木田啓介のブログへようこそ!

永遠にいます神よ、み子イエス・キリストは、わたしはであり、真理であり、である、といわれました(福音の弁明と立証107,140,152-154参照)。どうかこのブログを訪問する人をあなたが祝福して下さいますように、そして共にあなたを賛美することができますように、どうか全ての人が主の道を歩み、主の真理を喜び、主の復活の命にあずかることができますように、主イエス・キリストによってお願い致します。アーメン

「主よ、私達を御心に留め
祝福して下さい。
主を賛美するのは死者ではない
沈黙の国へ去った人々ではない。
私達こそ、主をたたえよう
今も、そしてとこしえに。
ハレルヤ(福音の弁明と立証82参照)。」(詩編115編12,17-18節)

投稿者: keisukekidafrancis

キリスト・イエスの奴隷。呼ばれた者、派遣された者、選び出された者、神の福音のために。

“木田啓介のブログへようこそ!” への 8 件のフィードバック

  1. こちらからもコメントさせていただきます。
    独善的なキリスト教の害毒満載のブログですね。
    そしてその犠牲になっていることすら自覚できていない木田さんこそ哀れです。
    時間があればいつでも神田や池袋で対論させていただきますよ。
    もっとも現実逃避のキリスト教の信者だから、ムリでしょうね。

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    1. オカムラトシオ様
      コメントをどうもありがとうございます。
      チラシ配布の時にお会いした日蓮正宗の信者の方ですね。よく覚えております。オカムラトシオ様は、日蓮大聖人への信仰心が大変お篤い方でいらっしゃるとお見受けします。当方はオカムラトシオ様の信仰と立場を尊重致します。私は仏教について全くの無知なので、オカムラトシオ様に質問があります。是非ご回答、ご教授頂ければ幸いです。

      ①オカムラトシオ様は、私のブログについて「独善的なキリスト教の害毒満載」とおっしゃり、私を「現実逃避のキリスト教信者」とおっしゃいました。そこで質問ですが、日蓮大聖人自身がキリスト教を、独善的であるとか、現実逃避的であるとか、害毒であるとか、実際に教えたり書いたりした事があるのでしょうか?もし彼が実際に言った記録や書き記したものが存在するのであればその書名と箇所を教えて下さい。
      ②日蓮大聖人自身はキリスト教というものを少しでも知っていたのでしょうか?或いはイエス・キリストという人物について少しでも何か知っていたのでしょうか?或いは聖書というものを少しでも読んだことがあるのでしょうか?これらについて何か記録や彼自身が書き記したものがあれば、その書名と箇所を教えて下さい。
      ③日蓮大聖人と仏陀とはどちらが偉大なのでしょうか?

      質問は以上です。
      私を哀れんで下さり、感謝です。
      私も、父と子と聖霊である三位一体の神が、オカムラトシオ様を憐れんで下さるように、心よりお祈り致します。

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      1. お疲れさまです。
        ちなみに仏教は因果のうちにある教え(因果律に則った教え)で、自らを内道と呼ぶのに対して、因果を無視した教えを外道と呼んでおります。そしてキリスト教はまさしく外道。
        例えば聖母マリアが処女のまま懐胎したとか、処刑されたキリストが三日後に生き返ったとか・・・信じるのは自由ですが、明らかに道理から外れていて、愚かだと思います。
        世界中のキリスト教徒が2億人いたとしても、みーんな頭がおかしいと思います。
        というか、だからこそ昔からキリスト教徒は戦争ばかり起こしているのです。
        というか、その辺の子供に聞いたらわかりますよ。
        死んだ人が三日後に生き返る?
        恋人もいないで赤ちゃんができる?
        そういうのはまやかしです。
        神様だから別格だというのは明らかに欺瞞で幼稚で詐欺です。
        で、仏教においては十悪というものがあって、さしずめその中の妄語(ウソ)、愚癡(愚かな心)、綺語(真実ではないきれいごと)で、10のうちの3つとは、もうサイテーのサイテーだということです。
        これと似ているのは例えば詐欺師たちで、結婚詐欺を職業にしている人ぐらいでしょう。
        ですから、この時点でキリスト教は二重人格の精神疾患を誘発する有害邪教なのです。
        もちろん信じるのは自由ですが、道理に反しているため、救われなくて当たり前ですよ。
        だから聖書を読むまでもありません。
        というか、最初から破たんしている宗教なので、後付けで聖書を出したところで、さらに矛盾が広がるだけです。
        そして最後に、仏教というのは道理ですから、例えば2メートルの幅の川を飛び越えられない人は、5メートル幅の川を飛び越えるのは無理なのです。
        それと同様に、何がきっかけで木田さんがキリスト教に入信したかは知りませんが、道理を弁えない人は普通に暮らせません。それがわかっていないから、木田さんはいつまで経っても裸の王様なのです。
        キリスト教の害毒が全身に回ってしまっていて、本来の木田さんの良さが殺されてしまっていて、こうなると中毒症状です。恐らく木田さんは変人扱いされても、木田さんをVĪP扱いしてくれる人、いないんじゃないでしょうか。
        親友とか恋人とか。
        いたとしても双方的交流は難しく、一方的交流じゃないでしょうか。
        と同時に、キリスト教に入信する前と現在と何も変わっていないと断言します。
        なぜなら繰り返しになりますが、道理を弁えられないからです。
        キリスト教という害毒によって肥大化させられたに過ぎません。
        一方で私は親友も恋人もいて、双方的交流を楽しんでおります。
        そんなことでチャンスは二度ないのが人生ですから、臆病な心を捨てて、勇気を出して会いに来て下さいね。
        そうしないと、このままずっと結婚詐欺師と同じ二重人格で、誰からも相手にしてもらえませんよ。
        そりゃあセーフティーネットである同じキリスト教仲間には相手にしてもらえますがね、でもそういうのってミジメですよ。

        そして内村鑑三や国木田独歩の人生を知れば、キリスト教の害毒がどんなに強いかがわかるので、ぜひ知ってください。
        内村さんも国木田さんもキリスト教の害毒の犠牲者ですから。
        もちろん自覚症状がない分、木田さんも最大の被害者であり犠牲者であることはまちがいありません。

        引っ込み思案・内弁慶を克服するためにも、ぜひ道理を弁えて下さい。
        そして神田でも池袋でもどこでもお会いしますので、勇気を出して会いに来てくださいね。
        それができないような宗教者なら、キリスト教は単なるアクセサリーにすぎませんよ。
        そしてアクセサリーにしている限り、貴方の実人生は臆病と卑屈さと憎しみの三重奏で終わることでしょう。
        かの内村・国木田両氏のように・・・。
        ですから質問にはお答えできかねます。また失礼にもなりますので。
        最後に、命を投げ打つ覚悟がないキリスト教徒ほど臆病なものはこの世に存在しません。
        道理を捻じ曲げて生きているからです。
        もし万一正々堂々と反論できるのであれば、私はいつでもお会いしますよ。
        そんなことで、木田さんの人間性を否定してるのでjはなく、キリスト教の害毒に侵されてしまった木田さんの考え方や臆病な態度をバッサリ斬っているだけです。
        今現在のキリスト教の害毒に毒された卑屈さ・臆病さを引きずりながら、これからも生きていくつもりですか?
        もしそうだとしたら自業自得とはいえ、これ以上ミジメで哀れなことはないでしょう。
        肥大化してしまったご自分に気づかず、いい気になって一体どこへ行くつもりですか?
        ネット上でアクセサリーをひけらかすことしかできないのであれば本末転倒です。

        ではまた

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  2. 追伸:もともとキリスト教は愛を説く典型的な宗教です。そして右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せと説きます。
    ところが実際は、左の頬を打たれたら打ち返します。十字軍をはじめとして最近の湾岸戦争や9.11まで一貫してキリスト教徒はそうしてきました。つまり二枚舌なのです。ちなみに仏教における十悪の一つが二枚舌(両舌)です。
    そんなことで二枚舌=二重人格は当たり前。
    愛を説きながら冷酷にして残酷なのがキリスト教の素顔なのです。
    そしてそれはキリスト教の害毒に侵された木田さんにも当てはまることで、愛の欠けらすらなくて、冷たく突き放す傾向性がくっきりと表れていますよ。早い話が、言葉と心が一致してないのです。
    しかも臆病で卑屈でへそ曲がりなんです。
    信じるのは自由ですが、いったん信じたら木田さんも二枚舌、二重人格の毒にやられて大言壮語のオンパレードです。
    世間でも、「無理が通れば道理が引っ込む」と言いますが、まさしくそれです。
    それさえ分からないのですから、キリスト教はゲスな低級な邪宗教だということです。
    人格が破壊されたままでこの先も生きていくつもりでしょうか?
    自画自賛するわりには裸の王様で誰も相手にしてくれないでしょう。
    臆病から脱して勇気を出して棄教して再出発せんことをお勧めいたします。

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  3. お疲れ様です。木田さんのストーカー体験を読ませていただき、「ああ、やっぱりなあ」と思いました。
    そして、それがきっかけでキリスト教に入信した由。
    でも治らないと思いますよ。
    低級で弱い宗教ですから、ハッタリレベルですからねぇ。
    ウソだと思うなら続けてみてください。
    克服できないなくて当たり前の宗教ですから。
    そればかりか、他の悩みや苦しみがドンドン増えていくでしょう。
    見えなんか張ってないで、日蓮正宗・法道院へぜひ一度お越しください。
    ではまた

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  4. しばらくです。木田さんはストーカー行為で再犯だったのですね。
    それでキリスト教でしたか?
    無駄だと思いますよ。木田さんの体内の害毒が余計に増えてしまって倍増していることでしょう。
    邪宗教を捨てて、地球上唯一の慈悲の正しい宗教である日蓮正宗を信仰する以外にありません。
    臆病な心を捨てて、ぜひご連絡を。新たな人生を歩みましょう!

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    1. オカムラトシオ様

      一方的に自分の持論を展開するだけに終始し、私からの質問に対して全然ご回答頂けなかった事を大変残念に思い、かつ強い不信感を覚えます。そしてこのように不誠実なオカムラトシオ様の態度が日蓮正宗の正体なのかと思うと、はっきり言って私は日蓮正宗というものに対して強く失望せざるを得ません。またこのように不誠実なオカムラトシオ様の態度が日蓮正宗の正体なのかと思うと、まして私は日蓮正宗を信じようという気には全くなりません。日蓮正宗は、自分の持論を一方的に唱えて相手に押し付けよ、相手からの質問には一切答えるな、という教えなのでしょうか?

      オカムラトシオ様のコメントについて応答します。

      【全体について】
      私はオカムラトシオ様が主張される「因果律に則った教え」を信じる事や、オカムラトシオ様が主張される「道理を弁える」事では、人間は絶対に救われないと断言します。なぜなら私達は、人間は必ず死ぬという決定的な唯一の「道理」を知っているからです。道理とは国語辞典では「①そうあるべき当然の筋道。正しい論理。②わけ。理由。」と書かれており、仏教において道理とは「三世(過去・現在・未来=時間)十方(東西南北上下四維=空間)を貫くもの」、「いつでもどこでも変わらないもの」であり、因果とは「原因と結果の関係であり、結果には必ず原因がある」ということです(「一から分かる親鸞聖人と浄土真宗」https://1kara.tulip-k.jp/budhhism/201610954.htmlより)。決定的な唯一の道理である「人間は必ず死ぬ」という果(結果)の因(原因)は、言うまでもなく、人間が生まれる、人間が誕生するということです。だからオカムラトシオ様が主張される「因果律に則った教え」を信じる事やオカムラトシオ様が主張される「道理を弁える」事では、この世に生まれた人間は「人間は必ず死ぬ」という決定的な唯一の道理からは絶対に逃れられず、オカムラトシオ様が主張される「因果律に則った教え」を信じる事やオカムラトシオ様が主張される「道理を弁える」事の先にあるのはただ、この世に誕生した人間は死んだらそれで終わりであり、希望は全くなく絶望あるのみで、絶対に救われないのです。その意味で、私はオカムラトシオ様が主張される「因果律に則った教え」と「道理」について、全く魅力を感じませんし、信じようという気には全くなりません。福音すなわちよい知らせであるとは全く感じられず、私の実存に全然響いてきませんし、私の存在の芯が共鳴することは一切ありません。それは、オカムラトシオ様がおっしゃる「その辺の子供に聞いたらわかる」程度のただの常識と呼ばれるものに過ぎません。私はオカムラトシオ様にお聞きしたい。そのような誰でも知っているただの常識に過ぎない事に一体何の魅力があるのでしょうか?そのような誰でも知っているただの常識に過ぎない事をそもそも信じる必要なんてあるのでしょうか?わざわざ信じなくても誰でも知っているただの常識ではないですか?そのような誰でも知っているただの常識を信じて何の意味や価値があるのでしょうか?私は、そのような誰でも知っているただの常識に過ぎない事を信じて幸せになれるとは到底思えませんし、信じて幸せになれると言うのであれば、それは明らかにウソだと思います。私は、主イエス・キリストを信じる者は皆、無償で罪を全て赦され、正しい人とされ、彼と同じように、彼の十字架の死と復活にあずかる者となり、「人間は必ず死ぬ」という決定的な唯一の道理を打破し、彼の復活の命、つまり永遠の命を得る者となる、というキリスト教の教えに、神からのよい知らせに、つまり福音に絶対的な魅力を感じます。ただの常識を超越しているからこそ、絶望ではなく希望を見出すことができ、神からのよい知らせであり、福音であり、信じる価値があり、信じようという気になるのです。

      【因果、因果律、道理という仏教用語について】
      オカムラトシオ様は、仏教を因果の内にある教え、因果律に則った教えである、また仏教というものは道理であると主張されますが、実際に仏陀が因果や因果律や道理について教えているのでしょうか?「因果」や「因果律」や「道理」という言葉が出て来る仏教の経典の箇所を具体的に明示して下さい。私が調べたところ、仏教の経典は主に、①大乗仏教の経典である漢訳大蔵経、(例)「大正新脩大蔵経」大蔵出版、②上座部仏教の経典であるパーリ大蔵経、(例)「南伝大蔵経」大蔵出版、③チベット仏教の経典であるチベット大蔵経、(例)「北京版西蔵大蔵経」鈴木学術財団、の3系統があるようです。これらの仏教の経典で実際に「因果」や「因果律」や「道理」という言葉がどの書物のどの個所で出て来るのか、そこでどのように教えられているのか、またどのような文脈で語られているのかを知らない限り、私は仏教における「因果」や「因果律」や「道理」の言葉の本当の意味を理解できないと思うからです。
      それだから私はオカムラトシオ様の言う「因果」と「因果律」と「道理」を仏陀の教える「因果」と「因果律」と「道理」であるとは理解しません。なぜならオカムラトシオ様の言う「因果」と「因果律」と「道理」とは、例えば「死んだ人は生き返らない」とか「処女が妊娠するはずがない」とか「2メートル幅の川を飛び越えられない人は5メートル幅の川を飛び越えられない」というような、誰でも知っている常識と呼ばれているものに過ぎないからです。それは、あくまでも目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とし、目に見えない事、五感で知覚し得ない事、経験し得ない事については全く対象としない、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」であり「因果律」であり「道理」です。私は、悟りを開いたと言われる仏陀ほどの人物が、目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみに拘泥し、目に見えない事、五感で知覚し得ない事、経験し得ない事については全く無知で少しも教えない俗物根性のカタマリのような人であったとは到底信じられないからです。だから私は、オカムラトシオ様の言う「因果」と「因果律」と「道理」という言葉を、仏陀が教える「因果」と「因果律」と「道理」とは理解しません。あくまでもオカムラトシオ様の個人的な考えによる「因果」と「因果律」と「道理」と理解します。なぜなら仏教の経典の根拠を示していないからです。

      【各論について】
      1.オカムラトシオ様曰く「ちなみに仏教は因果のうちにある教え(因果律に則った教え)で、自らを内道と呼ぶのに対して、因果を無視した教えを外道と呼んでおります。そしてキリスト教はまさしく外道。」
      →キリスト教にも因果はあります。私のブログの冒頭に書いたように、イエス・キリストは「私は道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14章6節/福音の弁明と立証107,140,152-154/木田啓介のブログへようこそ!参照)と言いました。主イエスが御自分を「道」であると言っていることから、キリスト教では、イエス・キリストの生き方こそが人間の歩むべき正しい道であり、「内道」です。また逆にキリスト教では、イエス・キリストの生き方から外れた生き方こそが「外道」です。そしてキリスト教では、この「外道」を、聖書の言葉ですが「罪」とか「偶像礼拝(福音の弁明と立証55,151,158/神学の森35-36参照)」と呼んでいます。「罪」という言葉は聖書原文では「ΑΜΑΡΤΙΑアマルティア」というギリシア語で、原義は「標的を射損なう」という意味です。だからイエス・キリストの生き方という的から外れることが「罪」であり、まさしく「外道」なのです。因みに聖書には、具体的に名指しで日蓮大聖人や日蓮正宗が「罪」であり「偶像礼拝」であるとは書かれていません。ただ主イエス・キリストを信じる者は皆、罪を赦され、永遠の命を受けて救われると書いてあります。

      2.オカムラトシオ様曰く「例えば聖母マリアが処女のまま懐胎したとか、・・・信じるのは自由ですが、明らかに道理から外れていて、愚かだと思います。」
      →マリアが童貞女のまま懐胎した事は明らかに道理から外れているとおっしゃいますが、聖書にはきちんと因果律が示されています。聖書に「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(マタイによる福音書1章20節)と書いてあります。マリアが懐胎したという果(結果)は聖霊という因(原因)があると明示されており、聖書は因果関係を記しています。聖書がこのように簡潔な因果律の表現を取っているのは、マリアが懐胎したという出来事をどう理解するのかを神が人間に問いかけているからです。つまりマリアが懐胎したという出来事を私達人間がどう理解するかによって、その人が、目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみに拘泥する俗物根性のカタマリである、自然の人、すなわち肉の人であるのか、或いは目に見えない事、五感で知覚し得ない事、経験し得ない事までをも認識し、霊的な事柄(神学の森6/福音の弁明と立証110,125-138参照)を思慮深く洞察する力のある、霊の人であるのかが明らかにされてしまうということです。マリアが懐胎したという出来事が人間を、肉の人と霊の人の2種類に分けてしまうのです。つまり神が、マリアが懐胎したという出来事を通して人間を裁いているということです。また生殖医療技術が高度に発達した現在に生きる私達こそ、凍結精子などを使い、セックスなしで童貞女が妊娠するのはもはや技術的に可能であることを知っています。童貞女が妊娠する可能性はゼロではないということです。オカムラトシオ様の言う「道理」は、古くさい時代遅れの常識として、現在もはや打破されています。五感で知覚し得る範囲においてももう既に…。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」実際、聖書に記されたこの簡潔な表現の奥に秘められた意味は深遠です。オカムラトシオ様が、もし目に見えない事、五感で知覚し得ない事、経験し得ない事までをも認識し、霊的な事柄(神学の森6/福音の弁明と立証110,125-138参照)を思慮深く洞察する力のある、霊の人であるならば、マリアが処女のまま懐胎したという出来事は、この世の不条理によって未婚の母とかシングル・マザーというような状況が常に存在する人間社会の現実、この傷つけられた人間実存(福音の弁明と立証12参照)の痛みと苦しみを、神が目を背けることなく、その痛みと苦しみを共にしているしるし、神がこの傷つけられた人間実存を慈しみ憐れんで、回復し、救済しようとしているしるしである事に気づくはずです。私は、マリアが童貞女のまま懐胎した事を信じています。オカムラトシオ様が私を愚かだと思うのはご自由です。

      3.オカムラトシオ様曰く「例えば処刑されたキリストが三日後に生き返ったとか・・・信じるのは自由ですが、明らかに道理から外れていて、愚かだと思います。」
      →処刑されたキリストが三日後に復活した事は、明らかに道理から外れているとおっしゃいますが、聖書にはきちんと因果律が示されています。聖書に次のように書いてあります。
      「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピの信徒への手紙2章6-9節)
      このように、キリストが神によって高く上げられ、あらゆる名にまさる名を与えられた、つまりキリストが復活したという果(結果)は、彼のへりくだりと十字架の死に至るまでの彼の神への従順という因(原因)であると明示しています。また別の箇所に次のように書いてあります。
      「キリストは肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その恐れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全な者となられました。」(ヘブライ人への手紙5章7-8節)
      このように、キリストが完全な者となった、つまりキリストが復活したという果(結果)は、彼の、神を恐れ敬う態度と彼が苦難によって従順を学んだという因(原因)であると明示しています。オカムラトシオ様は処刑されたキリストが三日後に復活した事は愚かだとおっしゃいますが、そのような論理を唱える人はオカムラトシオ様だけではなく、初代教会の時代から実際に多くいます。使徒聖パウロは次のように書いています。
      「私達は、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ1章23-24節)
      「私達が語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私達に栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者達は誰一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。そして私達がこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです(神学の森6/福音の弁明と立証110,125-138参照)。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身は誰からも判断されたりしません。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ2章7-8,13-15節)
      私は十字架につけられて処刑されて殺されたイエスが三日後に復活した事を信じており、また実際に私はこの信仰によって救われたので、これを福音として語っています。オカムラトシオ様が私を愚かだと思うのはご自由です。しかし私はオカムラトシオ様のために祈りましょう。どうか主なる神がオカムラトシオ様に「知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いて下さいますように」(エフェソの信徒への手紙1章17-18節)、そしてオカムラトシオ様を「召された者」(コリントの信徒への手紙Ⅰ1章24節)とし、目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみに拘泥する俗物根性のカタマリである、自然の人すなわち肉の人ではなく、目に見えない事、五感で知覚し得ない事、経験し得ない事を認識し、神の霊に属する事柄までをも思慮深く洞察する力のある霊の人として下さいますように、心よりお祈り致します。

      4.オカムラトシオ様曰く「世界中のキリスト教徒が2億人いたとしても、みーんな頭がおかしいと思います。」
      →世界のキリスト教人口は2億人ではなく、約24.5億人(2016年度)です。世界人口の約33%です。私はオカムラトシオ様がキリスト教徒を「みーんな頭がおかしい」とおっしゃったことについて、全く驚いていません。むしろキリスト教徒に対する、昔からよくある反応だと至極冷静に受け止めています。なぜなら福音宣教活動をしていたイエス・キリストについて聖書に次のように書かれているからです。
      「身内の人達はイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」(マルコによる福音書3章21節)
      またパウロがアテネにおける福音宣教活動で、アレオパゴスで死者の復活について語った時のアテネ人の反応について聖書に次のように書かれているからです。
      「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなた方が信仰の篤い方であることを、私は認めます。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、全ての人にそのことの確証をお与えになったのです。』死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」(使徒言行録17章22,30-32節)
      また囚人として監禁されているパウロがユダヤ領主であるアグリッパ王とローマ帝国総督フェストゥスの前で福音を弁明した際、フェストゥスの反応について聖書に次のように書かれているからです。
      「パウロは手を差し伸べて弁明した。『つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を告げることになると述べたのです。』パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。『パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。』パウロは言った。『フェストゥス閣下、私は頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。』」(使徒言行録26章23-25節)
      またパウロは次のように書いています。
      「私達が正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなた方のためです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ5章13節)
      この記述から分かるように、福音宣教活動をするパウロ達への反応について、正気でないと受け止める人々と、正気であると受け止める人々の2種類の反応に分かれると言っています。そして正気であると受け止める人々については「あなた方のため」と記し、つまり正気であると受け止める人々には利益があると言っています。そして正気でないと受け止める人々については「神のため」と記し、正気でないと受け止める人々の利益については言及されていません。実際、正気でないと受け止める人々には利益はないのです。そもそも福音宣教活動は人間を、福音を信じる人と福音を信じない人の2種類に分けてしまうものです。それは現在における神の裁判でもあります。なぜなら聖書に次のように書かれているからです。
      「あなた方は知らないのですか。聖なる者達が世を裁くのです。私達が天使達さえ裁く者だということを、知らないのですか。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ6章2,3節)
      更に聖書には次のように書かれています。
      「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネによる福音書3章18節)、
      「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネによる福音書3章36節)
      だから、正気でないと受け止める人々について「神のため」と記されている意味は、聖なる者達、つまり福音宣教活動をする者達によって、正気でないと受け止める人々が福音を信じない部類の人に分けられることにより、神の裁判が明らかに進行していることが分かり、神の救いの計画自体は着実に前進しているという意味において、神の利益になっているということです。オカムラトシオ様がキリスト教を信じる人達を頭がおかしいと思うのはご自由です。しかしそれではオカムラトシオ様の利益にはなりません。このことは私ではなく聖書が言っていることです。私はオカムラトシオ様が私のように福音を信じて神の怒りを免れ、真の利益を得て、救われますように心よりお祈り致します。

      5.オカムラトシオ様曰く「というか、だからこそ昔からキリスト教徒は戦争ばかり起こしているのです。」
      →前段の論旨との論理的整合性が全くありません。なぜ「聖母マリアが処女のまま懐胎した」ことと「処刑されたキリストが三日後に生き返った」ことを信じることが戦争を起こすことにつながるのでしょうか?ご自身は「因果」と「因果律」をさながら教科書を読むように、金科玉条の如く盛んに唱えていらっしゃいますが、前段の論旨との因果関係が全く成立しておらず、論理破綻していて意味不明です。確かにキリスト教徒は昔から物理的な戦争を起こしてきました。それは確かにキリスト教徒の人間としての過ちです。しかしイエス・キリスト自身は物理的な戦争を決して起こしませんでしたし、物理的な戦争をせよとは決して教えませんでした。そして周知の如く、物理的な戦争を起こしているのはキリスト教徒に限りません。キリスト教以外の人間ももちろん物理的な戦争を起こしています。だから人間社会に物理的な戦争が起こっているのは、神やイエス・キリストのせいなのではなく、人類に普遍に存在する罪の問題なのです。そもそも物理的な戦争というもの自体、まさに、自分達の日常生活が全てで第一という思想から由来する、目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」の産物です。よく、物理的な戦争の原因は国の指導者や政治家のせいだとか、無辜の一般国民や無辜の一般市民は犠牲者であって国の指導者や政治家に騙されて物理的な戦争が引き起こされるのだとか言う人がいますが、全くの大ウソです。物理的な戦争の罪と責任は日常生活を営んでいる私達一人一人にあるのです。物理的な戦争という果(結果)の因(原因)は、人間の内にある、自分達の生活をより良くしたい、自分達の生活をより安心安全なものにしたいという功利的・打算的な願望です。例えば、資源や物資を有利に調達したいという願望、自国の生産物を他国に有利に売ってなるべく多くの利益を得たいという願望、自分達の生活を脅かす可能性のあるものを完全に除去したいという願望です。そして物理的な戦争は、目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」に基づき、緻密な計算と綿密な下準備のもとで起こされます。先ず相手国の情報を多く得て、その戦力を分析し、様々な観点から「因果」を検討し、自国の損害を最も少なくし相手国に損害を最も多く与える作戦を、考えられ得る限り多く立案し、それらをテーブルの上に乗せ、それぞれの作戦のメリットとデメリットを徹底的に比較検討して、最良の作戦を選び、実行するのです。このように物理的戦争は、人間の内にある功利的・打算的な願望という「道理」、つまり人間を支配している古い行動原理(福音の弁明と立証95-106参照)、すなわち罪によって引き起こされ、「因果」と「因果律」に基づいて実行されるのです。私は、この古い行動原理という「道理」を打破するためにこそ、神の力によって、新しい行動原理、すなわち福音を宣べ伝えているのです(福音の弁明と立証95,139参照)。

      6.オカムラトシオ様曰く「というか、その辺の子供に聞いたらわかりますよ。死んだ人が三日後に生き返る?恋人もいないで赤ちゃんができる?そういうのはまやかしです。神様だから別格だというのは明らかに欺瞞で幼稚で詐欺です。」
      →オカムラトシオ様の「というか、その辺の子供に聞いたらわかりますよ。」について私は全くそうは思いません。オカムラトシオ様は子供というものを過小評価していらっしゃいます。私は、むしろ子供の方が、目に見えない事や五感で知覚し得ない事や経験し得ない事に対する感覚や想像力は、大人よりもはるかに強力で鋭敏だと思います。大人は子供よりも時間的に長く日常生活に浸って埋没してしまっているため、知らず知らずの内に目前の日常生活が全てだと思い込んでしまい、目に見える事や五感で知覚し得る事や経験し得る事に閉じ込められ、束縛され、制限され、支配されてしまっているからです。大人はそのために子供よりも、目に見えない事や五感で知覚し得ない事や経験し得ない事に対する感覚や想像力が錆びついて鈍くなっているのです。実際「死んだイエスが三日後に生き返る」事と「恋人もいないで赤ちゃんができる」事を素直に心から信じているのは、割合的には大人よりも子供の方が圧倒的に多いですよ。子供を過小評価しているオカムラトシオ様に次のイエス・キリストの言葉を贈ります。
      「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。」(マタイによる福音書18章3-4節)
      またオカムラトシオ様が目に見えない事、五感で知覚し得ない事、経験し得ない事、神の霊に属する事柄を信じる事は「まやかし」であり「神様だから別格だというのは明らかに欺瞞で幼稚で詐欺」であると主張されることについて私は全くそうは思いません。オカムラトシオ様がそのような捉え方をされるのは、ご自身が自覚症状のないまま、あくまでも目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」に閉じ込められ、束縛され、制限され、支配されてしまっているためです。つまりオカムラトシオ様に「信仰」がないためです。
      私はオカムラトシオ様の言う、目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、いわば誰でも知っている常識と呼ばれるものに過ぎない「因果」と「因果律」と「道理」を信じる事を信仰だとは全く思いませんし、そのような信仰を否定します。なぜならキリスト教の信仰とは次のようなものだと聖書に書かれているからです。
      「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むのでしょうか。私達は目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマの信徒への手紙8章24-25節)
      「私達は見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節)
      「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。信仰がなければ神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者達に報いて下さる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ人への手紙11章1,6節)
      これが私の信仰です。オカムラトシオ様の「信仰」とはどのようなものでしょうか?また日蓮正宗の「信仰」とはどのようなものでしょうか?

      7.オカムラトシオ様曰く「で、仏教においては十悪というものがあって、さしずめその中の妄語(ウソ)、愚癡(愚かな心)、綺語(真実ではないきれいごと)で、10のうちの3つとは、もうサイテーのサイテーだということです。これと似ているのは例えば詐欺師たちで、結婚詐欺を職業にしている人ぐらいでしょう。ですから、この時点でキリスト教は二重人格の精神疾患を誘発する有害邪教なのです。」
      →私はキリスト教が妄語(ウソ)、愚癡(愚かな心)、綺語(真実ではないきれいごと)であるとは全く思いません。繰り返して言います。オカムラトシオ様がキリスト教を「詐欺師たち」、「結婚詐欺を職業にしている人」、「二重人格の精神疾患を誘発する有害邪教」というような捉え方をされるのは、ご自身が自覚症状のないまま、あくまでも目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」に閉じ込められ、束縛され、制限され、支配されてしまっているためです。つまりオカムラトシオ様に「信仰」がないためです。
      仏教の十悪については知識をどうもありがとうございました。どうやら「華厳経」という仏教の経典の中の「十地品」という箇所に出てくるらしいですね(「ウィキペディア-十善戒」https://ja.m.wikipedia.org/wiki/十善戒 より)。ウィキペディアでは仏教の十悪(十不善業道)は、殺生(故意に生き物を殺す)・不与取(与えられていないものを自分のものとする)・邪淫(不倫など道徳に外れた関係を持つ)・妄語(嘘をつく)・綺語(中身のない言葉を話す)・粗悪語(乱暴な言葉を使う)・離間語(他人を仲違いさせるようなことを言う)・貪欲(激しい欲をいだく)・瞋恚(激しい怒りをいだく)・邪見(因果の道理を無視した誤った見解を持つ)の十項目とされていて、オカムラトシオ様が言う「愚癡」はありませんでした。キリスト教には十戒というものがあります。これについて私は詳しく書いていますので是非お読み下さい(福音の弁明と立証54-81参照)。

      8.オカムラトシオ様曰く「もちろん信じるのは自由ですが、道理に反しているため、救われなくて当たり前ですよ。」
      →私は全くそうは思いません。実際、私は福音を信じる事によって救われています。先述したとおりキリスト教は、オカムラトシオ様の言う、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を超越しているからこそ、人間は救われるのです。同時にオカムラトシオ様の言う、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を信じることによっては、人間は決して救われないのです。

      9.オカムラトシオ様曰く「だから聖書を読むまでもありません。というか、最初から破たんしている宗教なので、後付けで聖書を出したところで、さらに矛盾が広がるだけです。」
      →オカムラトシオ様が聖書を読まない限り、オカムラトシオ様はキリスト教というものを確実に理解することはできません。だからオカムラトシオ様が聖書を読まない限り、オカムラトシオ様のキリスト教に対する批判は全て無意味であり、オカムラトシオ様がキリスト教を「最初から破たんしている」などと言う資格はありません。オカムラトシオ様が聖書を読まない限り、オカムラトシオ様のキリスト教に対する批判は、根拠のない偏見に満ちた、ただの個人的な感想、謬説、誹謗中傷であるに過ぎません。オカムラトシオ様が聖書を読まないでキリスト教を批判したり、キリスト教を「最初から破たんしている」などと虚言を吐く態度は、それこそ仏教の十悪における妄語(嘘をつく)・綺語(中身のない言葉を話す)・邪見(因果の道理を無視した誤った見解を持つ)に当たるのではないですか?「10のうちの3つとは、もうサイテーのサイテー」なのではないですか?
      →オカムラトシオ様は「後付けで聖書を出した」ことを批判していらっしゃるのですか?確かに新約聖書はイエス・キリストの十字架の死と復活の出来事の後に書かれたものですが、旧約聖書はそれ以前に書かれたものです。イエス・キリストの生涯と教えを伝える新約聖書が彼の十字架の死と復活の出来事の、時間的に後に書かれたのは、「因果」と「因果律」と「道理」に照らして当然のことです。仏教においても諸経典が書かれたのは仏陀が入滅した出来事の、時間的に後ではないですか?オカムラトシオ様は、「仏教は後付けで法華経を出した」とでも言うのでしょうか?

      10.オカムラトシオ様曰く「そして最後に、仏教というのは道理ですから、例えば2メートルの幅の川を飛び越えられない人は、5メートル幅の川を飛び越えるのは無理なのです。」
      →確かにおっしゃる通りですが、橋を作ったり船を使えば、2メートルの幅の川を飛び越えられない人でも5メートル幅の川を渡れますよね?それも道理ですよね?

      11.オカムラトシオ様曰く「それと同様に、何がきっかけで木田さんがキリスト教に入信したかは知りませんが、道理を弁えない人は普通に暮らせません。それがわかっていないから、木田さんはいつまで経っても裸の王様なのです。」
      →私が洗礼を受けてキリスト者となったのは0歳3カ月の時で、主なる神の計画によるものです。主なる神が、キリスト者である肉親を通して、赤ちゃんである私を呼び出し、恵みによって神のものとして下さったのです。聖書に次のように書いてある通りです。
      「主の言葉が私に臨んだ。/『私はあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。/母の胎から生まれる前に/私はあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。』」(エレミヤ書1章4-5節)
      →繰り返して言いますが、私はオカムラトシオ様が言う、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えるつもりは微塵もありません。なぜなら先述したように、オカムラトシオ様が言う、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えることによっては、人間は決して救われないからです。
      →日蓮正宗の目的は「普通に暮らす」ことなのでしょうか?日蓮大聖人はその人生において度重なる法難を受け、明らかに普通に暮らせませんでしたが、オカムラトシオ様の論理に従うと、彼は道理を弁えない人であるということになるのではないでしょうか?
      キリスト教の目的は「普通に暮らす」ことではありません。先述したように、「道であり真理であり命である」イエス・キリストが暮らしたように暮らすこと、或いはイエス・キリストの生き方と同じような生き方をしようと常に祈り求め続けて歩む事です。

      12.オカムラトシオ様曰く「キリスト教の害毒が全身に回ってしまっていて、本来の木田さんの良さが殺されてしまっていて、こうなると中毒症状です。」
      →オカムラトシオ様は、事柄の本質を実によく見抜いておられます。そうです。私はオカムラトシオ様の言う通り「中毒症状」です。タバコの中毒症状の人はタバコの奴隷。アルコールの中毒症状の人はアルコールの奴隷。それと同じように私は、神の中毒症状の人、キリスト・イエスの中毒症状の人です。つまり私は神の奴隷、キリスト・イエスの奴隷なのです。私は自分のツイッターのプロフィール欄に「キリスト・イエスの奴隷。呼ばれた者、派遣された者、選び出された者、神の福音のために。」と書きましたが、つまりそういうことです。オカムラトシオ様は、目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」の中毒症状の人、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えることの中毒症状の人ですか?つまりオカムラトシオ様は、目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」の奴隷、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えることの奴隷ですか?
      オカムラトシオ様は、既にお読みになったと思いますが(福音の弁明と立証161参照)、聖書に次のように書かれています。
      「知らないのですか。あなた方は、誰かに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなた方は罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって正義に至るか、どちらかなのです。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマの信徒への手紙6章16,23節)
      私は、オカムラトシオ様が私のように福音を信じ、罪の奴隷ではなく神の奴隷となり、死に定められるのではなく、永遠の命を賜りますように、心よりお祈り致します。
      →オカムラトシオ様の私に対するこの批判は、実はキリスト教信仰の核心を捉えたものです。キリスト教信仰の核心は、主イエスを信じ、父と子と聖霊の名によって洗礼を受ける事により、それまでの罪に支配された古い自分に死んで、主イエス・キリストに支配された新しい自分に生きるということです。つまりオカムラトシオ様が「本来の木田さんの良さが殺されてしまっていて」と感じることは、私が罪に支配された古い自分に死んでいるということであり、またオカムラトシオ様が「キリスト教の害毒が全身に回ってしまっていて…こうなると中毒症状です。」と感じることは、私が主イエス・キリストに支配された新しい自分に生きているということなのです。だからオカムラトシオ様が「害毒」と感じているのは、実は紛れもない正真正銘の「善」なのです。それは主イエス・キリストであり、私に送られている聖霊であるからです。聖書に次のように書いてあります。
      「あなた方は知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれた私達が皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私達は洗礼によってキリスト共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私達も新しい命に生きるためなのです。もし、私達がキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。私達の古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私達は、キリスト共に死んだのなら、キリスト共に生きることにもなると信じます。そして死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは神に対して生きておられるのです。このように、あなた方も自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(ローマの信徒への手紙6章3-11節)
      「あなた方は死んだのであって、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロサイの信徒への手紙3章3節)
      「私はキリスト共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤの信徒への手紙2章19-20節)

      13.オカムラトシオ様曰く「恐らく木田さんは変人扱いされても、木田さんをVIP扱いしてくれる人、いないんじゃないでしょうか。親友とか恋人とか。いたとしても双方的交流は難しく、一方的交流じゃないでしょうか。」
      →私は、福音宣教活動によって自分が変人扱いされても一向に構いません。先に述べたように、主イエスも福音宣教活動によって「あの男は気が変になっている」と言われたし、使徒聖パウロも福音宣教活動によって嘲笑されたり「お前は頭がおかしい」と言われたからです。
      →私はすでに書いたように、私が求めているのは実存と実存の触れ合いの関係です(福音の弁明と立証1,88参照)。私は、世間一般に広く行われている、お互いに実存を覆い隠した上での偽りの親友関係や偽りの恋人関係を求めているのではありません。オカムラトシオ様はVIP扱いされたいのですか?日蓮正宗はVIP扱いされるための教えなのですか?私は別にVIP扱いをされたい訳ではありません。なぜなら主イエスは次のように教えているからです。
      「あなた方も知っているように、異邦人の間では支配者達が民を支配し、偉い人達が権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイによる福音書20章25-28節)
      キリスト教はVIP扱いされるための教えではありません。

      14.オカムラトシオ様曰く「と同時に、キリスト教に入信する前と現在と何も変わっていないと断言します。なぜなら繰り返しになりますが、道理を弁えられないからです。キリスト教という害毒によって肥大化させられたに過ぎません。」
      →繰り返して言いますが、私がキリスト教に入信したのは0歳3カ月の時です。また繰り返して言いますが、私はオカムラトシオ様が言う、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えるつもりは微塵もありません。なぜなら先述したように、オカムラトシオ様が言う、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えることによっては、人間は決して救われないからです。また繰り返して言いますが、オカムラトシオ様が言う「害毒」は、害毒ではありません。正真正銘の紛れもない「善」であり、主イエス・キリストであり、聖霊です。私はこれからもこの聖霊によって益々肥大化させられていくということを、ここで宣言しておきます。

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    2. 15.オカムラトシオ様曰く「一方で私は親友も恋人もいて、双方的交流を楽しんでおります。」
      →それは大いに結構なことです。そうなのであれば、オカムラトシオ様は先ず第一に、ご自分に親友と恋人を与えて下さった主なる神に感謝するべきです。聖書に次のように書いてあります。
      「一体あなたの持っているもので、頂かなかったものがあるでしょうか。もし頂いたのなら、なぜ頂かなかったような顔をして高ぶるのですか。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ4章7節)
      「主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にある全てのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたは全てものの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。私達の神よ、今こそ私達はあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。全てはあなたから頂いたもの、私達は御手から受け取って、差し出したに過ぎません。」(歴代誌上29章10-14節)
      →オカムラトシオ様がもし「双方的交流を楽しんでいる」と豪語するのであれば、私からの質問にきちんと誠実に答えて下さい。それができないのであればオカムラトシオ様は双方的交流の人であるとは到底言えず、まさしく一方的交流の人であると言わざるを得ません。

      16.オカムラトシオ様曰く「そんなことでチャンスは二度ないのが人生ですから、臆病な心を捨てて、勇気を出して会いに来て下さいね。そうしないと、このままずっと結婚詐欺師と同じ二重人格で、誰からも相手にしてもらえませんよ。そりゃあセーフティーネットである同じキリスト教仲間には相手にしてもらえますがね、でもそういうのってミジメですよ。」
      →繰り返して言います。相手からの質問に全く答えずに自分の持論を一方的に押し付ける人達に会おうという気は全く起こりません。オカムラトシオ様こそ「臆病な心を捨てて、勇気を出して」私からの質問にきちんと誠実に答えて下さい。
      →繰り返して言います。キリスト教信者は決して「結婚詐欺師と同じ二重人格」なのではありません。オカムラトシオ様がそのような捉え方をされるのは、ご自身が自覚症状のないまま、あくまでも目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」に閉じ込められ、束縛され、制限され、支配されてしまっているためです。つまりオカムラトシオ様に「信仰」がないためです。
      →私は自分がキリスト教仲間以外の誰からも相手にしてもらえないとは全く思っていません。現にオカムラトシオ様が私を相手にしています。また私は福音宣教活動によって、たとえ誰からも相手にしてもらえなかったとしても、自分を全くミジメだとは思いません。なぜなら主イエス・キリスト自身、福音宣教活動のクライマックスの時、自分の弟子に裏切られ、全ての人に見捨てられ、死刑に相当する犯罪者として十字架につけられて死に、三日目に復活したからです。この方こそ私の神、私の主です。私は、「道であり、真理であり、命である」主イエス・キリストの生き方から外れた生き方の人、つまり外道の人こそミジメであると確信します。

      17.オカムラトシオ様曰く「そして内村鑑三や国木田独歩の人生を知れば、キリスト教の害毒がどんなに強いかがわかるので、ぜひ知ってください。内村さんも国木田さんもキリスト教の害毒の犠牲者ですから。もちろん自覚症状がない分、木田さんも最大の被害者であり犠牲者であることはまちがいありません。」
      →私は、内村鑑三や国木田独歩の人生を詳しくは知りませんし、また知ろうともあまり思いません。私が知りたいのは、ただ主イエス・キリストの人生のみです。
      →オカムラトシオ様も、ご自身が自覚症状のないまま、あくまでも目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」に閉じ込められ、束縛され、制限され、支配されてしまっていることの最大の被害者であり犠牲者であること、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えることの最大の被害者であり犠牲者であること、「信仰」がないことの最大の被害者であり犠牲者であることにお気づきになることをお勧め致します。

      18.オカムラトシオ様曰く「引っ込み思案・内弁慶を克服するためにも、ぜひ道理を弁えて下さい。そして神田でも池袋でもどこでもお会いしますので、勇気を出して会いに来てくださいね。それができないような宗教者なら、キリスト教は単なるアクセサリーにすぎませんよ。そしてアクセサリーにしている限り、貴方の実人生は臆病と卑屈さと憎しみの三重奏で終わることでしょう。かの内村・国木田両氏のように・・・。」
      →繰り返して言いますが、私はオカムラトシオ様が言う、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えるつもりは微塵もありません。なぜなら先述したように、オカムラトシオ様が言う、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えることによっては、人間は決して救われないからです。
      →繰り返して言います。相手からの質問に全く答えずに自分の持論を一方的に押し付ける人達に会おうという気は私に全く起こりません。オカムラトシオ様こそ「臆病な心を捨てて、勇気を出して」私からの質問にきちんと誠実に答えて下さい。
      →私にとってキリスト教は単なるアクセサリーではありません。私にとってキリスト教は救いです。つまり私にとってキリスト教は自分の価値を高めるアクセサリーとか人生の成功を保証するパスポートのようなものではなく、生きるスジであり、同時に死ぬスジです。聖書に次のように書いてある通りです。
      「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピの信徒への手紙1章21節)
      「私はキリスト共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤの信徒への手紙2章19-20節)
      「私達の中には、誰一人自分のために生きる人はなく、誰一人自分のために死ぬ人もいません。私達は、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私達は主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマの信徒への手紙14章7-9節)
      オカムラトシオ様こそ日蓮正宗は単なるアクセサリーに過ぎないのではないですか?つまりオカムラトシオ様にとって日蓮正宗はVIP扱いされるための教えであり、自分の価値を高めるアクセサリーとか人生の成功を保証するパスポートのようなものなのではないですか?

      19.オカムラトシオ様曰く「ですから質問にはお答えできかねます。また失礼にもなりますので。」
      →全く意味不明の論理です。なぜ相手からの質問に答えることが失礼になるのでしょうか?むしろ相手からの質問に答えない不誠実な態度こそ失礼であり無礼です。繰り返して言います。オカムラトシオ様は「臆病な心を捨てて、勇気を出して」私からの質問にきちんと誠実に答えるべきです。それができないのであればオカムラトシオ様は双方的交流の人であるとは到底言えず、まさしく一方的交流の人であると言わざるを得ません。

      20.オカムラトシオ様曰く「最後に、命を投げ打つ覚悟がないキリスト教徒ほど臆病なものはこの世に存在しません。道理を捻じ曲げて生きているからです。もし万一正々堂々と反論できるのであれば、私はいつでもお会いしますよ。」
      →オカムラトシオ様に言われるまでもなく、キリスト教は主イエス・キリストの十字架での犠牲と血が根源であり、彼と同じように実際に命を投げ打った無数のキリスト教徒の犠牲と血が基礎です。無数のキリスト教徒達は福音を信じ、つまり十字架刑で殺されたイエス・キリストが三日目に復活した事を信じ、その信仰を棄てなかったために、不信仰者達から迫害を受け、実際に殺されてきました。しかし殺された無数のキリスト教徒の犠牲と血は、実は主イエス・キリストの十字架での犠牲と血と同じなのです。そして、この犠牲と血こそがキリスト教信仰の基礎です。だからキリスト教徒は道理を捻じ曲げて生きてはいません。キリスト教徒にとって道理は「道であり、真理であり、命である」主イエス・キリストだからです。
      日蓮正宗は信仰のために命を投げ打った信者は果たしてどれ位いるのでしょうか?信仰のために実際に血を流し、実際に殺された日蓮正宗の信者は一体どれ位いるのでしょうか?
      繰り返して言います。オカムラトシオ様がキリスト教徒を「道理を捻じ曲げて生きている」というような捉え方をされるのは、ご自身が自覚症状のないまま、あくまでも目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」に閉じ込められ、束縛され、制限され、支配されてしまっているためです。オカムラトシオ様にとって「道理」とは誰でも知っているただの常識に過ぎないことであり、「道であり、真理であり、命である」イエス・キリストではないためです。つまりオカムラトシオ様にイエス・キリストへの「信仰」がないためです。
      →私はオカムラトシオ様に対して既に正々堂々と反論しております。繰り返して言います。相手からの質問に全く答えずに自分の持論を一方的に押し付ける人達に会おうという気は私に全く起こりません。オカムラトシオ様こそ「臆病な心を捨てて、勇気を出して」私からの質問にきちんと誠実に答えて下さい。

      21.オカムラトシオ様曰く「そんなことで、木田さんの人間性を否定してるのでjはなく、キリスト教の害毒に侵されてしまった木田さんの考え方や臆病な態度をバッサリ斬っているだけです。」
      →繰り返して言います。オカムラトシオ様が「害毒」と感じているのは、実は紛れもない正真正銘の「善」なのです。それは主イエス・キリストであり、私に送られている聖霊であるからです。
      →オカムラトシオ様はキリスト教を「バッサリ斬っている」つもりなのでしょうが、それは単なる錯覚です。キリスト教はオカムラトシオ様によっては全く斬られてはいません。なぜなら先述した通り、オカムラトシオ様のキリスト教に対する批判は、根拠のない偏見に満ちた、ただの個人的な感想、謬説、誹謗中傷であるに過ぎないからです。オカムラトシオ様は、ご自分のキリスト教に対する虚言や妄説が、ただキリスト教の真実を益々明らかにし、私の信仰を益々堅固にしていくだけだということを知るべきです。

      22.オカムラトシオ様曰く「今現在のキリスト教の害毒に毒された卑屈さ・臆病さを引きずりながら、これからも生きていくつもりですか?もしそうだとしたら自業自得とはいえ、これ以上ミジメで哀れなことはないでしょう。肥大化してしまったご自分に気づかず、いい気になって一体どこへ行くつもりですか?ネット上でアクセサリーをひけらかすことしかできないのであれば本末転倒です。 ではまた オカムラトシオより」
      →繰り返して言います。オカムラトシオ様が「害毒」と感じているのは、実は紛れもない正真正銘の「善」なのです。それは主イエス・キリストであり、私に送られている聖霊であるからです。
      →繰り返して言います。私は福音宣教活動によって、たとえ誰からも相手にしてもらえなかったとしても、自分を全くミジメだとは思いません。なぜなら主イエス・キリスト自身、福音宣教活動のクライマックスの時、自分の弟子に裏切られ、全ての人に見捨てられ、死刑に相当する犯罪者として十字架につけられて死に、三日目に復活したからです。この方こそ私の神、私の主です。私は、「道であり、真理であり、命である」主イエス・キリストの生き方から外れた生き方の人、つまり外道の人こそミジメであると確信します。
      →繰り返して言いますが、オカムラトシオ様が言う「害毒」は、害毒ではありません。正真正銘の紛れもない「善」であり、主イエス・キリストであり、聖霊です。私はこれからもこの聖霊によって益々肥大化させられていくということを、ここで宣言しておきます。
      →オカムラトシオ様は「一体どこへ行くつもりですか?」と私に言いますが、私がどこへ行くかについては既にブログに書きました(福音の弁明と立証128参照)。主イエス・キリストの十字架の運命です。お読みになっていらっしゃらないのですか?
      →繰り返して言います。私にとってキリスト教は単なるアクセサリーではありません。私にとってキリスト教は救いです。つまり私にとってキリスト教は自分の価値を高めるアクセサリーとか人生の成功を保証するパスポートのようなものではなく、生きるスジであり、同時に死ぬスジです。オカムラトシオ様が私を「ネット上でアクセサリーをひけらかすことしかできない」と判断し評価するのはご自由です。しかし私についてそのような判断と評価しかできないオカムラトシオ様はまことにオメデタイと私は思います。

      23.オカムラトシオ様曰く「追伸:もともとキリスト教は愛を説く典型的な宗教です。そして右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せと説きます。ところが実際は、左の頬を打たれたら打ち返します。十字軍をはじめとして最近の湾岸戦争や9.11まで一貫してキリスト教徒はそうしてきました。つまり二枚舌なのです。ちなみに仏教における十悪の一つが二枚舌(両舌)です。そんなことで二枚舌=二重人格は当たり前。愛を説きながら冷酷にして残酷なのがキリスト教の素顔なのです。」
      →オカムラトシオ様は二枚舌(両舌)を仏教における十悪の一つと言いますが、厳密に言えば仏教における十悪の一つである「離間語」は、「他人を仲違いさせるようなことを言う」という意味であり、従って「不両舌」というのは「他人を仲違いさせるようなことを言わない」という意味だそうです(「ウィキペディア-十善戒」https://ja.m.wikipedia.org/wiki/十善戒 より)。
      →繰り返して言います。確かにキリスト教徒は昔から物理的な戦争を起こしてきました。それは確かにキリスト教徒の人間としての過ちです。しかしイエス・キリスト自身は物理的な戦争を決して起こしませんでしたし、物理的な戦争をせよとは決して教えませんでした。そして周知の如く、物理的な戦争を起こしているのはキリスト教徒に限りません。キリスト教以外の人間ももちろん物理的な戦争を起こしています。日蓮正宗も太平洋戦争の時は戦争に協力した事実がありますよね(「宗内僧侶に問う 『なぜ、日蓮正宗は戦争責任を認めないのか』」www.nichiren.com/jp/special_topic/special_topic07/2017.pdf より)。だから人間社会に物理的な戦争が起こっているのは、神やイエス・キリストのせいなのではなく、人類に普遍に存在する罪の問題なのです。
      →オカムラトシオ様が引用した聖句「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」は、マタイによる福音書5章39節に書かれているものです。すなわち次のように書かれています。
      「イエスは教えられた。『しかし私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。』」(マタイによる福音書5章39-40節)
      オカムラトシオ様はこの箇所から、キリスト教について「ところが実際は、左の頬を打たれたら打ち返します。十字軍をはじめとして最近の湾岸戦争や9.11まで一貫してキリスト教徒はそうしてきました。つまり二枚舌なのです。ちなみに仏教における十悪の一つが二枚舌(両舌)です。そんなことで二枚舌=二重人格は当たり前。愛を説きながら冷酷にして残酷なのがキリスト教の素顔なのです。」と解釈しますが、完全な誤りであり、全くの見当違いです。この箇所はイエス・キリスト自身について書かれたことであり、イエス・キリスト自身において既に実現したことなのです。つまりイエスの十字架刑の時のことですが、聖書に次のように書かれています。
      「人々はイエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、『メシア、お前を殴ったのは誰か。言い当ててみろ』と言った。」(マタイによる福音書26章67-68節)
      「それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、『言い当ててみろ』と言い始めた。また、下役達は、イエスを平手で打った。」(マルコによる福音書14章65節)
      「兵士達はイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。」(マタイによる福音書27章35節)
      「兵士達はイエスを十字架につけて、その服を分け合った、誰が何を取るかをくじ引きで決めてから。」(マルコによる福音書15章24節)
      このようにイエス・キリスト自身は、悪人に手向かわず、右の頬を打たれたら左の頬をも向け、下着を取ろうとする者には上着をも取らせたのです。だからオカムラトシオ様が引用した聖句はイエス・キリスト自身について書かれたことであり、イエス・キリスト自身において既に実現したことであり、嘘ではなく真実であり、キリスト教徒が二枚舌=二重人格であることを示す箇所では決してないのです。
      →キリスト教徒の物理的戦争について、私はツイッターのダイレクトメッセージを通してある人からの質問に答えた事があります。参考のため、その時私が答えた事を以下に転載します。
      ≪H様が無神論者であるとのこと、了解しました。私はH様の立場を尊重します。人間には神の存在を信じる自由も、信じない自由もあるからです。私はH様に信仰を強制したりはしません。ただ私は、無神論者であるH様にも神の存在を信じて欲しいと個人的に思っているだけです。
      さてご質問の件、神が実在するのであれば何故戦争や紛争がいつも起きるのか?キリスト教だって600年程前に十字軍を送って戦争したではないか?という問いですが、以下に私見を述べます。
      物理的な戦争が起きる理由は神やイエス・キリストのせいではなく、人間の罪のせいだからです。私がここで確認したいのは、実際のイエス・キリストは決して、物理的な戦争を実行したり、主謀したりしなかったということです。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書のどこにイエス・キリストが物理的な戦争をしたと証言されているでしょうか?H様のおっしゃる通り、確かにキリスト教も600年程前に十字軍を送って戦争をしました。しかし、それは実際のイエス・キリストが教えたことではありませんでした。彼は次のように言っています。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイによる福音書26章52節)と。
      また聖書にこう書いてあります。「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」(ヨハネの手紙Ⅰ2章6節)と。だから、十字軍の戦争を実行したり、主謀したりした人達は、口ではキリストを信じると言いながら、実際の行いではキリストの生き方とは全く違う人達だったと言えるでしょう。確かに十字軍はキリスト教の過ちです。しかしそれはイエス・キリストのせいではなく、私達人間の罪のせいなのです。言うまでもなく物理的な戦争は、キリスト教の人間だけではなく、あらゆる宗教・民族・国家の人間が引き起こしています。人類の普遍的問題、つまり人間の罪の問題なのです。
      それでは、どうすれば物理的な戦争が無くなるのか?
      私は、全ての人がイエス・キリストに似た生き方をすれば直ちに完全に無くなると信じています。だから周囲からは自分がたとえ愚か者や気違いに見えたとしても、私は敢えて福音宣教活動を行っているのです。
      なぜなら人間は、自分達の能力では、たとえそれがどんなに優れた能力であったとしても、自分達の罪を克服することはできない、戦争を完全に無くすことはできないからです。それは人間の歴史が証明しているのではないでしょうか?
      だから人間が自分達の罪を克服したり、物理的な戦争を完全に無くすためには、やはり絶対に神の力、イエス・キリストの力が必要なのだと私は考えています。
      最後に「神はハルマゲドンを待たずに人間を滅ぼしたいのですか。」との問いですが、決してそのようなことはありません。神は人間を滅ぼしたいのではありません。救いたいのです。それは聖書に次のように書いてある通りです。
      「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネによる福音書3章16-17節)と。≫

      24.オカムラトシオ様曰く「そしてそれはキリスト教の害毒に侵された木田さんにも当てはまることで、愛の欠けらすらなくて、冷たく突き放す傾向性がくっきりと表れていますよ。早い話が、言葉と心が一致してないのです。しかも臆病で卑屈でへそ曲がりなんです。
      信じるのは自由ですが、いったん信じたら木田さんも二枚舌、二重人格の毒にやられて大言壮語のオンパレードです。」
      →繰り返して言います。オカムラトシオ様が「害毒」と感じているのは、実は紛れもない正真正銘の「善」なのです。それは主イエス・キリストであり、私に送られている聖霊であるからです。
      →繰り返して言いますが、オカムラトシオ様が言う「害毒」は、害毒ではありません。正真正銘の紛れもない「善」であり、主イエス・キリストであり、聖霊です。私はこれからもこの聖霊によって益々肥大化させられていくということを、ここで宣言しておきます。
      →私が「道であり真理であり命である」イエス・キリストが暮らしたように暮らすならば、或いはイエス・キリストの生き方と同じような生き方をしようと常に祈り求め続けて歩むならば、私は決して言葉と心が一致していないことはないし、まして二枚舌、二重人格でも決してありません。しかし私がもし、「道であり真理であり命である」イエス・キリストが暮らしたように暮らさないならば、或いはイエス・キリストの生き方と同じような生き方をしようと常に祈り求め続けて歩まないならば、私はオカムラトシオ様の言う通り「言葉と心が一致してない」し、「二枚舌」であり「二重人格」です。

      25.オカムラトシオ様曰く「世間でも、『無理が通れば道理が引っ込む』と言いますが、まさしくそれです。それさえ分からないのですから、キリスト教はゲスな低級な邪宗教だということです。」
      →繰り返して言います。キリスト教は決して「無理が通れば道理が引っ込む事を分からない」のでもないし、「ゲスな低級な邪宗教」なのでもありません。オカムラトシオ様がそのような捉え方をされるのは、ご自身が自覚症状のないまま、あくまでも目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」に閉じ込められ、束縛され、制限され、支配されてしまっているためです。つまりオカムラトシオ様に「信仰」がないためです。繰り返して言いますが、キリスト教の「道理」とは、オカムラトシオ様の言う誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」ではありません。キリスト教の「道理」とは「道であり、真理であり、命である」イエス・キリストです。

      26.オカムラトシオ様曰く「人格が破壊されたままでこの先も生きていくつもりでしょうか?自画自賛するわりには裸の王様で誰も相手にしてくれないでしょう。臆病から脱して勇気を出して棄教して再出発せんことをお勧めいたします。」
      →私はキリスト教を棄教するつもりは全くありません。繰り返して言います。オカムラトシオ様が「破壊された人格」と感じているのは、実は紛れもない正真正銘の「善」なのです。それは主イエス・キリストであり、私に送られている聖霊であるからです。私はこれからもこの聖霊によって益々肥大化させられていくということを、ここで宣言しておきます。
      →私は自画自賛している訳ではありません。もしオカムラトシオ様が私のブログをしっかりと読み込んで頂けたのであれば、私が自画自賛しているのでは決してなく、私が自分を救って下さった主なる神を賛美しているという事、私が自分を救って下さった主なる神に感謝を献げているという事がお分かり頂けるはずだと思います(福音の弁明と立証序,29-31,94,163参照)。
      →繰り返して言います。私は福音宣教活動によって、たとえ自分が裸の王様であると評価されたとしても、またたとえ誰からも相手にしてもらえなかったとしても、自分を裸の王様だともミジメだとも全く思いません。なぜなら主イエス・キリスト自身、福音宣教活動のクライマックスの時、自分の弟子に裏切られ、全ての人に見捨てられ、死刑に相当する犯罪者として十字架につけられて死に、三日目に復活したからです。この方こそ私の神、私の主です。私は、「道であり、真理であり、命である」主イエス・キリストの生き方から外れた生き方の人、つまり外道の人こそ裸の王様でありミジメであると確信します。

      27.オカムラトシオ様曰く「お疲れ様です。木田さんのストーカー体験を読ませていただき、『ああ、やっぱりなあ』と思いました。」
      →私は「ストーカー体験」というタイトルの文章を自分のブログに書いてはいません。嘘をつくことは仏教の十悪の一つである「妄語(嘘をつく)」に当たるのではないですか?正式なタイトル名と箇所の明示をお願いします。私がブログに書いた文章は2019年6月29日時点で下記の通りです。

      「木田啓介のブログへようこそ!」
      「福音の弁明と立証~私の実存と主イエス・キリストとの出会い~」序,1-163
      「神学の森」1-45
      「前衛的に生きることを決意する者を鼓舞する、岡本太郎の言葉」
      「対決宣言。無条件の愛を否定・弾圧する邪悪な思想に対する反駁。~ストーカー規制法事件を通して~」
      「子供は親の所有物であるとする思想に対する駁正。~未成年者誘拐事件を通して~」

      28.オカムラトシオ様曰く「そして、それがきっかけでキリスト教に入信した由。でも治らないと思いますよ。低級で弱い宗教ですから、ハッタリレベルですからねぇ。」
      →繰り返して言いますが、私がキリスト教に入信したのは0歳3カ月の時です。
      →オカムラトシオ様は私がキリスト教では治らないと言いますが、ご心配なく。私は主イエス・キリストを信じることによってすでに治っています。つまり癒され、救われています。繰り返して言います。キリスト教は決して「低級で弱い宗教」でも「ハッタリレベル」でもありません。オカムラトシオ様がそのような捉え方をされるのは、ご自身が自覚症状のないまま、あくまでも目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」に閉じ込められ、束縛され、制限され、支配されてしまっているためです。つまりオカムラトシオ様に「信仰」がないためです。繰り返して言いますが、キリスト教の「道理」とは、オカムラトシオ様の言う誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」ではありません。キリスト教の「道理」とは「道であり、真理であり、命である」イエス・キリストです。そして私は自分が日蓮正宗では決して治らないということも断言しておます。なぜなら先述したように、オカムラトシオ様が言う、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えることによっては、人間は決して救われないからです。だから繰り返して言いますが、私はオカムラトシオ様が言う、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えるつもりは微塵もありません。

      29.オカムラトシオ様曰く「ウソだと思うなら続けてみてください。克服できないなくて当たり前の宗教ですから。そればかりか、他の悩みや苦しみがドンドン増えていくでしょう。見えなんか張ってないで、日蓮正宗・法道院へぜひ一度お越しください。 ではまた」
      →私はオカムラトシオ様に言われるまでもなく、福音宣教活動を続けていくつもりです。繰り返して言います。キリスト教は決して「克服できなくて当たり前の宗教」なのではありません。オカムラトシオ様がそのような捉え方をされるのは、ご自身が自覚症状のないまま、あくまでも目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」に閉じ込められ、束縛され、制限され、支配されてしまっているためです。つまりオカムラトシオ様に「信仰」がないためです。繰り返して言いますが、キリスト教の「道理」とは、オカムラトシオ様の言う誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」ではありません。キリスト教の「道理」とは「道であり、真理であり、命である」イエス・キリストです。
      →私が福音宣教活動をすることで、私に「他の悩みや苦しみがドンドン増えていく」としても、私はそれを当然のこととして受け容れます。なぜなら聖書に次のように書いてあるからです。
      「あなた方には、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピの信徒への手紙1章29節)
      「キリスト共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマの信徒への手紙8章17節)
      「私達は知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私達を欺くことはありません。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙5章3-5節)
      「もし神が私達の味方であるならば、誰が私達に敵対できますか。私達全てのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私達に賜らないはずがありましょうか。誰が神に選ばれた者達を訴えるでしょう。人を正義として下さるのは神なのです。誰が私達を罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私達のために執り成して下さるのです。誰が、キリストの愛から私達を引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。しかし、これら全てのことにおいて、私達は、私達を愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています。私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことはできないのです。」(ローマの信徒への手紙8章31-35,37-39節)
      →繰り返して言います。相手からの質問に全く答えずに自分の持論を一方的に押し付ける人達に会おうという気は私に全く起こりません。オカムラトシオ様こそ「臆病な心を捨てて、勇気を出して」私からの質問にきちんと誠実に答えて下さい。

      30.オカムラトシオ様曰く「しばらくです。木田さんはストーカー行為で再犯だったのですね。 それでキリスト教でしたか? 無駄だと思いますよ。木田さんの体内の害毒が余計に増えてしまって倍増していることでしょう。 邪宗教を捨てて、地球上唯一の慈悲の正しい宗教である日蓮正宗を信仰する以外にありません。 臆病な心を捨てて、ぜひご連絡を。新たな人生を歩みましょう!」
      →ストーカー行為に当たるかどうかは知りませんが、私はこれからも自分の福音宣教活動を続けていくつもりです。
      →繰り返して言いますが、私がキリスト教に入信したのは0歳3カ月の時です。
      →オカムラトシオ様はキリスト教を信じるのは無駄だと言いますが、ご心配なく。私は主イエス・キリストを信じることによってすでに癒され、救われています。繰り返して言います。キリスト教は決して「無駄」でも「邪宗教」でもありません。オカムラトシオ様がそのような捉え方をされるのは、ご自身が自覚症状のないまま、あくまでも目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」に閉じ込められ、束縛され、制限され、支配されてしまっているためです。つまりオカムラトシオ様に「信仰」がないためです。繰り返して言いますが、キリスト教の「道理」とは、オカムラトシオ様の言う誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」ではありません。キリスト教の「道理」とは「道であり、真理であり、命である」イエス・キリストです。そして私は自分が日蓮正宗では決して癒されず、救われないということも断言しておます。なぜなら先述したように、オカムラトシオ様が言う、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えることによっては、人間は決して救われないからです。だから繰り返して言いますが、私はオカムラトシオ様が言う、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えるつもりは微塵もありません。そして私はキリスト教を捨てるつもりは全くありませんし、日蓮正宗を信仰するつもりも全くありません。
      →繰り返して言います。オカムラトシオ様が「害毒」と感じているのは、実は紛れもない正真正銘の「善」なのです。それは主イエス・キリストであり、私に送られている聖霊であるからです。私に送られている聖霊が余計に増えてしまって倍増しているのであれば、それはとても善いことです。私はこれからもこの聖霊によって益々肥大化させられていくということを、ここで宣言しておきます。
      →繰り返して言います。相手からの質問に全く答えずに自分の持論を一方的に押し付ける人達に会おうという気は私に全く起こりません。オカムラトシオ様こそ「臆病な心を捨てて、勇気を出して」私からの質問にきちんと誠実に答えて下さい。

      オカムラトシオ様のコメントについての応答は以上です。
      私は改めてオカムラトシオ様に再度、質問致します。オカムラトシオ様がもしご自分を一方的交流の人ではなく双方的交流の人であると言うのであれば、私からの質問にきちんと誠実に答えるべきです。以下の私からの質問に、全てきちんと誠実にお答え頂けない限り、私はオカムラトシオ様を無礼な一方的交流の人であると見做し、オカムラトシオ様のコメントには一切応答致しません。どうぞ宜しくお願い致します。
      質問は下記の19項目です。

      ①オカムラトシオ様は、私のブログについて「独善的なキリスト教の害毒満載」とおっしゃり、私を「現実逃避のキリスト教信者」とおっしゃいました。そこで質問ですが、日蓮大聖人自身がキリスト教を、独善的であるとか、現実逃避的であるとか、害毒であるとか、実際に教えたり書いたりした事があるのでしょうか?もし彼が実際に言った記録や書き記したものが存在するのであればその書名と箇所を教えて下さい。

      ②日蓮大聖人自身はキリスト教というものを少しでも知っていたのでしょうか?或いはイエス・キリストという人物について少しでも何か知っていたのでしょうか?或いは聖書というものを少しでも読んだことがあるのでしょうか?これらについて何か記録や彼自身が書き記したものがあれば、その書名と箇所を教えて下さい。

      ③日蓮大聖人と仏陀とはどちらが偉大なのでしょうか?

      ④日蓮正宗は、自分の持論を一方的に唱えて相手に押し付けよ、相手からの質問には一切答えるな、という教えなのでしょうか?

      ⑤私はオカムラトシオ様にお聞きしたい。そのような誰でも知っているただの常識に過ぎない事に一体何の魅力があるのでしょうか?そのような誰でも知っているただの常識に過ぎない事をそもそも信じる必要なんてあるのでしょうか?わざわざ信じなくても誰でも知っているただの常識ではないですか?そのような誰でも知っているただの常識を信じて何の意味や価値があるのでしょうか?

      ⑥オカムラトシオ様は、仏教を因果の内にある教え、因果律に則った教えである、また仏教というものは道理であると主張されますが、実際に仏陀が因果や因果律や道理について教えているのでしょうか?「因果」や「因果律」や「道理」という言葉が出て来る仏教の経典の箇所を具体的に明示して下さい。

      ⑦なぜ「聖母マリアが処女のまま懐胎した」ことと「処刑されたキリストが三日後に生き返った」ことを信じることが戦争を起こすことにつながるのでしょうか?

      ⑧私はオカムラトシオ様の言う、目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、いわば誰でも知っている常識と呼ばれるものに過ぎない「因果」と「因果律」と「道理」を信じる事を信仰だとは全く思いませんし、そのような信仰を否定します。なぜならキリスト教の信仰とは次のようなものだと聖書に書かれているからです。
      「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むのでしょうか。私達は目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマの信徒への手紙8章24-25節)
      「私達は見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節)
      「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。信仰がなければ神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者達に報いて下さる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ人への手紙11章1,6節)
      これが私の信仰です。オカムラトシオ様の「信仰」とはどのようなものでしょうか?また日蓮正宗の「信仰」とはどのようなものでしょうか?

      ⑨オカムラトシオ様が聖書を読まないでキリスト教を批判したり、キリスト教を「最初から破たんしている」などと虚言を吐く態度は、それこそ仏教の十悪における妄語(嘘をつく)・綺語(中身のない言葉を話す)・邪見(因果の道理を無視した誤った見解を持つ)に当たるのではないですか?「10のうちの3つとは、もうサイテーのサイテー」なのではないですか?

      ⑩仏教においても諸経典が書かれたのは仏陀が入滅した出来事の、時間的に後ではないですか?オカムラトシオ様は、「仏教は後付けで法華経を出した」とでも言うのでしょうか?

      ⑪橋を作ったり船を使えば、2メートルの幅の川を飛び越えられない人でも5メートル幅の川を渡れますよね?それも道理ですよね?

      ⑫日蓮正宗の目的は「普通に暮らす」ことなのでしょうか?日蓮大聖人はその人生において度重なる法難を受け、明らかに普通に暮らせませんでしたが、オカムラトシオ様の論理に従うと、彼は道理を弁えない人であるということになるのではないでしょうか?

      ⑬オカムラトシオ様は、目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」の中毒症状の人、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えることの中毒症状の人ですか?つまりオカムラトシオ様は、目に見える事のみ、五感で知覚し得る事のみ、経験し得る事のみを対象とした、狭く限定された、いわば近視眼的で卑小な「因果」と「因果律」と「道理」の奴隷、誰でも知っているただの常識に過ぎない「道理」を弁えることの奴隷ですか?

      ⑭オカムラトシオ様はVIP扱いされたいのですか?日蓮正宗はVIP扱いされるための教えなのですか?

      ⑮オカムラトシオ様こそ日蓮正宗は単なるアクセサリーに過ぎないのではないですか?つまりオカムラトシオ様にとって日蓮正宗はVIP扱いされるための教えであり、自分の価値を高めるアクセサリーとか人生の成功を保証するパスポートのようなものなのではないですか?

      ⑯なぜ相手からの質問に答えることが失礼になるのでしょうか?むしろ相手からの質問に答えない不誠実な態度こそ失礼であり無礼です。

      ⑰日蓮正宗は信仰のために命を投げ打った信者は果たしてどれ位いるのでしょうか?信仰のために実際に血を流し、実際に殺された日蓮正宗の信者は一体どれ位いるのでしょうか?

      ⑱オカムラトシオ様は「一体どこへ行くつもりですか?」と私に言いますが、私がどこへ行くかについては既にブログに書きました(福音の弁明と立証128参照)。主イエス・キリストの十字架の運命です。お読みになっていらっしゃらないのですか?

      ⑲私は「ストーカー体験」というタイトルの文章を自分のブログに書いてはいません。嘘をつくことは仏教の十悪の一つである「妄語(嘘をつく)」に当たるのではないですか?

      質問は以上です。
      繰り返して言いますが、上記の私からの質問19項目に全て、きちんと誠実にお答え頂けない限り、私はオカムラトシオ様を無礼な一方的交流の人であると見做し、オカムラトシオ様のコメントには一切応答致しません。
      末筆ですが、父と子と聖霊である三位一体の神が、オカムラトシオ様を憐れんで下さるように、心よりお祈り致します。

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