歩き続けよう。
私は信じる
『激しい苦しみに襲われている』と言う時も
不安が募り、人は必ず欺く、と思う時も。
主は私に報いて下さった。
私はどのように答えようか。
救いの杯を上げて主の御名を呼び
満願の献げ物を主に献げよう
主の民全ての見守る前で。
主の慈しみに生きる人のは主の目に値高い。」(詩編116編1-2,8-15節)


48 ところで正しい人とは、どんな人間でしょうか?恐らく多くの人は人間の作った法律をきちんと守る合法的な人であると考えるでしょう。
しかし私はそうは思いません。
先ず人間の作った法律が、正義であるのかという問題です。民主主義なので日本では法律は立法府である国会や地方議会において多数決によって決められます。それでは意見の多寡が正義を決めるのでしょうか?多数意見の決定は常に必ず正義と言えるのでしょうか?人間の歴史を見れば分かりますが、それは言えないと思います。むしろ多数意見の決定が正しくなかったという例はいくらでもあるからです。だから多数意見の決定は正義なのではなく、正義は分からないが一応正義ということにしておきましょうという取り決めであり合意です。また国会や地方議会で法律が生まれる過程を見ても、人間同士・団体同士の様々な要求や思惑、様々な策略や陰謀、利害関係の対立や調整、妥協や強行など、また気紛れな世論への迎合や更には外国からの圧力などを経て決められます。果たして、そこで決められるのが正義なのでしょうか?また法律には改正があります。改正を前提としているならば、現在の法律は既に不正であるということを暗に証明しているようなものです。社会状況や、その時その時の人間の都合によって、コロコロ変わったり、新たに生じたりするようなものは、もはや正義ではありません。もちろん人間の作った法律は人間社会の日常生活に必要です。私が言いたいのは、人間の作った法律というものは何ら正義とは関係がなく、ただ人間社会を管理運営していくために必要な道具、日常生活に必要な方便に過ぎないということです。
49 次に正しい人とは一体何かという問題です。正しい人とは何かについて古代ギリシアの哲学者プラトン(前469-399年)は衝撃的な考察をしています。彼は「正しい人(ディケオスΔΙΚΑΙΟΣ)」と「不正な人(アディコスΑΔΙΚΟΣ)」とを対置して考えを展開していきます。彼は不正な人については、「不正の極致とは、実際には正しい人ではないのに、正しい人であると思われることだ。」(プラトン『国家ΠΟΛΙΤΕΙΑΣ』361a)と言います。また正しい人については、「正しい人を想定するならば、〈思われること〉を取り去らなければならない。」(『国家』361b)と言います。つまりプラトンは正しい人について、実は、本質の全く異なる2種類の人がいると言っているのです。一方は「正しい人であることを求める人」、もう一方は「正しい人であると思われることを求める人」です。そして彼は、正しい人であると思われることを求める人は不正の極致だと言うのです。正しい人の中に最大の不正な人がいると言うのです。その通りだと思います。正しい人であると思われることを求める人というのは、自分の実存を覆い隠し、自分の実存とは異なる「正しい人」を演じる人です。彼は自分の実存が正しくあるようには決して求めず、あくまでも自分の実存とは違う「正しい人」を演じ、正しい人であると思われること、正しい人であると見られることを追い求めるのです。それは最大の不正な人です。もう一方の正しい人であることを求める人というのは、本当に正しい人です。自分の実存が正しくあることを求める人です。私がそうです。そしてプラトンは言います。「正しい人は、はりつけにされるだろう。」(『国家』361e-362a)その通りだと思います(63参照)。50人間の作った法律を、自分を正しく見せるために利用して「ここまではセーフ、ここから先はアウト」などと常に物事を功利的、打算的に考え、うまく世を渡って行くことだけしか考えないのは、純粋な人間のあり方として不潔で卑しいし、最大の不正です。私はそのような人間に絶対になりたくありません。いや、むしろなれません。だから私がはりつけにされ、殺されるのは当然です。私が言いたいのは、合法的な人であるという事と、正しい人であるという事は全く別のことであり、両者の間には何の関係もないということです。そして私達は、合法的な人である事を求めるよりも、むしろ本当に正しい人である事を求めるように努めなければならないということです。
51 また人間の裁判は完全でしょうか?例えば殺人事件を考えた時、被害者の遺族は加害者を憎み、加害者に死刑を望みます。もし判決で死刑ではなく懲役が出た場合は、それを不服として死刑を望みます。しかし仮に加害者に死刑を執行したところで事件は解決するでしょうか?被害者の遺族はそれで満足するのでしょうか?そうではありません。殺された被害者が生き返り、殺される前の状態に戻って、帰って来てこそ、本当に事件は解決し、被害者の遺族は満足するでしょう。だから加害者を死刑に処したとしても真の解決には至らず、結局はごまかしであるに過ぎないのです。人間の裁判はこのように限界があり、不完全であり、私達は自分達の無力を思い知らされ、絶望につきあたります。しかし実はこの絶望の先にこそ不朽の希望があるのです。私は全ての人に、この真の希望を伝えます。それは神の裁判です。人間は肉体的・物理的に死んだら、それで終わりなのでは決してありません。人間は死んでも必ず復活します。神の裁判を受けるために。それは主イエスが次のように言うからです。
52「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活してを受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」(ヨハネによる福音書5章28-29節)
だから殺人事件で殺された人も、死刑で殺された人も必ず復活します。神の裁判を受けるために。私達も肉体が死んだ後、必ず復活します。神の裁判を受けるために。そこで私達1人1人は地上で生きている間に行ったこと、闇の中で隠れて思ったこと、言ったこと、行ったこと全てについて責任を問われるのです。あなたが神を信じる信じないに関係なく。聖書に次のように書いてある通りです。
「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ人への手紙9章27節)
「私達は皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けねばならない」(コリントの信徒への手紙Ⅱ5章10節)
「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。」(コリントの信徒への手紙4章5節)
「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、全てのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、私達は自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブライ人への手紙4章13節)
だから私達人間には希望があるのです。私達人間は決して絶望する必要は無いのです。そして、この希望は神を信じること、神への信仰によって実現するのです。
53 正しい人とは一体何か、聖書では何と書かれているでしょうか?次のように述べられています。
正しい人(ディケオスΔΙΚΑΙΟΣ)は信仰によって生きる」(ローマの信徒への手紙1章17節)
実に人間が正しくあるためには信仰が必要なのです。信仰によって生きる人こそ、本当に正しい人、正しい人であることを求める人、自分の実存が正しくされた人なのです。なぜなら信仰によって生きる人は神の裁判の際、正しい人とされ裁かれないからです。「御子(イエス)を信じる者は裁かれない」(ヨハネによる福音書3章18節)と書いてある通りです。

54 しかし信仰が無い人は裁かれることになります。神の裁判では神の戒めを守ったかどうかについて1人1人責任を問われることになります。そしてこの戒めを守らなかった人は死に値する罪を犯した者とされ、神の怒りと憤りを受け、肉体的に生きている時に実存の死を与えられ、神の裁判の時に永遠の破滅、第二の死に定められるのです(158/神学の森37-45参照)。絶対に守らなければならない神の戒めとして十戒があります。神が人間に告げた10の戒めです。それは以下のようなものです。
55第1戒
「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、私をおいて他に神があってはならない。」(出エジプト記20章1-2節)
第2戒
「あなたはいかなる偶像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」(出エジプト記20章4-5節)
これらの2つの戒めは、神以外のものを絶対に神としてはならない、という意味です。これらの2つの戒めは人類にとって最も大切な戒めです。だから10の戒めの内、一番最初に記されています。「偶像」というのは神以外の、全ての拝まれるべき対象のことです。「いかなる偶像も造ってはならない」「それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」という記述を読んで、「金属や石や木などの物質的なもので、人や動物や植物などの形を作って偶像にして、それに向かって礼拝してはならないという意味だろう、だから簡単に守れるだろう」と思う人が多くいらっしゃると思います。しかしそれは大きな間違いです。「いかなる偶像も造ってはならない」、ここでの偶像は人間が作り出すもの全て、ハードもソフトも含めて全てという意味です。だから人間が作ったパソコンなどの機械も、人間が作った社会システムも、人間が作った法律も偶像に含まれます。例えば検察の方や警察の方が、人間の作った法律は不完全だけれどもあくまでも日常生活の道具であり生活のために仕方なく職務に従事しているという自覚があるのならともかく、そうではなくて人間が作った法律を、絶対的な真理であり正義であると信じて神聖化して職務を行っているのであれば、それは人間が作った法律に向かって、あたかも神に向かうかのようにひれ伏し仕えている、すなわち偶像礼拝していることになるので、神の裁判の際は死罪に定められます。私達が普遍的価値観として肯定している「法の支配」、「法治国家」という言葉も、もちろん国家権力の暴走を防ぐ、手続きを大切にするという意味において大いに肯定されますが、無制限に肯定されるとなると、人間の作った法律が神となり、人間は自分達の作った法律の奴隷となってしまうので、その場合私達は神の裁判の際、偶像礼拝する者として死罪に定められます。
56第3戒
「あなたの神、の名をみだりに唱えてはならない。」(出エジプト記20章7節)
この箇所は原文では「あなたの神、יהוהの名をみだりに唱えてはならない」となっています。「יהוה」はヘブライ語で、実は神の固有名詞です。神聖四文字とも呼ばれ、右から左に読みます。聖書の他の箇所でも多く登場します。この「יהוה」はヤーヴェと発音されます。しかし「יהוהの名をみだりに唱えてはならない」という禁止のため、ヤーヴェと発音することが憚られ、事実上発音不可能になり、異なる言葉で発音される必要があり、「」という言葉で読み換えられるようになりました。この戒めはもちろん神の固有名詞を人間が軽々しく発音するのは畏れ多いことだという意味があると思われますが、私はもっと深い意味があると考えます。57つまり人間は、ある固有名詞を頭にインプットして、それを発音したり、それを使って思考したり話したりすると、その固有名詞の示す内容を完全に理解していなくても、その固有名詞をあたかも完全に自分のものにし、完全に理解したと思い込み、所有してしまう傾向がある。しかし神については究極的には人間が完全に理解することはできないはずです。もし人間が完全に神を理解したとすれば、その理解された神はもはや神ではありません。錯覚であり、ただの偶像です。しかし人間は常に神を理解しようとする努力を怠ってはなりません。神は人間からの理解を常に強く求めているからです。「主を求めよ、そして生きよ。」(アモス書5章6節)と書いてある通りです。実に私達は神を求めなければ死ぬのです。だから神という言葉には、常に人間からの理解を激烈に求めると同時に、常に人間からの理解を徹底的に拒否するという相反する矛盾の相があるのです。従って、この第3戒は、神について完全に理解したとか、神を所有したとかいう大きな過ちを犯した場合、神の裁判の際、死罪に定められるという意味だと解します。人間は神を理解し所有する存在なのではなく、人間は神から理解され所有される存在であるというのが正しいのです。
58第4戒
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト記20章8節)
安息日というのは創世記冒頭箇所にある、七日間の神の天地創造記事に因んだもので(神学の森1-25参照)、神は六日の間に天と地と海とそこにある全てのものを造り、七日目に安息してその日を聖別したから、人間も六日の間働き、七日目を聖別し安息しなければならないという戒めです。これは人間が全く休み無く働き通しだと病気になったり過労死してしまうから七日目は絶対に休息するようにという、神の人間に対する憐れみという意味も確かにあると思います。しかし「聖別せよ」という言葉は、神のものとして他から分ける、神専用のものとして特定するという意味です。だから「安息日を聖別せよ」というのは、安息日を神のためだけの専用の日にせよということです。人間は日常生活で学業や仕事、趣味も含めて様々な活動を休み無く続けていくと、社会システムをベルトコンベアーのように惰性的に動かす事だけに汲々として、それ以外は何も考えられなくなっていきます。神を忘れてしまうのです。だから七日目に強いて神のための専用の日を設けることによって、人間が決して神を忘れないようにするという意図がこの戒めにはあります。それがこの第4戒の本来的意図です。だから日常生活や経済活動の維持発展にだけ心を砕き、神を忘れる場合、神の裁判の際、死罪に定められます。
59 安息日は土曜日です。しかしキリスト者は安息日ではなく、その翌日の日曜日を主日として祝います。なぜならイエス・キリスト十字架につけられて殺されて死んだ後、復活した日が安息日の翌日であり、この日に神の人類救済の計画が成就したからです。主イエスは宣言します。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコによる福音書2章27-28節)
60主イエスが地上で生活していた時、ファリサイ派という人々がいました。ファリサイ派は神の戒めをきちんと守り、尊敬され、社会的地位が高く、指導的立場にあった合法的な人々です。その考えは「ルールは守れ。法は守れ。合法的であれ。法こそ正義なのだ。神は法である。違法行為は絶対に赦さない。最高の法である神の戒めを破ったら死罪だ。」というものでした。主イエスは第4戒に「いかなる仕事もしてはならない」とあることから、安息日に仕事をすることは治療行為も含めて違法行為であり、死に値する犯罪行為だとされることを知っていました。そして次のような出来事があります。
「ある安息日にイエスは会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、『安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか』と尋ねた。そこで、イエスは言われた。『あなた達の内、誰か羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。』そしてその人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元通り良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」(マタイによる福音書12章9-14節)
61主イエスの治療行為は人間の力ではなく神の力によるものであり、治療費を取るような営業活動ではありません。そして片手の萎えた人を安息日以外の別の日に治療することもできましたが、敢えてそうはせず、自分が違法行為で死罪に問われるという危険を知りつつも安息日に治療しました。だからファリサイ派の人達から見れば、イエスは故意に第4戒に違反する確信犯であり、非常に悪質な人物だと映りました。なぜ主イエスは自分の身を死の危険にさらしてでも安息日に治療行為を行ったのか?それは片手の萎えていた人を愛していたからです。この出来事から分かるのは、主イエスは法よりもを優先したということです。
62愛よりも法が上なのか?それとも、法よりも愛が上なのか?私はが絶対に上だと確信しています。「神は愛だからです。」(ヨハネの手紙Ⅰ4章8節)もちろんこの愛は正しく秩序づけられた愛であるということは言うまでもありません。主イエスはこの出来事の後も、神を愛し人を愛するという生き方、法よりも愛が上だという生き方を純粋に貫き通しましたそして合法的な人々、ファリサイ派の人々を次のように強く批判しました。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」(マタイによる福音書23章25-28節)
63だから主イエスは当然、十字架にはりつけにされ死刑にされたのです(49参照)。法よりも愛が上だと考えて十字架にはりつけられた主イエス、そして愛よりも法が上だと考えてイエスを十字架にはりつけた合法的な人々。多くの人々はこの光景を見て、イエスが無残にも裁かれているのだと考えます。しかし、それは大きな間違いです。全く逆です。実は裁かれているのは主イエスではなく、イエスを十字架にはりつけた合法的な人々なのです。なぜなら主イエスだけが復活させられて、正しい人とされたからです。神はイエスを選んだのです。ということは、神から選ばれなかった合法的な人々は、不正な者、罪人とされ、死罪を宣告されて裁きを受けているのです。そしてこの十字架の光景は、法よりも愛が上なのか愛よりも法が上なのかあなたはどちらを選ぶのか、神の恵み永遠の命を取るか神の怒り永遠の死を取るかあなたはどちらを選ぶのか、という神からの問いを私達1人1人に対して戦慄と共に常に突きつけ続けているのです。私達はこの神からの問いを避けて逃げることはできません。実に十字架の光景は現在における神の裁判であり、来たるべき神の裁判の予型でもあるのです。
64第5戒
「あなたの父母を敬え。」(出エジプト記20章12節)
父と母を敬わなかったら、神の裁判の際、死罪に定められるという意味です。父母を敬うと聞くと、私達はすぐに親孝行とか親不孝、親への感謝の念とか親に恩返しするとか思い浮かべます。親孝行の孝は孔子の教え、つまり儒教から来ています。第5戒の父母を敬うという内容は確かにそれと重なる部分があるでしょう。しかし江戸幕府によって日本全国に広められ、現在にまで日本人に思想的影響が色濃く残っている、社会秩序の維持安定を目的とした儒教的倫理観とは全く重ならない部分があるのも事実です。例えば主イエスは十字架上で刑死する生き方を選び、自分の母マリアよりも早く死にました。親よりも子供が早く死ぬなどということは江戸時代以来の儒教的倫理観では最大の親不孝者のようです。更に主イエスは次のように発言したりもします。
「イエスは別の人に、『私に従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、先ず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『死んでいる者達に、自分達の死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、先ず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、『鋤に手をかけて後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」(ルカによる福音書9章59-62節)
65主イエスのこの発言は、江戸時代以来の儒教的倫理観では到底受け入れることのできない非情なもののように思われます。しかし主イエスに従おうとした2人の発言を注意すると2人とも「先ず」と言っています。この言葉からイエスよりも父や家族を優先して愛するという2人の態度が明らかになり、2人の愛の秩序が狂っていることが分かります(41-45参照)。
また主イエスの発言に注意すると「死んでいる者達に、自分達の死者を葬らせなさい」という謎めいた言葉がありますが、私のこれまでの話しをよく聴いて下さっている方は分かると思います。主イエスのここで言う「死んでいる者」というのは肉体的には生きているが実存では死んでいる者、永遠の死に定められようとしている者という意味です。
66そして2人に対する主イエスの発言で特に強調しているのが神の国です。神の国を言い広めること、神の国のために働くことこそが、江戸時代以来の儒教的倫理観で父母を敬うことよりも、ずっと大切で、真の意味で父母を敬うことになると言っているのです(124参照)。実に神の国は主イエスのメッセージの核心です。主イエスは宣教の始めに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改め福音じなさい」(マルコによる福音書1章15節)と言い、全ての人を神の国に招いているのです。
67私達の家族というものは、その結び目は肉と血です。例えば肉親とか血筋とか血縁関係などというような言葉に表れています。しかし主イエスが家族というものをどのように考えているのか?次の言葉から知ることができます。
「地上の者を『父』と呼んではならない。あなた方の父は天の父お一人だけだ。」(マタイによる福音書23章9節)
「イエスの母と兄弟達が来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹方が外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『私の母、私の兄弟とは誰か』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。』」(マルコによる福音書3章31-35節)
なぜ主イエスはこのように言うのか?それは血縁関係というものは必然的に自分の父とか自分の子とか自分の家族とか内向きに境界を作ってしまい、その境界の中だけを大事にしてしまうという限界を抱えているからです。主イエスはこの血縁関係の限界を乗り超えなければならないと私達に教えているのです。家族の結び目は肉と血ではなく、であると。68そして主イエスは神の国について次のように言っています。
「はっきり言っておく。人は新たに生れなければ、神の国を見る事はできない。」(ヨハネによる福音書3章3節)
「はっきり言っておく。誰でも水と霊とによって生れなければ、神の国に入る事はできない。」(ヨハネによる福音書3章5節)
使徒聖パウロも次のように言います。
「兄弟達、私はこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことができず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15章50節)
69水と霊とによって新たに生まれるというのは、洗礼のことを指します。人間はイエス・キリストを信じ、洗礼を受ける事によって、罪の赦しを受け、それまで罪にあった古い自分が死に、イエス・キリストにあって新しい自分が生まれるのです。つまり人間はイエスを信じ、洗礼を受ける事によって、死んで新たに生まれ、神の子となるのです。
「キリストは全ての支配や権威の頭です。あなた方はキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中に死んでいたあなた方を、神はキリストと共に生かして下さったのです。」(コロサイの信徒への手紙2章10-13節)
「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤの信徒への手紙3章26-27節)と書いてある通りです。
70そして洗礼を受けた者は、実存の死永遠の死から救われ、実存の命永遠の命を受けて、家族の結び目となるのです。そしてその時、真の意味で父母を敬う関係が成立するのです。
「言(イエス)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネによる福音書1章12-13節)と書いてある通りです。
私は主イエスと共に全ての人を神の国に招く者です。
71第6戒
「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)
「殺してなはらない(ウ フォネフスィスΟΥ ΦΟΝΕΥΣΕΙΣ)」の動詞の原語はフォネヴォΦΟΝΕΥΩで「人殺しをする」「殺人者である」という意味です。人を殺す者は、神の裁判の際、死罪に定められます。私達は日常生活を送る時、大抵の人は「私は人を殺すことなんて絶対に無い」「殺人などという非道な行為は私とは無関係だ」と考えます。しかし果たしてそうでしょうか?世界を見渡せば直接的ではないにしても私達の日常生活は少なからず殺人に関与しています。例えばイラク戦争。米軍と英軍は2003年3月20日にイラクに大量破壊兵器があるとしてイラクを先制攻撃して戦争を始めました。当時の日本の首相はどの国よりも早く、真っ先に米国とイラク先制攻撃の支持を表明しました。約7年以上の戦争の結果、10万人を超えるイラク人が殺されましたが、結局大量破壊兵器はありませんでした。だからこのイラクでの血の責任は当時の首相と与党を支持した日本の有権者にも当然あります。神の裁判でこの血の責任を問われるのは言うまでもありません。現在国際的にテロ行為を主導しているイスラム国ですが、古参の主要構成員にイラク戦争で愛する親族を殺されたイラク人が多数いることを考えると、神の裁判を待つまでもなく、現象面において既に血の責任に対する神の報復が行われていると言えます。「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」(ガラテヤ書6章7節)と書いてある通りです。
72また合法的な殺人はたくさんあります。例えば戦争や紛争、死刑、テロ実行犯に対する射殺、中絶などです。合法的な殺人が存在する理由は、人間社会や自分達の日常生活に危害や損害を与えたから、或いは与えようとしているから、また自分や自分の愛する者達を殺したから、或いは殺そうとしているから、ということに収斂されると思います。
しかしこの第6戒には、何の前提条件も、何の例外規定もありません。私達が殺人について、どのような考え方をするにせよ、神の裁判の際、自分達の日常生活について私達は責任を問われます。
73また第6戒について主イエスは次のように言われます。
「あなた方も聞いている通り、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイによる福音書5章21-22節)
だから実際に人を殺さなくても、心の中で誰かに悪意や殺意を抱いたら、神の裁判の際、死罪に定められます。使徒も次のように言っています。
「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなた方の知っている通り、全て人殺しには永遠の命が留まっていません。」(ヨハネの手紙Ⅰ3章15節)
74第7戒
「姦淫してはならない」(出エジプト記20章14節)
「姦淫してはならない(ウ ミヒェフスィスΟΥ ΜΟΙΧΕΥΣΕΙΣ)」の動詞の原語はミヒェヴォΜΟΙΧΕΥΩで「結婚関係以外でセックスをする」「結婚関係を破壊する」という意味です。結婚を破壊する者、結婚以外でをセックスをする者は男性・女性を問わず、神の裁判の際、死罪に定められます。私は先にセックス・イコール・結婚であると言いました(7参照)。神の裁判では、人間の作った法律によって婚姻届を出す事や、結婚式を挙げる事が結婚であるとは見做されません。セックスが結婚であると判断されます。その聖書的根拠は「人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記1章24節)です。原文では「人」と「妻」も単数形であることから、結婚は一夫多妻ではなく、1人の夫と1人の妻によるものである事が分かります。また「二人は一体となる」を原文に忠実に訳すと「二人は一つの肉となる(ケ エソンテ イ デュオ イス サルカ ミアンΚΑΙ ΕΣΟΝΤΑΙ ΟΙ ΔΥΟ ΕΙΣ ΣΑΡΚΑ ΜΙΑΝ)」となり、「一つの肉」という生々しい表現で明らかにセックスを示しており、これによりセックス・イコール・結婚であることが分かるのです。
75だから、不倫のセックスも、売春のセックスも結婚を破壊する行為とされ、男性・女性を問わず神の裁判の際は死罪に定められます。
また第7戒は当然、遡及効です。人間の作った法律での結婚以前のセックスも遡って、結婚を破壊する行為とされ男性・女性を問わず、神の裁判の際は死罪に定められます。
そして離婚について主イエスは次のように言います。
「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない。妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦淫の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦淫の罪を犯すことになる。」(マルコによる福音書10章6-9,11-12節)
このことから離婚することも離婚相手の存命中に別の人と再婚することも神の裁判の際、死罪に定められることがわかります。
76また第7戒について主イエスは次のように言います。
「あなた方も聞いている通り、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。淫らな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」(マタイによる福音書5章27-29節)
だから心の中でセックスを想像する事、またアダルト動画や猥褻な画像を見る事も、「右の目があなたをつまずかせる」行為であり、既にセックスを行ったもの見做され、神の裁判の際は死罪に定められます(24参照)。
77また俗に言う下ネタを話す事など、猥談も神の裁判のでは死罪に定められます。なぜなら主イエスは次のように言うからです。
「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、売春、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。」(マタイによる福音書15章18-20節)
「人の口からは、心に溢れている事が出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取りだしてくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についても全て、裁きの日には責任を問われる。あなたは自分の言葉によって正しい者とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイによる福音書12章34-37節)(24参照)
78第8戒
「盗んではならない」(出エジプト記20章15節)
盗む者は神の裁判の際、死罪に定められます。ここで言う盗みは、もちろん実際の窃盗行為も含まれますが、実際に盗んでいなくても、私達の日常生活や経済活動で行動原理を完全に利益追求に定め、飽くなきコスト削減や狡猾な偽装を用いて、不当に誰かを搾取する場合も、盗みと見做され、神の裁判の際は死罪に定められます。また日常生活や経済活動において、常に経済的弱者や社会的弱者への配慮を忘れてはならないとも言っています。聖書に次のように書いてあるからです。
「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者達よ。お前達は言う。『新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。』
主はヤコブの誇りにかけて誓われる。『私は、彼等が行った全てのことを、いつまでも忘れない。』」(アモス書8章4-7節)
「穀物を収穫する時は、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。私はあなた達の神、主である。」(レビ記19章9-10節)
79第9戒
「隣人に関して偽証してはならない。」(出エジプト記20章20節)
人間について偽証する者は、神の裁判の際、死罪に定められます。例えばある人を有罪とするために告訴する時や法廷で被告人について証言する時に、外的な行為だけでなく内的な心情や感情についても嘘の証言をしたり、誰かと口裏合わせをして嘘を作って証言をしたりする場合も、神の裁判で死罪に定められます。
80第10戒
「あなたの隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない。」(出エジプト記20章21節)
誰かの所有物を欲しいと思うならば、神の裁判の際、死罪に定められます。主イエスは私達に、どのような貪欲にも注意をしなさいと教えます。次のような出来事が聖書に記されています。
「群衆の一人が言った。『先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言って下さい。』イエスはその人に言われた。『誰が私を、あなた方の裁判官や調停人に任命したのか。』そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』」(ルカによる福音書12章13-15節)
81 そしてこの第10戒で注目すべき事があります。それは息子や娘など子供が隣人の所有物の中に入っていない事です。つまり子供は親の所有物ではないという事です。しかしここで「隣人の家」という言葉が、隣人の家族や家族を構成する人間を意味しているのではないかと言う人もいらっしゃるかも知れません。しかし原文を見ると「隣人の家」の「家」は「イキアΟΙΚΙΑ」という名詞で、これは建物としての家、家の建物部分を意味する言葉です。私達日本人は子供を親の所有物だとして捉えがちです。例えば日本には未成年者誘拐罪という法律や、親の監護権とか親権という概念があります。これらの法律や概念を根底から支えているのは「子供は親の所有物である」という思想です。神はこの思想を否定します。子供は親の所有物ではなく、神の所有物であると。人間がこの事を忘れないために神は次のように言っています。
「全ての初子を聖別して私にささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものは全て、人であれ家畜であれ、私のものである。」(出エジプト記13章1節)
私達の日常生活における貪欲や思想について、神の裁判の際、私達は一人一人責任を問われます。

82 以上のように私達は十戒を通して神の戒めについて学びました。私達は皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けねばなりません。だから私達は神を恐怖するのです、「一体誰が、神の裁判の際に死罪を免れる事ができるのだろうか」と。それが正しいのです。人間ではなく神を恐怖する事が正しいのです。主イエスは言います。
「友人であるあなた方に言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐怖してはならない。誰を恐怖すべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐怖しなさい。」(ルカによる福音書12章4-5節)
この言葉の中で「体を殺す」「殺す」というのは肉体的な死、「殺した後の地獄」というのは実存の死神の裁判での永遠の死を意味する事は言うまでもありません。
まさに「主を恐怖する事は知恵の初め。」(箴言1章7節)「ハレルヤ(あなた達は主を賛美せよ)。いかに幸いなことか、主を恐怖する人、主の戒めを深くする人は。」(詩編112編1節)と書いてある通りです。
83そして神の戒めでは私も罪人であり、死罪と定められたし、あなたも罪人であり、死罪と定められたのです。
「人は皆、を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマの信徒への手紙3章23節)
「全ての人が罪を犯したからです。」(ローマの信徒への手紙5章12節)
聖書は全てのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。」(ガラテヤの信徒への手紙3章22節)
「誰もかれも背き去った。皆共に、汚れている。善を行う者はいない。一人もいない。」(詩編14編3節)
84 しかし、このように神の怒りに定められた私達を、神はし、福音を告げ知らせて下さいました。それは、イエス・キリストじ、洗礼を受ける事によって、赦され正しい人とされるのだ、神の怒りから救われるのだという良い知らせです。使徒聖パウロは次のように言っています。
「今や、神の正義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる事により、信じる者全てに与えられる神の正義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で正しい人とされるのです。」(ローマの信徒への手紙3章21-24節)
「私達の主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、私達も正義と認められます。イエスは、私達の罪のために死に渡され、私達が正義とされるために復活させられたのです。」(ローマの信徒への手紙4章24-25節)
85だから「正しい人信仰によって生きる」のです。信仰によって生きる人こそ正しい人なのです。先程お話ししたように(12-38参照)、私は罪を犯し、死んでいました。実存の死を味わっていたのですが、神は私を憐れんで下さり、イエス・キリストとの出会いを通して(3,12,29,36/神学の森45参照)、洗礼とイエス・キリストを信じることによって、罪を赦され、神に愛される者となり、神の恵みを受けて、実存の命永遠の命に招き入れられ、主イエスの復活にあずかる者となり、正しい人とされました。
私はこのことの証人です。
86しかし私だけでなく、主イエスを信じる人は誰でも正しい人とされるのです。
「論じ合おうではないか、と主は言われる。
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも
雪のように白くなることができる。
たとえ、紅のようであっても
羊の毛のようになることができる。」(イザヤ書1章18節)
「いかに幸いなことでしょう
背きを赦され、罪を覆って頂いた者は。
いかに幸いなことでしょう
主に咎を数えられず、心に欺きの無い人は。」(詩編32編1-2節)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。」(ヨハネによる福音書3章16-18節)
と書いてある通りです。
87だから私は確信をもって次のように言う事ができるのです。
「主は私の正しさに報いて下さる。
私の手の清さに応じて返して下さる。
私は主の道を守り
私の神に背かない。
私は主の裁きを全て前に置き
主の掟を遠ざけない。
私は主に対して無垢であろうとし
罪から身を守る。
主は私の正しさに応じて返して下さる。
御目に対して私の手は清い。」(詩編18編21-25節)
「私の正しさを認める方は近くいます。
誰が私と共に争ってくれるのか
我々は共に立とう。
誰が私を訴えるのか
私に向って来るがよい。
見よ、主なる神が助けて下さる。
誰が私を罪に定め得よう。
見よ、彼等は全て衣のように朽ち
しみに食い尽くされるであろう。」(イザヤ書50章8-9節)
「私にとっては、あなた方から裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。私は、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それで私が正しくされているわけではありません。私を裁くのは主なのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ4章3-4節)
「誰が神に選ばれた者達を訴えるでしょう。人を正しくして下さるのは神なのです。誰が私達を罪に定める事ができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私達のために執り成して下さるのです。誰が、キリストの愛から私達を引き離す事ができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマの信徒への手紙8章33-34節)
88 私は一番最初に「全ての人の恋人になろうと本気で考えている」と言いました(1参照)。その真意は「全ての人と実存と実存の触れ合いを築く」ということなのです。私達は神の前に実存のまま全てさらけ出されており、神の前に罪は明らかです。「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、全てのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。」(ヘブライ人への手紙4章13節)
89だからイエス・キリストを通して福音が明らかにされた今、私は全ての人にイエス・キリストを信じて、洗礼を受け、罪の赦しを受け、永遠の命を得て神の国に入ることを強く勧めるのです。「ナザレの人、イエス・キリストの他、誰によっても、救いは得られません。私達が救われるべき名は、天下にこの名の他、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章12節)「主の名を呼び求める者は誰でも救われるのです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか』と書いてある通りです。」(ローマの信徒への手紙10章13-15節)
90私は全ての人に福音を告げ知らせる者です。「私は福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者全てに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の正義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい人は信仰によって生きる』と書いてある通りです。」(ローマの信徒への手紙1章16-17節)

91 しかしこの福音を受け入れず、神の裁判を軽んじて侮り、神を信じず、自分の実存を覆い隠し、神によって正しくされることなしに、自分を正しい人であると虚言を吐き、他人を裁く人に対して、神は次ように言います。
「私が黙していると思うのか。
私をお前に似た者と見做すのか。
罪状をお前の目の前に並べて
私はお前を責める(54-82参照)。
神を忘れる者よ、わきまえよ。
さもなくば、私はお前を裂く。
お前を救える者はいない。」(詩編50編21-22節)
使徒聖パウロは言います。
「全て人を裁く者よ、弁解の余地は無い。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたは、神の裁判を逃れられると思うのですか。或いは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」(ローマの信徒への手紙2章1,3-4節)
主イエスは言います。
「人を裁くな。あなた方も裁かれないようにするためである。あなた方は、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、先ず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイによる福音書7章1-5節)
92次の聖書の言葉は真実です。
「御子を信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネによる福音書3章18-21節)
「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上に留まる。」(ヨハネによる福音書3章36節)

93 主イエスは神に従う人達に対して言います。
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。私が暗闇であなた方に言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなた方の父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている。だから恐れるな。あなた方は、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイによる福音書10章26-31節)
94主よ、あなたは常に私と共にいて下さいます。私は暗闇であなたに言われたことを明るみで言います。耳打ちされたことを屋根の上で言い広めます。私は人々を恐れるよりも、神を恐れます。人間に従うよりも神に従います。どうか、あなたに従うこのしもべを、あなたを軽んじる高慢な者やあなたに逆らう偽善者の手からお守り下さい。
「主よ、あなたを憎む者を私も憎み
あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし
激しい憎しみをもって彼等を憎み
彼等を私の敵とします。」(詩編139編21-22節)
「主よ、私と争う者と争い
私と戦う者と戦って下さい。
大盾と盾を取り
立ち上がって私を助けて下さい。
私に追い迫る者の前に
槍を構えて立ちふさがって下さい。
どうか、私の魂に言って下さい。
『お前を救おう』と。」(詩編35編1-3節)
「主は私の光、私の救い
私は誰を恐れよう。
主は私の命の砦
私は誰の前におののくことがあろう。
さいなむ者が迫り
私の肉を食い尽くそうとするが
私を苦しめるその敵こそ、かえって
よろめき倒れるであろう。
彼等が私に対して陣を敷いても
私の心は恐れない。
私に向かって戦いを挑んで来ても
私には確信がある。
一つのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。
災いの日には必ず、主は私を仮庵にひそませ
幕屋の奥深くに隠して下さる。
岩の上に立たせ
群がる敵の上に頭を高く上げさせて下さる。
私は主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
主に向って賛美の歌をうたう。」(詩編27編1-6節)
「主を恐怖する人は言え。 慈しみはとこしえに。
苦難のはざまから主を呼び求めると
主は答えて私を解き放たれた。
主は私の味方、私は誰を恐れよう。
人間が私に何をなし得よう。
主は私の味方、助けとなって
私を憎む者らを支配させて下さる。
人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。
国々はこぞって私を包囲するが
主の御名によって私は必ず彼等を滅ぼす。
彼等は幾重にも包囲するが
主の御名によって私は必ず彼等を滅ぼす。
蜂のように私を包囲するが
茨が燃えるように彼等は燃え尽きる。
主の御名によって私は必ず彼等を滅ぼす。
激しく攻められて倒れそうになった私を
主は助けて下さった。
主は私の砦、私の歌。
主は私の救いとなってくださった。
御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。
主の右の手は御力を示す。
主の右の手は高く上がり
主の右の手は御力を示す。
死ぬことなく、生き長らえて
主の御業を語り伝えよう。
主は私を厳しく懲らしめられたが
死に渡すことはなさらなかった。
正義の城門を開け
私は入って主に感謝しよう。
これは主の城門
主に従う人はここを入る。
私はあなたに感謝をささげる。
あなたは答え、救いを与えて下さった。」(詩編118編4-21節)
「神に従う人よ、主によって喜び躍れ。
全て心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。
主に従う人よ、主によって喜び歌え。
主を賛美することは正しい人にふさわしい。」(詩編32編11節-33編1節)


95「諸国の民よ、これを聞け
この世に住む者は皆、耳を傾けよ
人の子らは全て
豊かな人も貧しい人も。
私の口は知恵を語り
私の心は英知を思う。
私は格言に耳を傾け
竪琴を奏でてを解く(108,109,111,113,115,117参照)。」(詩編49編2-5節)
今、私は全世界の全人類に対して大胆に福音を宣言します。
古い行動原理に支配された古い人類の時代は終わった。それは既に過去のものである。
新しい行動原理に支配された新しい人類の時代は、ついに主イエス・キリストの復活と聖霊降臨によって打ち開かれ、始まるのだ。」と(139参照)。
96 私がここで言う、古い行動原理に支配された古い人類というのは、主イエスが裁いて否定し、追放したものです。主イエスは十字架にかかる直前に次のように言いました。
「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される。私は地上から上げられる時、全ての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネによる福音書12章31-32節)
「この世」というのはもちろん、この人間社会のことです。「この世の支配者」というのは当然、王や政治家などの権力者や人間社会を管理運営する権限を持った人を意味します。この文脈では主イエスを十字架にかけようとする勢力です。しかし「この世の支配者」の支配者は原語では「ΑΡΧΩΝアルホン」で単数形です。実際主イエスを十字架につけようとしたのは1人ではなく多数いたので、ここでは特定の人間を指すのではなく、「イエスを十字架につけようとする多数の人を支配するもの」「この人間社会を支配するもの」、「この人間社会の支配原理」という意味でもあります。実に主イエスは十字架の出来事が起こるこの瞬間に、この人間社会は裁かれる、この人間社会の支配原理は追放されると言うのです。それでは主イエスは一体、何を裁いて否定し、追放したのか?主イエスが言う、裁かれるべき、否定されるべき、追放されるべき、この人間社会の支配原理とは一体何であるのか?
97 私達の日常生活での行動を支配する原理の一つに例えば、第1に衣食住など、肉体に必要不可欠なものがあります。しかし主イエスは次のように言います。
「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなた方の天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じである。何よりも先ず、神の国と神の正義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイによる福音書6章31-33節)
このように主イエスは、食べる物や着る物など、肉体に必要不可欠なものが、日常生活の行動を支配する原理となることを否定します。
使徒聖パウロも「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。」(コリントの信徒への手紙6章13節)「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えらる正義と平和と喜びなのです。」(ローマの信徒への手紙14章17節)と言います。
98第2に、私達の日常生活の行動を支配する原理に、地位や権力があります。しかし主イエスは次のように言います。
「あなた方も知っているように、異邦人の間では支配者達が民を支配し、偉い人達が権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者のなり、一番上になりたい者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。人の子が、仕えられるためでは無く仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイによる福音書20章25-28節)
このように主イエスは、地位や権力が、日常生活の行動を支配する原理となることを否定します。
99第3に、私達の日常生活の行動を支配する原理に、名誉や名声があります。
しかし主イエスは次のように言います。
「全ての人にほめられる時、あなた方は不幸である。」(ルカによる福音書6章26節)
「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」(ルカによる福音書16章15節)
「私の教えは、自分の教えでは無く、私をお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光(ΔΟΞΑドクサ)を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光(ΔΟΞΑ)を求める者は真実な人であり、その人には不正がない。」(ヨハネによる福音書7章16-18節)
「私は、人からの誉れ(ΔΟΞΑ)を受けない。」(ヨハネによる福音書5章41節)
「私は、自分の栄光(ΔΟΞΑ)を求めてはいない。私の栄光(ΔΟΞΑ)を求め裁きをなさる方が、他におられる。私が自分自身のために栄光を求めよう(ΔΟΞΑΖΩドクサゾ)としているのであれば、私の栄光(ΔΟΞΑ)は空しい。私に栄光を与えて下さる(ΔΟΞΑΖΩ)のは私の父であって、あなた達はこの方について、『我々の神だ』と言っている。」(ヨハネによる福音書8章50,54節)
ここで「栄光」や「誉れ」と訳されている原語は、名詞「ΔΟΞΑドクサ」や動詞「ΔΟΞΑΖΩドクサゾ」という同じ言葉で、「名誉」や「名声」とも訳せる言葉です。
このように主イエスは、名誉や名声が、日常生活の行動を支配する原理となることを否定します。
100第4に、私達の日常生活の行動を支配する原理に、財産や富やお金があります。しかし主イエスは次のように言います。
「あなた方は地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くことも無く、また、盗人が忍び込むことも盗み出すことも無い。あなたの富のある所に、あなたの心もあるのだ。」(マタイによる福音書6章19-21節)
「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は、神と富とに仕えることはできない。」(マタイによる福音書6章24節)
「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってはどうすることもできないからである。」(ルカによる福音書12章15節)
このように主イエスは、財産や富やお金が、日常生活の行動を支配する原理となることを否定します。
101第5に、私達の日常生活の行動を支配する原理に結婚があります。しかし主イエスは次のように言います。
「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しいものであり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」(ルカによる福音書20章34-36節)
「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイによる福音書19章11-12節)
「あなた達は読んだことが無いのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない。」(マタイによる福音書19章4-6節)
このように主イエスは、既婚者に対しては結婚を破壊しないように命じ、未婚者に対しては、神の国のために、童貞者・童貞女となることを勧め、結婚が日常生活の行動を支配する原理となることを否定します(2,25参照)。
102第6に、私達の日常生活の行動を支配する原理に、出産や育児や家族があります。しかし聖書には次のような言葉があります。
「神はこんな石からでも、アブラハムの子達を造り出すことがおできになる。」(マタイによる福音書3章9節)
「神にできないことは何一つ無い。」(ルカによる福音書1章37節)
また主イエスは次のように言います。
「人々が『子を産めない女、産んだことの無い胎、乳を飲ませたことの無い乳房は幸いだ』と言う日が来る。」(ルカによる福音書23章29節)
「はっきり言っておく。私のためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は誰でも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコによる福音書10章29-30節)
このように主イエスは、出産や育児や家族が、生活の行動を支配する原理となることを否定します。
103第7に、私達の日常生活の行動を支配する原理に、肉体の命のための労働があります。しかし主イエスは次のように言います。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでも無くならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなた方に与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」(ヨハネによる福音書6章27節)
「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネによる福音書4章34節)
このように主イエスは、肉体の命のための労働が、生活の行動を支配する原理となることを否定します。
104第8に、私達の日常生活の行動を支配する原理に、快楽の追求と生活の煩悶があります。しかし主イエスは次のように言います。
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなた方を襲うことになる。その日には、地の表のあらゆる所に住む人々全てに襲いかかるからである。しかし、あなた方は、起ころうとしているこれら全てのことから逃れて、人の子の前にたつことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカによる福音書21章34-36節)
このように主イエスは、快楽の追求と生活の煩悶が、生活の行動を支配する原理となることを否定します。なぜなら快楽の追求と生活の煩悶は来たるべき神の裁判を忘れさせてしまうからです。使徒達も次のように言います。
「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人が入れば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、全て世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(ヨハネの手紙Ⅰ2章15-17節)」
自由をもたらす律法(イエス・キリスト)によっていずれは裁かれる者として、語り、また振る舞いなさい。」(ヤコブの手紙2章12節)(131参照)
「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマの信徒への手紙13章13-14節)
105第9に、私達の日常生活の行動を支配する原理に、私達の肉親や私達の先祖が示した生き方の模倣があります。しかし主イエスは次のように言います。
「父が私に成し遂げるようにお与えになった業、つまり、私が行っている業そのものが、父が私をお遣わしになったことを証ししている。」(ヨハネによる福音書5章36節)
「私が天から降って来たのは、自分の意志(ΘΕΛΗΜΑテリマ)を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心(ΘΕΛΗΜΑテリマ意志)を行うためである。」(ヨハネによる福音書6章39節)
「私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っているのである。」(ヨハネによる福音書14章10節)
「私をお遣わしになった方は、私と共にいて下さる。私を一人にしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」(ヨハネによる福音書8章29節)
「あなた達は、自分の父と同じ業をしている。」(ヨハネによる福音書8章41節)
「世は私を憎んでいる。私が、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」(ヨハネによる福音書7章7節)
「私を憎む者は、私の父をも憎んでいる。誰も行ったことの無い業を、私が彼等の間で行わなかったら、彼等に罪は無かったであろう。だが今は、その業を見た上で、私と私の父を憎んでいる。」(ヨハネによる福音書15章23-24節)
このように主イエスは、私達の肉親や私達の先祖が示した生き方の模倣が、生活の行動を支配する原理となることを否定します。使徒聖パウロも次のように言います。
「あなた方はこの世に倣ってはなりません。」(ローマの信徒への手紙12章2節)
106 これらが主イエスが言う、裁かれるべき、否定されるべき、追放されるべき人間社会の支配原理です。そしてこれらが私の言う古い行動原理です。このように、主イエスは、人間社会を支配している行動原理を裁き、否定し、追放し、このような行動原理に支配されている人達、つまり古い行動原理に支配されている古い人類に対して、次のように呼びかけるのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音じなさい」(マルコによる福音書1章15節)
107実にこの言葉は、 古い行動原理奴隷状態にある人達に、真の自由への解放を告げる(131参照)、決して取り消されることの無い、喜ばしい決定的な宣言なのです。ここで言う「悔い改める」という言葉は、自分の過去の言動を後悔して謹慎するとか、他者に迷惑がかからないように静かに生きるとか、墓穴の下にもぐったかのように何もしないで生きるというような消極的な意味では決してありません。「悔い改める」の原語は「ΜΕΤΑΝΟΕΩメタノエオ」で、人生における考え方の根本をすっかり変えるという意味、つまりそれまで人生を支配していた古い行動原理を完全に否定し、神の示した、新しい行動原理を肯定して受容し、それに従って全く新しい生き方を決意する、古い生き方から新しい生き方へと方向を大転換するという大変積極的な意味なのです。そして、この新しい行動原理こそが福音です。それでは新しい行動原理とは何か?それはイエス・キリストが示した生き方です。なぜなら主イエスは次のように言うからです。
「私はであり、真理であり、である。」(ヨハネによる福音書14章6節)
「私があなた方にした通りに、あなた方もするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネによる福音書13章15節)
このように主イエスこそ、人間の歩むべき、神の望まれる道であり、正しい道なのです。主イエスこそ、私達人類の最終的かつ究極的な生き方の模範であり目標であり希望なのです。そして復活させられたことにより、人類にとって神に唯一認められた、真実の正しい生き方の模範であり目標であり希望なのです。

108 なぜイエス・キリストが私達人類の、神の意志に適った、真実の正しい、最終的かつ究極的な模範なのか?それは聖書に、聖霊によって解かれるべきの形で、記されているからです(95参照)。創世記1章には7日間の神の天地創造の記述がありますが(神学の森1-25参照)、人間は第6の日に神に創造されたとあります。次の記述です。
「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地の這うもの全てを支配させよう。』
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男性と女性に創造された。」(創世記1章26-27節)
109 しかしこの記述にはがあります(95参照)。注意深い人は気づくと思われますが、神は単数なのに、なぜセリフの所だけ「我々」と複数で言っているのだろうか?という謎です。ギリシア語では動詞の人称変化に主語の人称と数が明確に示されていて、この箇所の原文で、神が主語である動詞を見ていくと、最初の「言われた(ΕΙΠΕΝイペン)」はΛΕΓΩレゴ(言う)の3人称単数形、セリフの中で次に出て来る「造ろう(ΠΟΙΗΣΩΜΕΝピイソメン)」はΠΟΙΕΩピエオ(創造する)の1人称複数形、セリフの後に出て来る3回の「創造された(ΕΠΟΙΗΣΕΝエピイセン)」は3回とも同じで、ΠΟΙΕΩピエオ(創造する)の3人称単数形です。
110この謎は、実は、が、父と子と聖霊三位一体であることを示しているのです(134-137/神学の森6参照)。三位一体というのは、天地万物の創造主である、なる神。そして父なる神の独り子であり、真に神であり真に人である方、救い主イエス・キリスト、つまりなる神。そしてイエスを信じて洗礼を受けて罪を赦された人々に、子なる神の執り成しによって父なる神から送られる、聖霊なる神。これら3つの位格、つまりそれぞれに独立した意志主体である3者が、存在としては1つであるというものです。だから神はセリフの中では、「我々は造ろう(ΠΟΙΗΣΩΜΕΝピイソメン)」と1人称複数形で、父と子と聖霊の3者が語るのであり、セリフの後では、「創造された(ΕΠΟΙΗΣΕΝエピイセン)」と3人称単数形で書かれ、神が1つの存在であることが示されるのです。そしてこの「創造された(ΕΠΟΙΗΣΕΝエピイセン)」が3回繰り返されることで、神が父と子と聖霊の三位一体であることが示されるのです。
111 更にもう1つがあります(95参照)。それは「人間が神にかたどって創造された」という記述です。この章句を、人間の姿や形が、物質的・空間的な意味において、神と同じように或いは神に似たものとして造られたと解釈する人がいますが、その解釈は早計、安易であり、誤りです。なぜなら神は目に見えない存在であり、時間と空間を超えて永遠に存在している方であるから、目に見える物質的・空間的な姿や形に決して限定され得ないからです(神学の森29-32参照)。それでは「人間が神にかたどって創造された」とはどういう意味か?この箇所はギリシア語原文では「ΚΑΤ’ ΕΙΚΟΝΑ ΘΕΟΥカトゥ イコナ テウ[神の似姿に従って] ΕΠΟΙΗΣΕΝエピイセン[彼(神)は創造した] ΑΥΤΟΝアフトン[彼(人間)を]」となっており、この謎を解く鍵が「神の似姿(ΕΙΚΩΝ ΘΕΟΥイコン テウ)」という言葉にあります。「ΕΙΚΩΝイコン」と「ΕΙΚΟΝΑイコナ」は格変化で異なる語形をしていますが同じ言葉です。イコンは主格(ノミナティーフ)でイコナは対格(アクザティーフ)です。この「神の似姿(イコン テウ)」という言葉は聖書の別の箇所に出て来ます。
「キリスト、この方は神の似姿(ΕΙΚΩΝ ΤΟΥ ΘΕΟΥイコン トゥ テウ)です。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章4節)
「この方(神の愛する御子=イエス)は見えない神の似姿(ΕΙΚΩΝ ΤΟΥ ΘΕΟΥイコン トゥ テウ)です。」(コロサイの信徒への手紙1章15節)
112つまり、神の似姿とはイエス・キリストのことであり、神は私達人間を神の似姿、すなわちイエス・キリストの似姿に従って創造したという意味なのです。注意深い方は「ΤΟΥトゥ」という言葉が創世記以外の2箇所に付いているということに気がつくと思います。このトゥという言葉は「神の」にかかる定冠詞です。つまり創世記では「神の似姿」は、おぼろに映っていたが、主イエスの復活によって、今やくっきりと「神の似姿」が私達人類の目に映るようになった、それでトゥという定冠詞が神に付いているのです。だから人間は物質的・空間的な意味において、神の似姿として創造されたのではありません。そうではなく人間は霊的な意味において神の似姿、すなわちイエス・キリストの似姿として創造された。つまり人間は、その生き方がイエス・キリストと似た者となるように創造されたのです。そして、これが神が人間を創造する目的であったということです(神学の森1参照)。これが神の人間創造の計画なのです。主教聖アウグスティヌスも次のように語っています。「主よ、あなたは私達をあなたに向けて造られ、私達の心はあなたに安らうまでは安んじない」(アウグスティヌス『告白CONFESSIONUM』1巻1章)
113 そして創世記1章における、神の天地創造の記述には更に文章形式にがあります(95参照)。創世記1章には、定められた文章形式が9回繰り返されます。その文章形式とは①「神は言われた」②神が言った言葉の内容③「そしてそのようになった(ΚΑΙ ΕΓΕΝΕΤΟ ΟΥΤΟΣケ エゲネト ウトス)」、ただし1回目のみ「そして光があった(ΚΑΙ ΕΓΕΝΕΤΟ ΦΩΣケ エゲネト フォス)」、という3つの構成要素からなる文章形式です。しかし不思議なことに、七十人訳というギリシア語旧約聖書の原典では8回目のみ、すなわち今、私達が見ている26-27節の人間創造の箇所のみ、①と②の構成要素だけで、③の構成要素が欠落しているのです。他の8箇所の文章形式は①と②と③の構成要素を全て満たしているにもかかわらず。他の8箇所と文章形式を揃えるならば、神のセリフの最後「支配させよう」と、次の「神は御自分にかたどって人を創造された」との間に、構成要素③「そしてそのようになった」が入らなければなりません。しかしそれが欠如しているのです。人間の創造箇所のみ、なぜ他とは異なり、文章形式が特別なのかという謎が生じます。
114 この謎は、今現在の人類の状況を見渡せば容易に理解できます。つまり人間は神にかたどって創造された、人間はイエス・キリストの似姿に従って創造されたと言っても、世界中ほとんど全ての人はイエス・キリストの生き方を模倣していませんし、目指してもいません。そもそも眼中にありません。新しい行動原理ではなく古い行動原理に支配された古い人類のままです。それは使徒達も次のように言っています。
「しかし、全ての人が福音に従ったのではありません。」(ローマの信徒への手紙10章16節)
「しかし、私達は未だに、全ての者がこの方(御子=イエス)に従っている様子を見ていません。」(ヘブライ人への手紙2章8節)
「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」(フィリピの信徒への手紙2章21節)
「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいるものが多いのです。彼等の行き着く所は滅びです。彼等は腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピの信徒への手紙3章8節)
だから人間の創造箇所のみ「そしてそのようになった」が欠落しているのは、人間の創造は未だ完成せず、継続中であるという意味なのです。
115しかし人間の創造が継続中であるならば、それではなぜ「創造された(ΕΠΟΙΗΣΕΝエピイセン=ΠΟΙΕΩピエオの過去時制3人称単数形)」と過去形で3回も記されているのか?という新たなが生じます(95参照)。この謎は次のように解決できます。つまり、人間の目からすれば、人間が神にかたどって創造されたというのは確かに未だ継続中である。だから「そしてそのようになった」が欠落している。しかし、過去・現在・未来を超えた永遠の存在である神の目からすれば(神学の森29参照)、人間が神にかたどって創造されたというのは、すでに決定済みで確定事項であり、必ず成就するものであり、既に完成している。だから「創造された」は3回とも過去形で記されているのです。
このように、神が人間を創造した目的が明らかになると、他の創世記に記された謎も次第に明らかになっていきます。

116 創世記2章から3章にかけて、エデンの園におけるアダムとエバの記述があります。園の中央にある善悪の知識の木からは食べてはいけないという神からの禁止を破り、蛇にだまされた女とアダムは善悪の知識の木から実を食べてしまい、2人は神からエデンの園を追放されてしまうという記述です。
この記述についてですが、エデンの園の中央に生えていたのは、実は善悪の知識の木だけではありません。「主なる神は、東の方にエデンの園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」(創世記2章8-9節)とあるように、園の中央には命の木も生えていたのです。そして神はアダムをエデンの園から追放する際、次のように言い、行うのです。
「主なる神は言われた。『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。』主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(創世記3章22-24節)
117ここで神が「我々」と一人称を複数形で語っているのは、先程見た通り、神が三位一体であることを示すからです(110参照)。この箇所でが生じます(95参照)。それは命の木とは一体何であるのか?神は人間に対して命の木に至る道を永久に閉ざされてしまったのか?という謎です。ここで神が人間をイエス・キリストの似姿に従って創造したということを思い起こせば、主イエスの次の言葉が響いてきます。
「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(ヨハネによる福音書4章14節)
「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。私はのパンである。私は天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネによる福音書6章47-48,51節)
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた達の内には無い。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。」(ヨハネによる福音書6章53-55節)
118命の木は、人間がその実を食べれば、永遠に生きるようになるものです。
主イエスは、人間がその方を信じれば、永遠に生きるようになるものです。
引用した箇所で主イエスが、真の食べ物と真の飲み物である、私の肉と私の血を食べて飲む者は、永遠に生きるという表現はもちろん、ミサや聖体礼儀や聖餐式などのパンとぶどう酒を用いた、教会でのサクラメントにあずかることを意味します。119しかしそのサクラメントの真意は「私達の体は自分が食べたものでできている」と普段考えているように、主イエスの肉を食べ主イエスの血を飲むという表現によって、主イエスの思い、主イエスの言葉、主イエスの行いを自分の血肉と化していくということ、体現していくということ、すなわち主イエスの生き方を自分の生き方とし、主イエスの死に方を自分の死に方とするということなのです(6,12,150参照)。120だから命の木には秘められた意味があります。それは実はイエス・キリストの十字架の木を指しているのです。それゆえ神は人間に対して命の木に至る道を永久に閉ざしているのではなく、愛する独り子イエス・キリストを人間社会に与えることによって、今や命の木に至る道は人間に対して打ち開かれたのです。しかし人間がこの命の木に至る道を選択するかどうかは別の問題ですが。
121このように聖書の言葉には、実際にその言葉が示す即物的なものを意味するだけでなく、実はその即物的なものがしるしとなって、ある秘められた真の意味、霊的な意味を指しているという思考は、使徒聖パウロや主教聖アウグスティヌスも行った、聖書の正統的な解釈方法です。「一つのことを神は語り、二つのことを私は聞いた」(詩編62編12節)と書いてある通りです。

122 また創世記4章にはカインとアベルの記述があります。エデンの園を追放されたアダムとエバに2人の息子達が生まれ、兄カインは土を耕す者となり、弟アベルは羊を飼う者となった。カインとアベルは神に献げ物をしたが、神はアベルの献げ物には目を留めたがカインの献げ物には目を留められなかった。そこで兄カインは激しく怒り、弟アベルに嫉妬して、カインはアベルを殺してしまうという記述です。この記述も単なる兄の弟殺しの話しではありません。また神が農耕生活を否定し、牧羊生活を肯定するというものでもありません。神が人間をイエス・キリストの似姿に従って創造したということを踏まえれば、この記述には秘められた意味があります。主イエスは言います。
「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネによる福音書10章10節)
123実は、殺されたアベルは十字架につけられて殺された主イエスを意味しているのです(121参照)。そしてアベルを殺したカインは主イエスを十字架につけて殺した、イエスを信じない人を意味しているのです(121参照)。更に主イエスは言います。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでも無くならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなた方に与える食べ物である。」(ヨハネによる福音書6章27節)
「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネによる福音書4章34節)
「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えて下さった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネによる福音書6章39-40節)
124だから土を耕す者である兄カインは、実際に主イエスを十字架につけて殺した人だけでなく、イエスを信じないで朽ちる食べ物のために働く人々、つまり古い行動原理に支配された古い人々を意味し、羊を飼う者である弟アベルは、主イエスだけでなく、主イエスを信じて朽ちない食べ物のために働く人々、新しい行動原理に支配された新しい人々をも意味するのです(103,121参照)。「羊を飼う」とは、神のために働くこと、神の国福音のために働くことを意味し、「土を耕す」というのは、この人間社会のためだけに働くこと、或いは、神よりも人間社会のために働くことを優先するということを意味しているのです(66,121参照)。そしてカインがアベルを殺したように、古い人々は新しい人々を物理的・社会的に殺すということを聖書は伝えているのです(121参照)。

125 人間が古い行動原理の支配から解放され、新しい行動原理の支配下に移るためには、悔い改めてイエス・キリストを信じ(107参照)、教会で洗礼を受ける必要があります。使徒聖ペトロは次のように言います。
悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、赦して頂きなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなた方にも、あなた方の子供にも、遠くにいる全ての人にも、つまり、私達の神である主が招いて下さる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」(使徒言行録2章38-39節)
このようにイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦される者は、賜物として聖霊を受けると記されていますが、聖霊とは一体何でしょうか?(神学の森6参照)聖霊の原語は「ΑΓΙΟΝアギオン(聖なる) ΠΝΕΥΜΑプネヴマ(風)」です。このように聖書が記す「霊」の根本的意味は「風」なのです。だから霊と聞いて、私達がイメージする心霊スポットや幽霊などとは大分意味が違います。風は、目に見えませんが、私達は木々が揺れたり、旗がはためいたり、物が飛んだり、逆風で歩きにくかったりすることで、風の存在を知ります。実に風は、目には見えませんが、確かに物に働きかけて、その物を動かすのです。126聖霊はしかし、このような物質的・物理的な風ではありません。聖霊は何に働きかけ、何を動かすのでしょうか?使徒聖パウロは言います。
「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ローマの信徒への手紙8章9節)
キリストの霊、すなわち聖霊を持たない者は、イエス・キリストとは何ら関係がないと言うのです。それではキリストの霊、聖霊とは何か?別の箇所でパウロは言います。
「あなた方が子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、私達の心に送って下さった事実から分かります。」(ガラテヤの信徒への手紙4章6節)
127キリストの霊、すなわち聖霊とは「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊だと言うのです。それでは「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊とは何か?それは十字架につけられて殺される前にゲッセマネという所で祈る主イエスの霊です。主イエスはゲッセマネで次のように祈りました。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコによる福音書14章36節)
「アッバ」というのはアラム語で「父よ」という意味です。「この杯」というのは、もちろん主イエスの運命、これから引き受けることになる十字架の苦難と死を意味します。このようにゲッセマネで主イエスは葛藤し、できればこの杯、十字架の運命を自分から取り払って下さるように父なる神に願いますが、しかし最終的には自分の意志ではなく、父なる神の意志が行われますようにと祈るのです。そして主イエスは十字架の運命を引き受けるのです。それが父なる神の意志、つまり御心であるからです。主イエスは「私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハネによる福音書5章30節)と言うからです。
128だから聖霊というのは、十字架の運命を引き受けて、それに向かって進んで行くものなのです。つまり聖霊は、目には見えませんが、主イエスを信じる人に働きかけ、その人を十字架の運命へと動かしていく風なのです。私自身も十字架の運命を共有しています。だから私は真にイエスの弟子です。そして私は聖霊を受けています。聖霊は、心や感情、精神や思考など人間の内面的なものとは全く別のものであり、それらの外にあるもので、それらを超えるもので、それらの上にあって、それらを支配するものです。聖霊は人間に働きかけ、その人間の生き方を、主イエスの生き方と同じものへと、似たものへと変えていく風なのです(133参照)。使徒聖パウロも言います。
「あなた方は、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私達は『アッバ、父よ』と叫ぶのです。この霊こそは、私達が神の子供であることを、私達の霊と一緒になって証しして下さいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマの信徒への手紙8章15-17節)
129 そして聖霊を受けた者は必ず、人間社会とは悲劇的に対立するのです。主イエスは聖霊を「弁護者」「真理の霊」として次のように言います。
「あなた方は、私を愛しているならば、私の掟を守る。私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」(ヨハネによる福音書14章15-17節)
「世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなた方が世に属していたなら、世はあなた方を身内として愛したはずである。だが、あなた方は世に属していない。私があなた方を世から選び出した。だから、世はあなた方を憎むのである。」(ヨハネによる福音書15章18-19節)
また使徒聖ヤコブも言います。
「世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのですか。世の友になりたいと願う人は誰でも、神の敵になるのです。」(ヤコブの手紙4章4節)
130そして使徒聖パウロは、聖霊の風が吹き向かう先である十字架の運命を、「神の知恵」であるとして次のように言います。
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。『私は知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味の無いものにする。』知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵に適っています。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ1章18-21節)
「私達が語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私達に栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者達は誰一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ2章7-8節)
131 また聖霊を受けた者は真の意味で自由な者です。真の意味で自由というのは、古い行動原理、つまり罪から解放されて自由であるということです。主イエスは次のように言うからです。
「私の言葉に留まるならば、あなた達は本当に私の弟子である。あなた達は真理を知り、真理はあなた達を自由にする。」(ヨハネによる福音書8章31-32節)(107参照)
132ここで言う真理とは何か?それは十字架刑に処せられる直前に交わされた、主イエスとローマ帝国総督ポンティオ・ピラトとの次の会話から知ることができます。
「ピラトは官邸に入り、イエスを呼び出して、『お前がユダヤ人の王なのか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、他の者が私について、あなたにそう言ったのですか。』ピラトは言い返した。『私はユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長達が、お前を私に引き渡したのだ。一体何をしたのか。』イエスはお答えになった。『私の国はこの世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない。』そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『私が王だとは、あなたが言っていることです。私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く。』ピラトは言った。『真理とは何か。』」(ヨハネによる福音書18章33-38節)
133このピラトの「真理とは何か」という問いに主イエスは答えていません。主イエスとピラトとの会話は、この「真理とは何か」というピラトの問いで終わってしまいます。それではピラトの「真理とは何か」という問いに結局、主イエスは答えなかったのでしょうか?いや、違います。主イエスは敢えて口で答えることを避け、沈黙を選ぶことによって真理を示したのです。それはピラトがこれから目の当たりにする出来事、つまり主イエスの十字架上での復活という出来事そのものが、まさしく真理であるということなのです。
それで使徒聖パウロは次のように言うのです。
「主の霊のおられるところに自由があります。私達は皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ3章17-18節)
「私は自由な者ではないか。使徒ではないか。私達の主イエスを見たではないか。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ9章1節)

134 私は先に、父と子と聖霊三位一体であると言いました(110/神学の森6参照)。三位一体という言葉自体は聖書に出て来ませんが、聖書的根拠があります。主イエスは言います。
「私と父とは一つである。」(ヨハネによる福音書10章30節)
「私が父の内におり、父が私の内におられる」(ヨハネによる福音書14章10節)
これにより、父なる神と子なる神が1つの存在であること、父と子の二位一体が証明されます。135また主イエスは言います。
「神は霊である。」(ヨハネによる福音書4章24節)
これにより、父なる神と聖霊なる神が1つの存在であること、父と聖霊の二位一体が証明されます。136また主イエスは言います。
「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる。」(ヨハネによる福音書6章55節)
「私の肉を食べ、私の血を飲む者」とは、教会での洗礼・聖餐のサクラメントにあずかる人、イエスの生き方を血肉とする人、つまり聖霊を受ける人です。だからこれにより、子なる神と聖霊なる神が1つの存在であること、子と聖霊の二位一体が証明されます。137また主イエスは言います。
「かの日には、私が父の内におり、あなた方が私の内におり、私もあなた方の内にいることが、あなた方には分かる。」(ヨハネによる福音書14章20節)
ここで「あなた方」とはイエスの弟子達、つまり聖霊を受ける人達です。そして主イエスは祈りの中で更に言います。
「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、全ての人を一つにして下さい。彼等も私達の内にいるようにして下さい。私が彼等の内におり、あなたが私の内におられるのは、彼等が完全に一つになるためです。」(ヨハネによる福音書17章21,23節)
ここで「あなた」とは父なる神、「全ての人」と「彼等」とは、これから先も含めて、主イエスを信じて聖霊を受ける人全ての意味です。だからこれにより、父なる神と子なる神と聖霊なる神が1つの存在であること、父と子と聖霊三位一体が証明されます。
138そして復活した主イエスが弟子達に次のように命令します。
「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼等に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことを全て守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」(マタイによる福音書28章18-20節)
この「父と子と聖霊の名によって」ですが、ギリシア語原文では「名によって(ΕΙΣ ΤΟ ΟΝΟΜΑイス ト オノマ)」の「名(オノマ)」が単数形となっているので、父なる神と子なる神と聖霊なる神が1つの存在であること、父と子と聖霊の三位一体が証明されます。もし父と子と聖霊が3つの存在であれば「名によって」の「名」が複数形となり、「諸々の名によって(ΕΙΣ ΤΑ ΟΝΟΜΑΤΑイス タ オノマタ)」とならなければなりません。

139 私は繰り返して宣言します(95参照)。
「古い行動原理に支配された古い人類の時代は終わった。それは既に過去のものである。
新しい行動原理に支配された新しい人類の時代は、ついに主イエス・キリストの復活と聖霊降臨によって打ち開かれ、始まるのだ。」と。
140 イエス・キリストを模範としない古い行動原理(96-106参照)は時代遅れであり、直ちに打ち滅ぼされなければなりません(144,149参照)。それは現象面からも指摘できます。
古い行動原理に支配された生活はすでに破綻と破局を内包しています。特に2011年3月11日の東日本大震災を経験した私達日本人は、古い行動原理に支配された生活、つまり現在の日常生活や生活スタイルそのものがすでに破綻と破局を内包しているということ、現在の日常生活や生活スタイルを根本から方向転換しなければならないということを痛切に体感したはずです。
141私達人類の日常生活は、文明の進歩と科学技術の発達と経済活動の拡大に支えられて、様々な危険や災厄や疾病を克服し、あらゆる面で利便性、快適性、合理性、生産性、安全性を獲得してきました。当然その成果として世界人口は爆発的に増加し続けています。
世界的に人口が増加し続けるという事は、必然的に人間のための居住地や経済活動用地が必要となり、森林が伐採され森林面積が減少し、二酸化炭素排出量が増え続け、地球温暖化などの劇的な環境変化の危険性が増大し続けるという事を意味します。
また世界的に人口が増加し続けるという事は、必然的に生活のための経済活動が拡大し、それによって二酸化炭素排出量が増え続け、地球温暖化などの劇的な環境変化の危険性が増大し続けるという事、また経済活動の拡大を支えるために、エネルギー源や資源の必要性が増大し続けるという事、原子力発電所の必要性も増大し続けるという事を意味します。
地球温暖化などの劇的な環境変化は、深刻な食糧危機に直結し、食糧を巡る人間同士の争いの危険性が増大し続けるという事を意味します。
エネルギーの需要や資源の需要の増大は、エネルギー源や資源を巡る人間同士の争いの危険性が増大し続けるという事を意味します。
原子力発電所の増設も、放射能による土壌汚染・飲料水汚染・食糧汚染・居住地汚染の危険性や、放射能による耕地面積の縮小とそれに伴う深刻な食糧危機を通しての人間同士の争いの危険性が増大し続けるという事を意味します。
世界的に人口が増加し続けるという事は、増加する人間の需要と減少する地球の供給が同時進行し、人間の需要を巡る争いや戦争の危険性が増大し続けるという事を意味します。
つまり文明の進歩と科学技術の発達と経済活動の拡大は、破綻と破局への接近と同義なのです。文明の進歩と科学技術の発達と経済活動の拡大と、破綻と破局への接近とは異なる別のことのように見えるけれども、両者は実は同じことなのです。
142 それにもかかわらず人類は、目先の日常生活のために、法律や社会システムを都合良く整備改変して、いかに経済活動をスムーズに好循環させるかということのみに腐心する一方です。ただひたすらに破綻と破局への道を急いでいるのです。
嗤いながら人類に日常生活の破綻と破局の予告を常に突きつけている、未だ収束していない福島第一原子力発電所の惨状は、これからも世界で必ず同じことが起こるというしるしであり、人類の日常生活の行動原理が悪であり罪であり、日常生活の方向性がそもそも間違っているのだという神からの警告です。
143 だから古い行動原理に支配された生活、つまり今までの日常生活を安易に肯定、支持し、それが当座は無事に惰性的に続いて行けば良いなどという考えは、無責任なオプティミスムスです。

144 このように、今こそ古い行動原理は打ち砕かれなければなりません(140,149参照)。今こそ私達人類は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスの言葉を傾聴し、真摯に受けとめ、新しい行動原理に支配された生活、つまりイエス・キリストを模範とした生活を送るようにしなければなりません。そのためにはイエス・キリストを信じ、罪の赦しを受け、洗礼を受けなければなりません。
145 洗礼とは一体何か?使徒聖パウロは言います。「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤの信徒への手紙3章26-27節)と。つまり洗礼とは神の子となること、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれることであり、キリストに結ばれることであり、キリストを着ることなのです。
146キリストを着るということについてパウロは勧めます。「あなた方は今がどんな時であるかを知っています。あなた方が眠りから覚めるべき時が既に着ています。今や、私達が信仰に入った頃よりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を実に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。」(ローマの信徒への手紙13章11-14節)と。
147またキリストに結ばれるということについてパウロは言います。「キリストと結ばれる人は誰でも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらは全て神から出ることです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ5章17-18節)と。キリストに結ばれる人は新しく創造された者、つまり主イエスが言った「はっきり言っておく。人は、新たに生れなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネによる福音書3章3節)の新たに生まれた人のことなのです。
148新しく創造された者について別の箇所でパウロは言います。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」(ガラテヤの信徒への手紙6章15-16節)と。「イスラエル」というのは国名にもなっていますが、目に見える国に限定されたものではありません。厳密には神に選ばれた民という意味です(神学の森39参照)。「このような原理」というのは、私が言う新しい行動原理のことです。新しい行動原理に従って生活する人は、神のイスラエル、つまり本当の意味で神に選ばれた民なのだということです。私達は洗礼によって古い行動原理に支配された古い人ではなく、新しい行動原理に支配された新しい人へと変えられるのです。使徒が次のように言っている通りです。
「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソの信徒への手紙4章22-24節)
「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストが全てであり、全ての者の内におられるのです。」(コロサイの信徒への手紙3章9-11節)
149そして洗礼を受けてキリストに結ばれるということは、古い行動原理の支配を打ち滅ぼすということ(140,144参照)、つまり一切の赦されるということ、また実際に主イエスの生き方を共有するということ、つまり十字架復活を共有するということ、それゆえ神の裁判の際、断罪による永遠の死から免れ、永遠の命にあずかるということなのです。使徒が次のように言っている通りです。
「あなた方はキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中に死んでいたあなた方を、神はキリストと共に生かして下さったのです、神は、私達の一切の罪を赦し、規則によって私達を訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いて下さいました。そして諸々の支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイの信徒への手紙2章11-15節)
「あなた方は知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私達が皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私達は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私達も新しい命に生きるためなのです。もし、私達がキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。私達の古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私達は、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマの信徒への手紙6章3-8節)
150従って、洗礼を受けて新しい行動原理に支配されて生活する人の生きる目的、そして死ぬ目的は確固として定まります。それはイエス・キリストです(6,12,119参照)。パウロは言います。「私達の中には、誰一人自分のために生きる人は無く、誰一人自分のために死ぬ人もいません。私達は、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私達は主のものです。」(ローマの信徒への手紙14章7-8節)
151そしてパウロは、本当の礼拝とは、イエス・キリストが示した十字架犠牲を目指す生き方をすることであり、決して人間社会に見られる生き方を模範とするものではない、つまり古い行動原理に支配された生き方を模範としてはならないと言うのです。「兄弟達、神の憐れみによってあなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。あなた方はこの世に倣ってはなりません。」(ローマの信徒への手紙12章1-2節)と書いてある通りです。実にイエス・キリストが示した十字架犠牲を目指す生活は、それ自体が真の礼拝なのです。主イエスは次のように言います。
「まことの礼拝をする者達が、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネによる福音書4章23-24節)
だからここで主イエスが言う「まことの礼拝」「霊と真理をもった礼拝」というのは、イエス・キリストが示した十字架犠牲を目指す生き方をすることなのです(30-31,40参照)。そうだとすると、それ以外の生き方は、つまり偶像礼拝に他ならないということになるのです。
だから私は、神から罪を赦された者、神に愛された者、神から恵みを受けた者、神から正しいとされた者、神から憐れみを受けた者として、聖霊を受けた者として、全ての人に対して、イエスを信じ、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けることを勧めるのです。

152 しかし、それでもなお 古い行動原理に支配された古い人類の生き方に固執して、しがみついて離れない人達、イエスの生き方、イエスの示した新しい行動原理に支配された新しい人類の生き方、つまり聖霊を決して認めようとはせず、否定する人達に対しては、神の怒りが留まり、神の裁判の際、永遠の罰を免れることができません。
「私は道であり、真理であり、命である」と言われた主イエス・キリストの道・生き方、聖霊を受けて主イエスを模範とする人の道・生き方、新しい行動原理に従って生活する人の道・生き方を、決して認めず、悪だとして、否定する人々に対して神はこう言われます。
「私の思いは、あなた達の思いと異なり
私の道はあなた達の道と異なると
主は言われる。
天が地を高く超えているように
私の道は、あなた達の道を
私の思いは
あなた達の思いを、高く超えている。」(イザヤ書55章8-9節)
「お前達は、『主の道は正しくない』と言う。私の道が正しくないのか。正しくないのは、お前達の道ではないのか。」(エゼキエル書18章25節)
「災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。
彼等は闇を光とし、光を闇とし
苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。」(イザヤ書5章20節)
153 主イエスは、悔い改めれば、人間の犯す罪を全て、たとえそれが殺人罪であっても全て赦す寛容な方ですが、それでも絶対に赦されない罪がただ1つだけあると言います。主イエスは次のように言います。
「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイによる福音書12章31-32節)
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、全て赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコによる福音書3章28-29節)
154 だから、聖霊を受けて、主イエスの生き方を模範とする人を、社会的規範を逸脱しているとして断罪しようとする人は、この主の言葉を注意深く傾聴するべきです。神の裁判の際での自分ののために。
155そして自分の実存を覆い隠し、自分を正しい人であると嘘をつき、神の裁判を軽んじて侮り、主イエスを信じない人については、次の聖書の言葉が実現します。
「御子を信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネによる福音書3章18-21節)
「御父は御子を愛して、その手に全てを委ねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上に留まる。」(ヨハネによる福音書3章35-36節)
しかし主イエスを信じる者は、神の裁判の際、決して裁かれることはありません。次のように書いてあるからです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。」(ヨハネによる福音書3章16-18節)

156 主イエスは私達に常に呼びかけています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。実に神の国は近づいているのです。神の国は、主イエスが約束して下さったもので、人類にとって真の希望です。神の天地創造が完成する時、つまりこの世界が完成する時、主イエスが再び来られ、神の裁判があります。審判者は主イエス・キリストです。主イエスが次のように言うからです。
「父は、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。私は自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。私の裁きは正しい。私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハネによる福音書5章27-30節)
157そして全ての時代における全人類は1人1人、神の裁判で、永遠の命を得るにふさわしい者とされるか、裁かれて永遠の火に入る者とされるか、より分けられます。そして神の裁判の後、永遠の命を得るにふさわしい者とされた者は、神の国を受け継ぐのです。主イエスは次のように言います。
「人の子は、栄光に輝いて天使達を皆従えて来る時、その栄光の座に着く。そして、全ての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼等をより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人達に言う。『さあ、私の父に祝福された人達、天地創造の時からお前達のために用意されている国を受け継ぎなさい。お前達は、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人達が王に答える。『主よ、いつ私達は、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人達にも言う。『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前達は、私が飢えていた時に食べさせず、のどが渇いた時に飲ませず、旅をしていた時に宿を貸さず、裸の時に着せず、病気の時、牢にいた時に、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼等も答える。『主よ、いつ私達は、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人達は永遠の命にあずかるのである。」(マタイによる福音書25章31-46節)
158また神の国について、黙示録の著者ヨハネは「聖なる都」「新しいエルサレム」と表現し、次のように記します。
「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。その時、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼等の目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはやは無く、もはや悲しみも嘆きも労苦も無い。最初のものは過ぎ去ったからである。』
すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、私は万物を新しくする』と言い、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。また、私に言われた。『事は成就した。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、の水から値なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。私はその者の神になり、その者は私の子となる。しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、売春する者、魔術を使う者、偶像礼拝する者(55,151/神学の森35参照)、全て嘘を言う者、このような者達に対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である(54参照)。』」(ヨハネの黙示録21章1-8節)
159 しかし神の国は、世界が完成する前であっても見えない形で来ると主イエスは言います。なぜなら主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国は、あなた方の間にあるのだ。」(ルカによる福音書17章21節)と言うからです。そして主イエスが悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人を癒した際、ファリサイ派の人達は「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言って決してイエスを信じませんでした。このファリサイ派の人達に対して主イエスは言います。「私がベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなた達の仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼等自身があなた達を裁く者となる。しかし私が神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなた達の所に着ているのだ。」(マタイによる福音書12章27-28節)
だから神の国は主イエスを信じる人々の間で、その関係性において、目に見えない形で実現しているのです。「二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいるのである。」(マタイによる福音書18章20節)と主イエスが言う通りです。
160人類の真の希望である、この神の国について、主教聖アウグスティヌスは次のように雄弁に語っています。
栄光に満ち溢れる神の国は、この移り行く時の中にあっては信仰によって生きつつ、不信の子らの間に寄留しているが、かしこにあっては、揺るぎ無い永遠の座に固く立っているのである。
神の国はこの永遠の座を、今、忍耐して、待ち望んでいる。しかしそれは正義が裁きに変えられるまでであり、続いて与えられる最後の勝利と全き平和との中に完全に受け継ぐであろう時までである。」(アウグスティヌス『神の国DE CIVITATE DEI』1巻序)
161 今や神の創造の計画は明らかになりました。人類がイエス・キリストを信じて洗礼を受け、罪を赦され 聖霊を受けて永遠の命と神の国を受け継ぐようになって欲しいという、神の人類に対するのメッセージは明らかになりました。
だからボールはすでに神から人間に投げられており、私達人間の側にあるのです。今や私達人類は応答しなければなりません。使徒聖パウロは言います。
「知らないのですか。あなた方は、誰かに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなた方は罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって正義に至るか、どちらかなのです。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマの信徒への手紙6章16,23節)
罪の奴隷というのは古い行動原理の奴隷、神の奴隷というのは新しい行動原理の奴隷ということです。人間は罪の奴隷となって、実存の死から永遠の死に定められるか、神の奴隷となって、実存の命から永遠の命に至るかのどちらかしかないのです(16参照)。実に神の裁判で裁かれ永遠の死に定められることは恐怖です。だから私は全ての人々に、イエス・キリストを信じ洗礼を受けることを強く勧めるのです。
162「主に対する恐怖を知っている私達は、人々の説得に努めます。私達は、神にはありのままに知られています。私は、あなた方の良心にもありのままに知られたいと思います。私達が正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなた方のためです。なぜなら、キリストのが私達を駆り立てているからです。私達はこう考えます。すなわち、一人の方が全ての人のために死んで下さった以上、全ての人も死んだことになります。その一人の方は全ての人のために死んで下さった。その目的は、生きている人達が、もはや自分自身のためではなく、自分達のために死んで復活して下さった方のために生きることなのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ5章11,13節)
「私達は、憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身を全ての人の良心に委ねます。私達の福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。私達は、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。私達自身は、イエスのためにあなた方に仕える奴隷なのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章1-5節)
163主イエスは、時間と空間を超えて、常に私達人間に呼びかけ、私達人間を招きます(神学の森37参照)。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。私は罪に死に、実存の死の中にいました。しかし福音を信じることによって救われ、復活させられ、永遠の命の中に移されました。私は神に愛される者となり、神の恵みを受ける者となったのです。「神の恵みによって今日の私があるのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15章10節)だから私は常に神に感謝しています。私を救って下さった方は、必ずあなたをも救って下さいます。私は主イエスから「あなた方は行って、全ての民を私の弟子にしなさい。」(マタイによる福音書28章19節)という命令を受けている者です。
私を通して福音があまねく宣べ伝えられ、全ての人がそれを聞きますように。
1人でも多くの人が福音を信じて救われ、永遠の命に至り、神の国を受け継ぎ、神に感謝を献げますように。
神からの恵みと平和が、主イエス・キリストを愛する全ての人にありますように。
「全地よ、主に向って喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え
喜び歌って御前に進み出よ。
知れ、主こそ神であると。
主は私達を造られた。
私達は主のもの、その民
主に養われる羊の群れ。
感謝の歌をうたって主の門に進み
賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。
主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は代々に及ぶ。」(詩編100編)
「全ての国よ、主を賛美せよ。
全ての民よ、主をほめたたえよ。
主の慈しみとまことはとこしえに
私達を超えて力強い。
ハレルヤ。」(詩編117編)
[2017/3/9]